第五章 肆
熱風が大地を焦がし、教院の屋根はすべて吹き飛んだ。庭の木々が丸ごと、攫われていく、混乱が続いた。目も開けていられない。凄まじい力の果てに、彩凌は声を嗄らした。
「朱伊! 延凌様!」
急速に、緊迫した空気が収斂されていく。朱伊は元に戻れないのか? 延凌はまさか死んだのではないだろうか。
「彩凌……」
腰を抜かした状態で、涼雅が呟いた。闇の中にちらついていた炎が小さくなっていく。彩凌は菫色の瞳を大きく瞬かせた。
――誰かが立っている。微かに見えるその立ち姿は。
「朱伊!」
彩凌は安堵した。着物はぼろぼろだったが、一応、朱伊は肉体を維持したようだった。
「お前の言う通り、手は抜いた。延凌は無事だ」
朱伊が指を差すと、庭のはずれで、倒れている延凌の姿が見えた。気を失っているだけのようだ。
「良かった……」
安心して彩凌は肩を落とすが、ずかずかと、こちらにやって来た朱伊は、凶暴な顔つきのままだった。
「何、ぼさっとしてんだ! 祥仕は目覚めたのか!?」
彩凌ははっとして、振り返った。涼雅もすぐさま、視線を移す。倒れている景蘭のすぐ傍らで眠っているのは、透花の姿だ。だが、中身は分からない。もしかしたら、景蘭が入ったままかもしれない。
「祥仕……」
ハッとして、転がるように、彩凌は透花のもとに駆け寄った。
「しっかりしなさい! 透花……」
力の抜けた透花の体を、すぐさま抱き起こす。一向に目を覚まさない少女にやきもきして、彩凌は揺さぶる勢いを強くした。
「お願いです。透花」
透花の胸元で彩凌はうなだれる。乱れた長い髪がばさっと、前のめりに落ちた。
もしも目を開いた時、透花がどこにもいなかったら、どうしたら良いのか。彩凌はおかしくなりそうだった。彼女をここまで追い込んだのは、紛れもない彩凌だ。言葉が足りなかったのだ。まさか、こんな行動に出るなんて、予測もしてなかったのだ。
膝の上に乗せた透花の小さな体は、軽かったが、薄っすらと化粧をし、姫君の装束に体を包んだ透花は、綺麗だった。本当に美しいと思ったのだ。この感情の名前などどうでも良い。弟子だとか保護者だとか、そんな鎖は吹き飛んでしまえば良いと願った。
(……失いたくない)
「透花……」
そっと透花の頬を撫でると、温かい雫が彩凌の掌を伝った。
……涙だった。濡れた長い睫毛がゆっくりと開かれる。彩凌は息をのんだ。
「お……師匠さま?」
月色の瞳が、ふわりと微笑した。
(……ああ)
言葉にならなかった。やっと、自分の手元に返ってきてくれた。
そして、ずっと心の奥底で縛り付けていた、どうにもならない感情が、一気に壁を突き破っていくのを彩凌は感じていた。
熱くなっていく心を隠すように、彩凌は透花の背中に手を入れて、強く抱擁した。
延凌は、彩凌を羨ましがり、恨んでいた。だが彩凌にだって、手に入れたくても叶わないものがある。それは、延凌と同じように彩凌の手には届かないものだ。
月明かりの下、景蘭が上体を起こした。彩凌は、王宮の僧侶たちがやって来るまで、透花を放そうとしなかった。




