終章 弐
白叡宮の謁見の間は、純白の空間だった。
壁紙も床もすべて白一色だ。
唯一、玉座だけが緋色で、そこに、着席した宋寧の緑の衣装だけが派手に色づいていた。
「通しなさい……」
宋寧の後ろで、命じられた家臣は、背筋を伸ばして立ち上がり、外で待機している人物を、導いた。玉座は数段の階段の上に設けられている。宋寧はやって来る人物を見下ろしつつ、温和な笑顔を浮かべた。
瞳の色と揃いの紫の法服と、金色の袈裟を着用した若い男は、優雅に宋寧の視線の先に腰を下ろし、一礼する。
男なのに、相変わらず麗しいことだと、宋寧は思った。
一見すると、柔らかい面差しは、女のようでもある。若いと言われることは、多々ある宋寧だが、美麗だと言われた試しはない。
「久しいな。彩凌殿。近々儂の方から出向こうと思っていたんだが、今回は蒼郡の一件のことで出向いて頂いた。事が公になってしまった都合で、このような堅苦しい形となってしまったが、そなたと儂の間柄だ。近臣しか侍らせておらぬ。楽にして下され」
「有難いお言葉、痛み入ります。こちらこそ、多大なご迷惑をおかけしまして、お詫びの仕様もありません。蒼郡に関しましては、陛下のご助力もありまして、大分落ち着いてきたようで」
「それは良かった。しかし、黒涯師があのような愚昧な行動を取るとは、思わなんだ。僧侶間のことは、貴方に一任していますが、今後、どうされるおつもりですかな? 儂としては、出来れば蒼涯師を……」
言いかけた宋寧の言葉を予想していたように、静かな一言が遮った。
「蒼涯師には、候補として、蒼郡に素良という僧侶がいます。彼を正式に蒼涯師に任命するには、まだ力足らずですが、暫く候補として見守りたいと、私は思っています」
「……彩凌殿」
出鼻を挫かれた格好になってしまった宋寧は、神妙に頷くことしか出来ない。彩凌は、そのまま流れるように、言葉を続けた。
「黒涯師は……、今の地位に置くことは出来ません。黒武院の法主が法胤となりえるか、私が一度赴いて、見極めるつもりでいます。ですが、それでも延凌様は優れた僧侶です。活動の場はあるはずです」
「裏切られても、庇う。殊勝な心掛けですな」
半ば、感嘆と呆れが混じった声で、宋寧は言った。
彩凌はあっさりと、自分の更なる昇進を蹴ったのだ。更に、自分に恨みを抱いて攻撃を仕掛けてきた男を庇っている。
僧侶というのは、凄まじいものだと、宋寧は、微苦笑しながら、自慢の口ひげを撫でた。
「分かりました。そのようになさって下さい。古来より僧侶が政治に口を挟むことは禁じられていますが、国王が僧侶の世界に物を言うことも同様に禁じられていますからな」
「有難うございます」
頭を下げると、彩凌の黒髪がはらりと音を立てた。
(話は終わりか)
宋寧は感じていた。今回の騒動に関しては、色々とあったが、一応は僧侶間の騒動だ。宋寧が口を挟む余地はない。
重要な用件は、彩凌がすべて話してしまった。世間話でもしようかと、腰を浮かせる。身近な話をするのには距離が遠かった。近しい会話をする時、宋寧は場所を移すのが常だった。
「では、彩凌殿。行きましょうかな? まだお時間はあるでしょう? 透花が南総院に行ってしまった時は、儂も人生の終わりのように焦って、芳花を叱りつけた程でしたが、無傷で戻って来てくれたのは本当良かった。いい加減、成人の日取りを決めたい。相談に乗ってくれますかな?」
宋寧は父の顔になって、いそいそと近臣に目配せした。しかし、いつも無駄に笑顔を振りまいている彩凌は、口を開かなかった。姿勢正しく座ったままだ。
「彩凌殿?」
「陛下……。その透花様のことで、話があります」
宋寧は目を白黒させながら、彩凌の威圧に従う形で、再び玉座に戻った。
「はて? 透花は王宮で慣れないながらも、元気にしていますよ」
報告によれば、透花は延凌と彩凌の戦いに巻き込まれたそうだ。幸い怪我は一つもなかったし、本人も何も言わないので、宋寧はその件は決着したものだと、綺麗さっぱり片付けていたのだ。だが、彩凌はゆっくりと首を振り、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。陛下。延凌との戦いの際、透花様は念石をはずしてしまったのです」
意味が分からない。宮殿独特の張り詰めた空気の中に、宋寧の呆けた声が響いた。
「念石がはずれて、一瞬だけ妖異に近づいてしまったことは透花から聞いている。しかし、儂はその件で、そなたを責めようなどと思ってもいないぞ」
「……それは。私は責められても、仕方ないと思っています。透花様は成人を前にして、妖異に立ち返ってしまった」
「ど、どういうことだ?」
狼狽して、せっかく座り直した玉座から立ち上がってしまった宋寧に、彩凌は暗い面持ちのまま、答えた。
「もしかしたら、透花様の中で、妖異の血が活性化してしまったかもしれません」
「何だと? では、透花は、再び妖異になってしまうというのか?」
「分かりません。しかし、今しばらく様子を見る必要があるかもしれません」
「つ、つまり、透花を今一度、教院に戻せということか?」
宋寧は自分で口にした言葉に、放心状態になった。何てことをしたのだと、今更恨みに似た感情がこみ上げていた。
「それは、いかん。いかんぞ。ようやく透花は帰って来たのだ。それにな、いつまでも王女不在では、国民が納得すまい。無理だ。透花は王宮の僧侶達に命じて面倒を見せる。それしかない」
宋寧は激しい口調で捲くし立てた。そう簡単に娘を手放せるはずがない。今まで離れていた分、これからは親として、透花に出来る限りのことをしてやるつもりだったのだ。
言いたいことを出し尽くし、息切れをして、肩を上下させている宋寧に対して、彩凌は冷ややかなくらい静かに進言した。
「陛下。熟考を……」
宋寧は命令するしかないと思った。いくら大法胤であっても、「しきたり」を越えて、宋寧の意に背くことは出来ない。
……だが。
「やれやれ」
女の低いが、艶のある声が、遮断するものがない謁見の間に響いた。
「何ごとだ?」
血走った眼で、入口に視線を走らせた宋寧に、黒い着物姿の女性は挑戦的に現れた。
「やはり、こうなると思っていたんだ。忍び込んで正解だったな」
国王よりも偉そうな態度で、玉座への道を真っ直ぐ進んで来る。女は何が楽しいのか、顔に張り付けた微笑を崩そうとはしなかった。宋寧は怒りを通り越して、唖然としてしまった。
「宋寧よ……」
いきなり、呼び捨てだ。
「そういうふうに、大法胤が言い張っているんだ。少しくらい透花が教院にいる期間を延ばしてやってもいいだろう?」
「だから、それは、ならんと今申したはずだ。いや、それよりも、そなたは誰だ?」
家臣も、そして宋寧も混乱の只中にいた。何をどう聞いて良いのか分からなかった。
「景蘭だ」
「知らぬ」
そんな名前、聞いたこともない。一蹴した宋寧は、この景蘭と名乗る女性の処罰をどうするべきか考えていた。
しかし、景蘭は悪びれた様子はなかった。むしろ、睨みつける宋寧が悪いとでも言い出しそうな様子だった。銀灰色の髪が景蘭の動きに合わせて、ゆらゆらと揺れる。
「歴代の国主には伝わっているはずだが、志妃は妖異だ。妖異は目的もなく沢山の国民の命を奪っている。同胞の罪を、償うために命ある限り生き続けようと誓った志妃は、いざとなったら、自分の力を強く受け継ぐ第一王女の体を貰い受けるから、国王になったら覚悟をしろと、子孫に伝わるよう強く言い渡している」
宋寧は顔を歪めた。そんな話を父親から聞いたかもしれないが、思い出したくもないことだった。それに、家臣が本気にしてしまったら、とんでもない。
「この者を……!」
しかし、捕らえろと、命令するはずだったのに、家臣たちはみな倒れていた。
いびきが聞こえるので、眠っているらしい。
(……一体、何の術を使った?)
押し黙っている宋寧を見下すように、景蘭は言葉の刃を浴びせた。
「血筋を尊び、国主の座に就き、国民よりも豪奢な生活を送るのなら、覚悟の一つもしたら、どうだ? なあ、宋寧」
「……そなたは、本当に何者なんだ?」
景蘭は宋寧の直ぐ側まで迫っている。宋寧は腰に帯びている剣に手を這わせながら、景蘭を待ち構えるしかなかった。
「さ、彩凌殿! そなたは、この娘の正体を知っているのだな?」
困却して、彩凌に助けを求める。
――と、彩凌は頭を上げて遠回しに言った。
「その方は、始王、翔禅様のお妃様でいらっしゃいます」
(――え?)
呆然と直立している宋寧の目前にやって来た景蘭は、宋寧を押しどけると、鮮やかに玉座に腰かけた。
「……あっ」
「白叡宮とは、懐かしい」
長い脚を組み、脇息で頬杖をつく。景蘭は和んでいる様子だった。その時になって、宋寧は目を見張った。
「な、何? では、景蘭とは?」
「それが私の名前だ。志妃とは、後世の者が私に名付けた尊号のようなものだよ」
宋寧は驚きのあまり、よろよろとその場に崩れ落ちた。