終章 壱
命は繋がったが、すべてを失った。
延凌は、白叡の郊外にある小さな教院に、起居していた。いまだに動けないし、残った命もあと少しである。
……最悪だ。
それでも、黒武院に残してきた弟子が一目を盗んで、延凌に会いに来る。
(……これでよいものか)
もしも、体が自由になるのなら、延凌は即刻ここから出て行っただろう。しかし、間々ならない体は、延凌の言うことをきいてくれない。結局、なすがままになっている。
……そして。
「いい加減、帰ったら、どうだ?」
延凌は枕頭に座る極彩色の影に、本音を訴えた。しかし、影は身じろぎもしない。
「やっぱり、寝たふりだったんですね」
確信めいた一言に、糸のような目を見開いた延凌は、視線を合わせずに、悪態をついた。
「その甘ったるい声を聞くと、頭が痛くなるんだよ。分かったら、帰ってくれ。涼雅」
しかし、涼雅は哄笑して取り合おうとしない。延凌の次の言葉を待っているようだった。
「くそっ。一体、何がおかしいんだ? 命拾いした俺を嗤っているのか?」
それなら、むしろ良いと延凌は思った。憐れみを土産にここを訪ねて来る、弟子に比べたら、まだ好感が持てる。涼雅は笑いながら立て付けの悪い、引き戸を開けた。
都とはいえ、郊外は何処も似たようなもので、懐かしくなるような田園風景が広がっている。今まで外の風景を一度も見てなかった延凌は、久々に出会った自然光に目を細めた。
「最初から、そういう方でいらっしゃれば、良かったのに」
涼雅は外の陽気と同じように、穏やかな声音でそう言った。
「そうしたら、貴方はあそこまで追い詰められなかったでしょう」
知ったような口を利くなと、叫び出したかった。しかし、傷と病のせいで全身の力が抜け落ちてしまっている延凌は、今更涼雅を責めることも億劫だった。それに、多分その通りだったのだろう。己で自覚をしながら、肩の力を抜いて生きることが出来なかったのだ。
「不器用な方だったんですね……」
「ふん」と鼻を鳴らす。
布団の中から、見守る世界は新鮮だった。橙色に染まる山並みに、鳥の群れが帰っていく。今までの延凌には、澱んでいるようにしか見えなかった世界を、夕陽が照らし出す。
季節感に乏しい天陽国だが、こんなふうにしていると、春がもう訪れていることに気付かされる。
……こんなにも美しいのだと、何故今頃、気がついてしまうのだろうか。
「私は昔から貴方が苦手でした」
「気が合うな。俺もだよ」
憎まれ口を叩きつつ、涼雅は過去の記憶を追っていた。涼雅は彩凌と同じ時に入門してきた男だった。いけ好かない少年だと思っていた。
延凌は自尊心と、自負心が強い。子供とて、実力があれば、互角に眺めてしまう癖がある。涼雅は当時彩凌よりも期待されていた僧侶だった。延凌も涼雅の実力を認めていた。だからこそ、不快に感じるほどその姿を観察していたのだ。
「お前は、期待されていながら、半端で逃げ出した」
「半端は、いけないことでしょうか?」
涼雅は開き直ったように、問いかけた。答える隙を与えずに、言葉を紡ぐ。
「……貴方は、正しい一本の道を進むことが人の道だと思いますか?」
穏やかな声音が延凌の心を揺さぶった。年下のくせに……と、侮りながらも、延凌は耳を澄ますことを、やめなかった。
「曲がりくねった道を通ることも、面白いのでは? すべての矛盾を飲み込んでいるからこそ、この国は美しいのではないでしょうか。私はそう思いますよ」
「説教か?」
「単純な私の意見ですよ」
ひらりと、重そうな外套を羽織った涼雅は、女物の着物を男らしく着こなしていた。
延凌は自嘲した。いつも何処か小馬鹿にしていた涼雅が大きく見えたのだ。
「元気になったら、蒼郡の町をちゃんと復興させて下さいね。貴方の誇りにかけても」
そんな希望も、見込みもないのだが、延凌は目だけ笑う。
「私は貴方のやり方がすべて間違っていたとは思ってませんよ。だから、私は今の貴方には好感を持っているんです」
「やめろよ。気持ち悪い」
延凌は涼雅の視線の先が何処に向かっているのか、知っていた。
「立ち向かわなければ、解決しない問題もあります」
外界を阻むようにして連なる稜線の先には、白叡の都がある。今頃その都にいるだろう人物を思い描いて、延凌は呟いた。
「直視したら、俺のように逃れられなくなるぞ?」
「それもまた、面白いじゃないですか」
引き戸の前に立った涼雅の影が、延凌の顔を越えて長く伸びていた。




