終章 参
宮殿の中庭を、我が物顔で闊歩する女性の背中を彩凌は追いかけた。
「志妃!」
典雅に振り返る景蘭は、相変わらずの優艶な笑みを口元に蓄えていた。
「せっかく王都に来たんで、この辺をぶらついてみようと思っているんだ。私がいない間に、随分と変わったみたいだしな」
景蘭はわざらしく、まったく関係のないことを喋った。彩凌は声を荒げる。
「何故、貴方は私を助けてくれたんですか?」
「……はっ?」
とぼけた声が、彩凌に核心をつくように、催促しているようだった。
「私は陛下に嘘を申し上げたのです。透花が妖異になるかもしれないなどと、嘘を……。見抜かれても良いと思っていました。もしばれたら、私は陛下のどんな罰にも従うつもりだったんです。まさか、貴方が口添えして下さるなんて思ってもいなかった」
景蘭は今思い出したかのように、手を叩いた。
「ああ。そのことか。別に、助けたつもりはないさ。借りを返しただけだ。百蓮の町では私が結界壁を越えたせいで、余計な妖異まで侵入してしまって、お前にも町人にも迷惑をかけたからな。それに、今回はお前のおかげで、久々に王都の結界壁を越えることが出来た。こうして、懐かしい王宮に来ることができたんだから、むしろお前には感謝しているんだぞ」
黄色い小さな花が盛りの庭園は、景蘭の存在に遠慮してか、はたまた困惑してか、誰一人いない。しかし、彩凌がここに来るよう、呼びつけていた弟子の朱伊が、宮殿から、こちらに、わざとらしく音を立ててやって来た。
「何だ。主人の出迎えか。朱伊?」
揶揄する景蘭に、噛み付くわけでもなく、朱伊は言い放つ。
「彩凌。騙されるな。こいつはお前に感謝なんかしてないぞ。こいつは、お前を試したんだ」
「何を言っているのですか?」
素直に、聞き返した彩凌だったが、景蘭はあっさりと認めた。
「まあな。あの時、お前のことを試させてもらった。透花を守りきれるかをな。もしも、あの時、もう少し、お前が私を止めるのが遅ければ、透花の体を、本気で乗っ取ってやろうと思っていたんだ」
「ふん。本気でお前が乗っ取るつもりだったら、とっととやってるだろう。散々周囲を巻き込みやがって、後々気付いた俺も愚かだったが、お前が悪の元凶だ」
「ですが、志妃。貴方の体はそんなに長くは持たないと?」
「もしも、力尽きたら、その時私は消滅するだけだよ。昼寝用に保存していた蒼涯経典もなくなってしまったことだしな。長く生きてきたんだから、いい加減、天命だろう。出来れば、妖異がなくなった世界を見届けたかったが……」
景蘭は掌の上で風を操りながら、朗らかに笑った。
「私は透花の体を乗っ取ろうと、途中まで本気で思っていたんだ。さっきも王の前で言っただろう。天陽国の王女は、そういう宿命も持っている。この体の少女も、そうして私のために、犠牲になったんだ」
「まさか、貴方は自分の憑坐になるよう、生まれた子供に、仕組んだんですか?」
「――私は母親だ。我が子に不幸な道を歩ませるつもりはない」
「志妃……」
「だがな。娘を見た時、私がそんなふうに残酷なことに気付いたのは事実だ。私の生んだ娘たちは、他の妖異のように、力を自制することができなかった。結果的には、僧侶の念石があれば、人間でいられるとは分かったが、それが分かったのは二人目の子供の時だったよ」
その背中が本性は妖のくせに、彩凌には彼女が酷く儚げに見えた。最愛の夫・翔禅も、子供達もいない世界で、景蘭はずっと一人で戦い続けてきたのだ。その苦しみと悲しみは彩凌などにはとても、想像がつかないものなのだろう。
「この娘はな、弱った私に平気で体を差し出してきた。当時、この娘を育てていた蒼涯師もまた、存分に使って欲しいと、恐ろしいほど、あっさりと差し出してきたものだ」
「そんな……」
信じられないと、声を震わせながらも、彩凌は、それこそが正しい大法胤のあり方であることを知っていた。知っているくせに、つい先刻、その覚悟を、宋寧に強制したのは彩凌だ。
(一体、私は何をしているのだろうか……)
しかし、景蘭は彩凌の心根を見透かしたように、一言した。
「恥じることはない。お前は大法胤として間違っているかもしれないが、男として間違ってはいない。私は嬉しかったんだ。私の中にいる娘もまた喜んでいたぞ」
さらさらと吹き抜ける微風に、透花によく似た銀灰色の髪がざわめいた。
「人が穏やかに理性を保ちながら、自由に生きられる国が重要なんだよ。大法胤・彩凌。そして、それこそが、この体の娘の願いなんだ」
景蘭はそう笑い、虚空に絵を描いた。鰐の口のような絵だった。
「これが世界だよ」
そして、呑気に、その下方を指差す。
「天陽国がこれ」
景蘭は自分の描いた見えない線をなぞった。小さいなと、彩凌は思った。小さな逆三角形の国だった。
「この国が他の国と断絶しているのは、妖異が出現するせいだ。そのせいで、良くも悪くも、人間同士が戦争するということは、ほとんどない。でもな。だからって、外国のことも知らず、ただ妖異のことに頭を悩ませていたら、この国はどんどん駄目になる」
広い世界。景蘭の脳裏に映されている世界の地図は、果てしなく大きいのだろう。
「だからな。私も、もう少し頑張りたいと思う。私達は死んだら塵になってしまう。だから、なかなかその体の仕組みを確かめることは叶わんが、でも、いつの日か、どうやったら、妖異が意識を正気に保てるのか、解明できる日が来るのかもしれない」
「志妃、貴方は……」
「なあ、彩凌。ちっぽけだろう? 世界に比べれば、お前もこの国も、ひどく小さいものだ。だからこそ、与えられた運命など、壊して足掻けば良い。お前はお前の気持ちに殉ずる覚悟があれば、それだけで良いんだ」
「えっ?」
意味深な言葉だった。何を言っているのか?
彩凌は景蘭に対して頷くことができなかった。
この期に及んで、その言葉の意味が理解できないふりをしたかった。
彩凌は心のまま動くことの愚かしさを延凌の中に見ている。
感情的になることが危険なことだと理解しているくせに、自分は狡猾な手を使ってでも、透花を手中に置こうとしている。罪悪感に苛まれながらも、透花を見ればどうにもならないのだ。
彩凌は、背中を向け、手を振っている景蘭に、改めて一礼をして、その場を去った。もしかしたら、景蘭の言葉をこれ以上聞くのが、自分の本心を見せ付けられるようで、怖かったのかもしれない。ゆっくりと、歩を進める彩凌の袖を、朱伊が掴んだ。
「まったくもって、間抜けな面をしているな」
「はっ?」
いきなり何なんだ?
彩凌が首を傾げると、朱伊は盛大に溜息を吐いた。
本当、人間臭い妖異だ。
「……たく、お前は自覚と経験値がないから怖いんだよな。ある意味、祥仕の方がお前よりはるかに大人になっちまったかもしれない。女は成長が早いっていうしな。……ふられるなよ」
「朱伊。それは、どういう意味で。何で私がふられるんですか?」
「気にするな。。行くぞ。師匠。あいつが待ってる」
「はあ」
無愛想なくせに、気の利いた台詞をかけてくる弟子に、彩凌はやがて苦笑した。
「……師匠、か」
かつて、彩凌もそう仰いだ人がいた。その人は自分に、僧侶としての心構えを叩き込んでくれたが、他のことを教わる前に、突然この世から去ってしまった。
「貴方は、私に何も教えてはくれなかったじゃないですか? 師匠」
彩凌はゆっくりと立ち止まり、蒼空に視線を移した。
今回のことは一時凌ぎにしかならない。
いずれ透花は彩凌のもとを離れていく。
――所詮、眼前に広がる空のように、遠く、手が届かない存在なのだ。