第五章 弐
「この馬鹿! いい加減、起きろよ」
ああ、うるさいと思いながらも、彩凌は目を開けた。橙色の髪が闇の中にぼんやりと見える。
――朱伊がいた。
「もう少し、眠りたかったんですけどね」
着物に付着した木片を払い落としながら、彩凌は板の間から、のそのそと立ち上がった。怪我はない。
しかし、一瞬とはいえ、自失していたのは不覚だった。
すぐ横には、金色の立像が穏やかな表情で佇んでいた。「天来教」の本尊である「天尊」の笑み。忌々しいほど、静かに鎮座している像に、彩凌は深い溜息を吐いた。
「本堂の中まで、吹っ飛ばされましたか」
しかし、この程度で済んだのは、延凌が攻撃の手を抜いているからだろう。本気になった延凌は、こんなものではないはずだ。
……と、冷静に考察している彩凌の頭をぱんと叩く手があった。
「何、ぼおっとしてやがる。現状を把握しろ!」
がなり立てる朱伊の指の先には、黒い妖異、左玄が全身の毛を逆立てて、威嚇していた。
背後は彩凌が飛ばされても破損しなかった厚い壁がある。逃げ場がない。今まで朱伊が彩凌を守ってくれていたようだ。しかし、彩凌は感謝の言葉は言わずに……。
「いくら、お前が火属性だからって、ここで火を放ったりしたら駄目ですよ」
説教になった。朱伊は肩を落としつつ、彩凌の忠告を無視して、掌から火を放つ。
「ああ、朱伊!」
「ふざけてんのか! お前は」
朱伊の放った火を越えることが出来ずに、左玄が怒りの咆哮を上げた。
「こうしている間にも、延凌が祥仕とかカマ野郎を狙っているかもしれないんだぞ!」
「大丈夫ですよ」
彩凌はあっさりと言ってのけた。
「延凌様の狙いは、あくまで私でしょう。いくら何でも、無関係で、無力な祥仕や涼雅を狙うはずがありません」
「このっ。天性の呑気者が……」
気の短い朱伊は、地団駄を踏んで彩凌を叱り付けた。
「何処までお人好しなんだ。いや、まあそれはいい。まず第一に、このままでいたら、こんな数合わせの妖異に、俺たちがやられちまうかもしれないんだぞ」
「黒涯経典は、数合わせだったっていうんですか?」
「この妖異の性質を見てみろよ。口も利けないんだぜ。進化していない証拠だ。大体、黒涯師自体が、存在してなかったんだ。それを、紅涯師だけは不便だろうと、補佐役を作った。……志妃が全面的に悪い」
「そんな裏事情。知っていたのなら、私に教えてくれたって良いじゃないですか……。大体お前は途中から景蘭が絡んでいるって気付いてたんじゃないですか?」
「ふん」
朱伊はそっぽを向いた。
「何で聞かれてもないことを、ぺらぺら話さなきゃいけないんだ」
(……そういうところは、まるで、子供のようだ)
彩凌は溜息をついた。
「では、改めて聞きましょう。お前と景蘭は、どういう繋がりなんです?」
懐から四枚の札を放って、四方を囲み、左玄を足止めする。
話を聞く姿勢を万全整えた彩凌を見て、朱伊は完全に呆れていた。
「……ただの昔馴染みだ。同胞といったところだよ。こちらに来た時、正気を保っていたのは、俺と景蘭くらいのものだった。今回会ったのは数百年ぶりか……。何にしてもいけ好かないヤツに違いない」
「はあ。それで、お前は彼女と仲違いでもして、経典に収まっていたんですか?」
「ただ俺は、眠ってただけだ。それを、志妃にうまく使われちまったんだよ。くそっ。そんなことより、いい加減、現実を見ろ。カマ野郎にも言われただろう?」
憎まれ口を叩きながら、朱伊は透徹した眼差しで、彩凌を睨んだ。
「お前、延凌と戦わないっていうのは、情だけじゃないだろう? 俺が今一度、本来の姿に戻ったら、二度とこの姿に戻れないと、そう思っているんじゃないのか?」
彩凌は何も言わない。朱伊は、彩凌が召喚した時から、同じ姿だ。
本体に戻ったことはない。
元々、呼び出しても、こちらの世界に居座ることはなく、長い間、経典の中で眠り続けていたらしい。
――不思議な経典だな……。
彩凌が最初に感じたのは、それだった。
十六歳になった彩凌は、唯慧に最終試練だと言って渡された巻物と対話していた。人の言葉を話す巻物。それが紅涯経典だった。
もっとも中身が妖異だということは聞かされていたので、彩凌の話す言葉は、ほとんど恨み言だった。
ある日、彩凌は率直に朱伊に言ったものだった。
『こんな紙の中から、妖異を呼び出せたから、何だって言うんです? 馬鹿げていますよ。この巻物の紙を、もっと僧侶の間に広めて下さい。妖異が封印できるなら、余計な殺生はなくなるじゃないですか?』
それを聞いた朱伊は、「面白い」と一笑し、この経典を作っている紙は、今のこの世界の技術では無理であることを教えてくれたのだ。
『馬鹿げている。確かに俺もそう思っている。面白いな、小僧。俺は決めたぞ。しばらく、人間の世界にいるとしよう』
それ以来、朱伊は経典から出て、人の形のまま、彩凌の弟子という立場で教院に身を置いた。実態は弟子でも、折伏して手に入れた妖異ではない。
彩凌だって、最初はぎこちなかった。しかし、今では長年つきあってきた戦友のように、心を開いているのだ。
本物の「妖異」に変化させたくない。
彩凌は唯慧から教えられた。
紅涯経典は一度元の姿に戻ったら、再び、人の形を取るのは難しくなる。新たな「人間」の器が必要になるのだ。朱伊が今人の形を取っているのも、昔に人の体を乗っ取ったためである。
彩凌が人間を犠牲に出来ないのなら、朱伊は、経典の中に戻らざるを得ない。まさか、妖異のために、無辜の人を犠牲にするわけにはいかない。しかし、ここで延凌の挑戦を、かわして逃走するわけにもいかなかった。
「封印を解け。彩凌。少しの時間であれば、俺はこの姿に帰ることが出来るはずだ。志妃に比べれば、俺の休息時間は長いわけだし。少しならこの肉体も持つ」
「……しかし」
「俺が信じられないのか?」
彩凌は握り締めていた紅の数珠を、額に寄せた。
「唵!」
飛び掛ってきた左玄の大きな口中に、火の玉をお見舞いする。が、痒い程度にしか、左玄にはきいていないようだ。このままではいけない。分かっている。
(……分かっているのに)
彩凌は、次の左玄の攻撃に備えた。しかし、今まで彩凌の放った炎を掻い潜り、喉を鳴らしていた左玄はもういなかった。
跡形もなく、消えていたのだ。
「な……に?」
目を疑いながらも、即座に、彩凌は朱伊を伴い、本堂の中を炎と瓦礫を避けながら走った。何故、左玄が消えたのか? 術者である延凌の身に何か起こったのか?
(それとも……)
新たな敵が生まれ、そちらに標的を変更したからか……?
どんな予測も出来ない。鮮血の伝う肩を抱きながら、彩凌が外に飛び出すと、鋭い稲光が夜空を駆けていた。
「……志妃」
血相を変えた朱伊がうわごとのように呟く。本堂の前の庭園は、広大だが、つづまやかに出来ている。特に何もない。あるのは、「無」の思想を表しているという、白い砂利だけだった。その砂利の上に透花が立っている。暗闇の中でも、しっかりと分かるのは、透花自身が発光しているせいだ。
「祥仕が封印を解いたのですか?」
「そんな生易しいもんじゃねえよ。景蘭が祥仕を乗っ取ったんだ」
「どういうことですか!」
「お前が悩んでいる、まさにそれだよ。景蘭は蒼涯経典だ! 祥仕は景蘭のために、犠牲になるっていうことだよ。景蘭が元の姿に戻れば、祥仕の意識は粉々に壊れる。あいつは、あいつでなくなっちまうんだ」
「なっ……!?」
本堂から、透花のいる位置までは、まだ少し距離がある。
前方に、へたりこんで四つん這いになっている涼雅の大きな背中が見える。
彩凌は必死に走った。
朱伊は彩凌より僅かに遅れてついてきた。
延凌がほくそ笑んでいる。
彩凌の存在に、気がついたようだった。
そうして、わざとらしく左玄を透花に……、景蘭にぶつけた。景蘭はひらりとかわすものの、左玄の武器は鋭い歯だけではなかった。口から吹雪を発生させる。景蘭は舌打ちした。左肩が凍り付いていた。
「透花!」
叫んだ声は悲鳴そのものだった。もう祥仕の名前で呼びたくもなかった。
あれは、景蘭であるが、透花の体だ。
(憎い)
透花まで巻き込んだ景蘭を、そして、延凌を……。
彩凌は心の底から憎く思った。
初めてだった。妖異以外に、そんな感情を抱いたのは……。
透花は銀色に染まっていた。景蘭が奥の手を出すことを決定したのだろう。透花のおろした髪が、自ら起こした風に揺れて、次第に伸びていく。
「……まさか、景蘭の元の姿は!?」
前へ……、震える手を伸ばしつつ、彩凌は呻いた。
――妖異の本性は「獣」。
人ではない。
今更ながら、彩凌はそれを痛感した。雷鳴と共に光が落ちる。透花になった景蘭は、まだ本来の姿には変化していない。しかし、彩凌は容易にその本性を想像することが出来た。
唯慧師から、幼い頃に聞いた伝説の神。大蛇に翼や角の生えたとてつもなく大きな動物。
「――龍!」
(……一体、どんな世界なんだ?)
朱伊と景蘭のいた世界というのは……。
刹那に思いながらも、彩凌は荒れはじめた暴風の中で、透花の腕をしっかりと掴んだ。
「貴方に透花はやれません!!」
透花は、いや景蘭は、そんな鬼気迫る彩凌の相貌を目の前にして、柔らかく苦笑した。