第一章 参
「まさか、こんなにコロッと蒼郡に行くって言い出すとは思ってなかったわ」
「では、何を期待していたのです?」
整備されていない砂利道を、小さな馬車でゆっくり進む。
妖異を恐れて、通り沿いには、ほとんど人はいない。
人家はともかく、田圃も畑もないので、見通しは良いものの、空と、太陽に焼かれた赤土しか視界に映らなかった。
ただ広いだけの退屈な道だともいえる。
早朝に南郡の紅令を出てから、既に太陽は中天にある。そろそろ次の町に入る頃だろう。
力の抜けた顔で、周囲の景色を眺めている彩凌は、完全に観光気分だ。
(悪気はないのよね)
それは涼雅にも分かっていた。
だが、何一つ告げられずに、置き去りにされた透花の気持ちを考えると、正直怒りに近い感情がこみ上げてくる。
「迷った挙句、渋々行くって言い出すと思ってたわ。そんなあんたの葛藤する様を私は、楽しみたかったのに……」
「何を迷う必要があるのですか?」
「はっ?」
涼雅の手綱を引く手が強張った。
「教院は安全ですよ。毎回のことですが、用心のために朱伊も置いておきましたしね。それに祥仕にはちゃんと手紙を残して来たのです。あれを読んでくれたら、私の気持ちも少しは伝わるでしょう」
「手紙ねえ……」
大法胤としての書状ならともかく、私的な手紙など書いたことのない彩凌だ。どんな内容だか分かったものではない。
「それに、蒼涯師が空位ですからね。蒼群で妖異の出現が頻発しているのは、多少、その影響もあると思います」
「……そうよね。結構、長い間、蒼涯師は空位だものね」
大法胤とはいえ、彩凌が他の教院の後継者を選定することが出来ないのは厄介だった。
三師は、その名と同じ経典を代々受け継ぐといわれている。
いくら彩凌が蒼涯師を指名したとしても、その経典を受け継ぐ器を持っていなければ、蒼涯師になることは出来ないのだ。
経典の内容を涼雅は知らないが、天来教の奥義が記されていると、耳にしたことがある。彩凌は「紅涯経典」を持っているはずだ。
……紅涯経典に選ばれたのだから。
「それに、南総院にもこんな手紙が届きましてね」
彩凌は懐から一通の書状を取り出した。
「何?」
涼雅は彩凌の許可も取らずに、三つ折りに畳まれていた手紙をばさっと広げた。
手紙には蒼郡の変異と、大法胤彩凌自ら来て欲しいという旨が能筆で書かれていた。しかし、差出人の名前がない。
「差出人は誰なの?」
「不明なんです。でも、急いで欲しいと書いてある。証拠も情報もなかったのですが、どちらにしても私は一度蒼郡に行かなければならないと思っていたところだったんです」
「……まあね。今までにない現象だとは思うのよ。行商で会った、蒼郡から逃げてきた人たちは、脅えていたわ。私が行った感触としては、差しあたって危険ということでもなかったけど、ただ、蒼郡の結界壁が破壊されてるらしくて、ほら、結界壁を内側から破壊するなんて、人間には無理じゃない?」
「確かに」
彩凌は、真率にうなずいた。
僧侶が妖異を退けるために張った結界の壁を「結界壁」という。天陽国のどの土地にも、町全体をぐるっと囲むように、この結界壁が聳えていた。石造りのものだったり、煉瓦作りのものだったり、形は大小それぞれだが、効力は僧侶の力量によるところが大きい。
すっぽり覆うことは出来ないので、空を飛ぶ妖異には効力がないと思われがちだが、実際は完全に町を包みこむように覆っているから、すべての妖異に対抗できる切り札なのだ。もっとも、常人に視認できるものでもないのだが……。
彩凌は南郡の紅令に巨大な結界壁を張っている。蒼郡も天陽国では、巨大都市の一つだ。そう簡単に壁は破れないように築かれているはずだった。
「大きな脅威になったら、それこそ厄介ですよ。良いじゃないですか。私は貴方に危険な妖異の情報を提供するように、お金を払って依頼している。貴方が、私が出た方が良いと判断したのでしょう? ならば、私は行かなくてはいけません。道案内お願いしますね」
確かに、嫌な予感はしている。
涼雅だって理由もないのに、透花に嫌がらせをするような人間ではない。
鳥の囀りに耳を傾けながら、彩凌は安穏とした面持ちだった。
適度な微風が彩凌の黒髪を揺らすが、きっとこの男の心は、少しも揺らいでいないのだろう。その点、生にも死にもあまり執着を持っていないような気がする。
「……あんた、そんなことだといつか死ぬわよ」
責めるように告げる。だが、反応したのは彩凌ではなかった。
――ごとり。
荷台の積荷から音がした。
「彩凌?」
涼雅は馬車を止める。振り向けば、既に彩凌は、後ろの荷台の方へ移っていた。
「私、最初から思っていたんですけどね。涼雅」
「はっ?」
「貴方、ちょっと荷物が多いんじゃないでしょうか?」
「失礼ね! 私はそんなに持ち歩いてないわよ。みんな身につけているもの。大体、この馬車用意したのは、あんたの……」
「……朱伊です……ね」
そこはかとなく、苦々しくその名を呟いた彩凌に、涼雅は何が起こったのか思い知った。
「もしかして?」
「祥仕、出て来なさい」
優しくも厳しい一声が上がると、積荷の半分を占めていた、細長い木箱が音を立てて開いた。涼雅は、御者台から苦笑する。
小柄な体を小さく丸めて木箱の中に納まっていた透花は、一人では出られないようだった。結局、彩凌の手を頼って脱出することに成功したのだが、そのばつの悪い登場の仕方は微笑ましいくらいだった。
「……ごめんなさい。お師匠様」
肩を落として、悄然とした表情の透花は、いつもの男装ではない。女物の着物を身につけている。それだけで涼雅には透花がどういう気持ちでここまでついてきたのか分かってしまった。
(彩凌のことが好きなのね……)
透花は、次の言葉も待たずに彩凌の袖を揺らした。
「私、お師匠様の仕事、そんなに危険だなんて思ってなかったけど、でも、涼雅さんが敵わない化け物なんでしょ! もしかして、お師匠様、し……」
「勝手に殺さないで下さいよ」
多分、そのあんまりの勢いに彩凌は叱りつける機会を逃したのだろう。
笑いそうになるのを必死で堪えているようだ。
「何でついてきたのかは、今更問いませんが、でも、とにかく危険なのは変わりないのです。お前だってもう十六歳でしょう。普通の人が法胤の張った結界の壁を越えて、旅をすることがどんなに危険なことか分かっているはずです」
「知ってます。「妖異」っていう名の化け物が襲ってきて危ないって、旅に出る人は僧侶が作った魔除けを身につけてないといけないって、聞きました」
「魔除けはあくまでも魔除けで、妖異を仕留めることは出来ません」
「……はい」
「お前はこの天陽国の姫君でしょう。お前の方こそ、万が一、妖異が襲って来て、その身が危険に晒されるようなことがあったら、どうするのです」
切々と語って、透花を納得させる。それが彩凌のいつものやり方だ。
しかし、今回ばかりは透花も折れなかった。
「……構いません」
「お仕置きしますよ」
「別に良いです。お仕置きくらい、いくらでも受けます」
涼雅も、そしてさすがの彩凌も絶句する。
中腰で立っている彩凌の袖を、透花は自分の方に引き寄せて離さなかった。
「勝手に出て行くお師匠様のほうが悪い! 最後に、お師匠さまと一緒に行かせてください。王宮に戻ったら、私、もうそんなに外に出ることも出来なくなってしまうんですから」
「祥仕……」
(最後……か)
涼雅は透花に同情をしている。妖異の危険もあるというのに、彼女は彼女なりに覚悟をして、彩凌の後を追ってきたのだ。それなのに、彩凌の方が透花から逃げてどうするのか?
(別れの一言くらい、直接言ってやるくらいの優しさがあっても良いじゃないの?)
しかし、あくまでも僧侶の姿勢を忘れていないのが彩凌の長所でもあり、最大の短所でもあった。
「涼雅、ここはもう結界の外で危険です。貴方は、一度祥仕を連れて紅令に戻って下さい」
「彩凌!」
「私は修行中の坊主です。馬車がなくったって、旅くらい出来ますよ」
暢気な声音に、心の見えない笑顔が張り付いている。じっとしていられなくなって、涼雅も荷台に移った。透花は彩凌の側から動こうとはしない。
正座して、憮然とした表情で彩凌を睨んでいる。
「お師匠様は、……最低です!」
必死で縋りついている透花が、彩凌には見えていないのだろうか。
(どうしたものかしら?)
返事を渋っていると、涼雅の頭上に穴が開いた。
「――あ」
びりりっと音を立てて、荷馬車を覆っていた天蓋の布が破れた。
「妖異?」
気付いた時は、壊滅的だった。巨大な黒い鳥が嘴で馬車を突き、荷台の床に穴を開ける。
「お、お師匠様!」
「ちょっと、何で! 妖異が襲ってくるのよ? 彩凌、魔除けの札は?」
咄嗟に、透花を抱え込んだ彩凌を涼雅は一瞥するが……
「――ああ。まあ、出て来たら、戦えば良いと思って」
「……な、何て、適当な」
そういうヤツだと分かっていたが、納得はいかない。
涼雅は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「おおかた、透花ちゃん宛の手紙を書くのに必死で……!」
「手紙?」
透花の疑問を退けるように、彩凌は意地悪く訊いた。
「じゃあ、涼雅は持ってないんですか?」
「馬鹿な……」
大法胤と旅をする一般人が、そんな心配をしているはずがないだろう。
荷馬車の後輪が破壊されて、荷台部分が地面に傾いた。
とりあえず、御者台に掴まる涼雅だったが、この騒ぎの中にあって、彩凌だけは嫌味なほど冷静だった。頭に被っている水冠と呼ばれる僧侶独特の帽子は、少しも乱れていない。
「祥仕、紅令は結界で守られているから、一度も見たことないでしょう? こういうモノが妖異なのですよ。結界壁を越えるとこういうモノに襲われる可能性が高いのです。分かったでしょう。大変危険なのです。彼らは人間の血を好んでいるんですよ」
人差し指を透花の鼻にくっつけて、反省を促す。
(――コイツ、重症だわ)
「課外学習している暇はないでしょう! もう、彩凌!」
やれやれといった風情で、天井のなくなった荷台から立ち上がった彩凌は、朗々とした声で、経を唱えはじめた。ざわっと、空気の流れが変わる。肌の産毛を微風が沿うような感覚が起こって、涼雅も透花も揃って肩を抱いた。
黒い大鳥が何度もこちら目掛けて襲って来るものの、彩凌が敷いた結界の中には入って来られない。
(可哀相に……)
涼雅は、彩凌が自分に押し付けてきた透花の横顔を見ていた。
――きらきらした尊敬の眼差し。
(益々、彩凌と離れられなくなってしまうでしょうね。……この娘は)
「唵!」
鮮やかな紅の数珠が端正な顔より高く掲げられる。途端に、妖異は何処からともなく出現した炎に飲み込まれて消失した。炎の残滓に、微かに頬を紅潮させた彩凌が振り向く。
「荷馬車……、壊れてしまいましたね」
「――あ」
「馬も逃げてしまったようです」
しんと、辺りは静まり返る。
「とりあえず、次の町まで歩きますか」
あっけらかんとしたその口調に、とうとう涼雅の手は震え出した。
「次の町って、大体誰のせいよ。ここから歩いたらどんなにかかるか、分かって………」
「涼雅!」
「――えっ?」
振り返ると、刹那、強風が涼雅の顔に激突した。
「な、何なの!?」
逆立った髪を手櫛で整える。頭上に飛来したのは、妖異ではない。
「――女……かしら?」
空高く飛翔する女は、どんどん移動している。その様は、まさに神速だった。
既に、涼雅の視界から消えようとしている。
「ちょっと、待って? 私夢見てるの?」
「涼雅さん、私も同じものを見ているんですけど……」
「二人共、それは夢ではないですよ」
数珠を握り締め、空を仰ぐ彩凌が小さく呟いた。
「何をしているの? お師匠様」
透花が戦闘態勢の彩凌に疑問を投げかける。
「妖異だったら、大変なことですからね」
「妖異!?」
涼雅は竦みあがった。
「嘘でしょ! 妖異っていうのは、本来獣の形をしているはずよ。私だって元坊主なんだから、妖異が何たるかくらい、知ってるわよ。あれが妖異だなんて!?」
戦慄を覚えながらも、涼雅は透花を抱えて、彩凌の後ろに隠れた。
何やら、こちらを覗っているようだった。
「……停止している?」
涼雅には最早、点くらいの大きさにしか視覚出来なくなっていたが、遠くの空にいる女の動きが止まったのは、分かった。
まだ、彩凌は何もしていない。両手の指を重ね合わせる寸前、術を仕掛ける以前の状態だ。しかし、呆然とする一堂の前で、女の体を透明な何かが包んだ。
「何?」
涼雅の質問に、目を丸くして、透花が呟いた。
「氷みたいです!?」
妖異はあっという間に、砕け散った………………ように見えた。
「やったの?」
「いや、逃がした」
「……えっ?」
透花と涼雅は顔を合わせた。
彩凌は、透花と涼雅の前にいる。
声の主は明らかに、透花と涼雅の背後にいるようだった。
「貴方は……?」
眉を寄せる彩凌の様子と、その聞き覚えのある声に涼雅はその人物が誰なのか潔く悟った。傍らの透花の顔が綻ぶ。
「延凌さま?」
「…………やっぱり、そうなのね」
呆然としながら、涼雅が透花の視線を追っていると、横付けするように、隣に荷馬車が止まった。
御者台には、一人の僧侶。首までの茶髪に、切れ長の細目。年は涼雅よりはるかに上であるが、鍛え抜かれた体は、少しも衰えていない。ゆったりとした法衣姿でも、逞しい肉づきが分かった。
僧侶……といっても、この国の場合は、戦闘的な意味合いが大きい。真の僧侶を目指している彩凌の姿は、その点異端ともいえる。
この国での正しい僧侶の姿は、「この人」なんだろうと、涼雅も思っていた。
「…………どうして、貴方がここにいるのです?」
ややあってから、繰り出された彩凌の質問に、三師の一人、黒涯師・延凌は、彩凌と同じような優雅な振る舞いで答えた。
「見ての通り、妖異退治だよ」