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天妖の姫君  作者: 森戸玲有
第五章 決着
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第五章 壱


やっと、長い階段を上って、辿り着いた本堂で、涼雅と朱伊が目にしたのは、めくるめく師弟愛の光景だった。彩凌は透花を放そうとはしない。


「ああ、本当に良かった。祥仕……」

「……お、お師匠様?」


 息が苦しいのか、透花の声は半分咽ていた。


「――何よそれ」


 涼雅は一気に脱力する。一緒だった朱伊は無表情で腕を組んでいた。


 長い道程だった。

 蒼郡(そうぐん)で、延凌が透花を狙うかもしれない可能性に気付いた彩凌は、一路白叡に向かった。しかし、その途中でおかしな噂を耳にした。


宋寧は蒼郡だけではなく、南総院にも王宮の僧侶を派遣するという。

おかしな話だ。


蒼郡の変事に精鋭の僧侶を送るならともかく、南総院の主は彩凌だ。彩凌と朱伊がいない南総院は、無人のはずである。


まして王宮の僧侶は都の警備が専門だ。それが二手に別れて、派遣されることなどないはずだ。


もしや、延凌は南総院にいて、透花もまたそちらに向かっているのではないだろうか。

 白叡が近づいてきた時、南総院に大挙として向かう僧侶たちを目の当たりにして、その悪い仮説は、真実へと変わった。とても尋常な僧侶の人数ではない。

 よほどの異常事態が南総院で起きているのだ。


……大変なことになった。


今でも、血の気がひいて、卒倒しそうになった彩凌の蒼い顔を覚えている。

 それからの馬車は、もう馬車ではなかった。馬をつぶさずに済む、ぎりぎりの速度を出しながら、紅令まで飛ぶように戻ってきたのだ。


「間一髪と言ったところ……かしら?」


目前の馬鹿っぷりは想像していなかったが、涼雅は、胸を撫で下ろし、安堵の余韻で倒れそうになっている彩凌から、透花を奪い取った。


「涼雅……?」


 今更、彩凌は涼雅と朱伊の登場に気付いたらしい。


「怪我はない? 透花ちゃん」

「はい。……でも」


 瘴気を含んだ山の風が、現実を運んできた。

透花と彩凌の視線の先には、月を前に立ち尽くす延凌の姿があった。


「やはり、こうでなくては、つまらんな。彩凌」


 いつも静かな色を称えている黒い瞳が、涼雅には獰猛な獣のように見える。延凌は、右手を懐に忍ばせて、戦う準備をを整えていた。


 涼雅は、そっと透花を後ろに追いやった。戸惑う透花に有無を言わせないよう、首を何度も横に振り、両手を伸ばして制止した。

結局のところ、延凌と彩凌の問題なのだ。


そこに、少しだけ涼雅が巻き込まれているに過ぎない。


「……延凌様」

「何故、そんな悲しそうな目をしてるんだ? 彩凌」


 涼雅は彩凌の後ろに立っている。彩凌の瞳の色までは見えない。しかし……、その背中が酷く小さく見えたのは事実だった。


「お前は、急に、俺がおかしくなったとでも、言いたいのか?」


 胸の隙間からひょいと、取り出したのは、蒼い巻物だった。


「……蒼涯経典」


 緊張感に、ごくりと喉を鳴らす。涼雅は見たことはなかったが、修行中に耳にした経典の外観を忘れたわけではなかった。

ぞんざいな扱われ方にはらはらしながら、見守っていると、延凌は素知らぬ顔で、経典を破り捨てた。


「え、延凌様!」


涼雅は悲鳴を上げた。白紙だったと景蘭が告白した経典が風の中に散っていく。延凌は微風に浮き上がる白い紙を満足そうに眺めていた。


「俺は十年前からとっくに狂ってたよ。お前が妖異を手なずけただけで、紅涯師の座についてすらな」

「……気付いていたのですか」


 彩凌はすまし顔で言うが、その話は、涼雅も聞いたことがなかったし、透花も知らなかったらしい。


「結局のところ、天来教っていうのは、妖異を退治すると抜かしながら、一方では、妖異と手を結んでいる滑稽な宗教だ。お前とその弟子のようにな」

「えっ……」


 涼雅と透花の視線が困惑して、延凌に行き着くと、真っ直ぐ射抜くような瞳が行く着く先が分かった。……涼雅の隣。鮮やかな橙色の頭があった。


「朱伊……?」

「嘘でしょ」


何を基準に口走っているのか、分からないまま、涼雅は喚いた。


「だって、あんたは、性格は悪いけど、人間でしょ。何より彩凌の弟子じゃない!」

「人型の妖異がいるっていうことは、景蘭に会ってから、知ってるんじゃないのか?」


 驚くほど、冷ややかな反応に、涼雅は何を言ったら良いのか分からなくなった。


「まあ、聡いヤツは分かるかもしれないな。元々この国の妖異は獣っていう先入観がなければ、騙し続けることは難しい。一応、少しは年を取っているように見せていたんだけど」

「朱伊……!」


 次第に上機嫌で語りはじめた、朱伊を彩凌は一喝した。


「延凌様。下には黒武院の僧侶たちと合流した王宮の僧侶たちがいます。負傷しているとはいえ、景蘭も待っています。考え直して下さい。どちらにしても、貴方に勝ち目はない」

「透花殿と、同じことを言いやがる。この馬鹿が」

「彩凌、そいつの言う通りだ。堕ちた坊主に説法するのはやめろ。こいつは俺たちと戦うのを望みにしているんだ。やってやろうじゃないか。俺が相手になってやる」


 好戦意欲満々に、ずんずんと前に進む、朱伊は羽織っていた白い外套を脱ぎ捨てた。

 延凌は待ち構えたように、微笑した。ついていけないのは、涼雅の頭だった。


「一体、どういうことなの?」

「もしかして……朱伊が紅涯経典なの?」


 稲妻に等しい透花の一言だった。


「えっ!?」


 涼雅の驚きを白々しく観察しながら、朱伊は言った。


「辛気臭い名前で呼ばれるのは、不愉快だ」


 そして、真っ白な着物を赤く染めて、本堂の前に広がる庭の砂利を蹴る。

宙に浮いた砂利は、ぼおっと発火して灰燼に帰した。


 つまり、……肯定のようだ。


 延凌は懐から取り出した黒い巻物の紐を解いて、さらりと広げた。

経典の中には、黒い獣が描かれている。


「……な、何よ?」


 暗くてよく見えない。が、次の瞬間巻物の中の絵が空中に浮かび上がった。


開呪(かいじゅ)!」


 延凌のよく通った声が、静けさを切り裂くと、経典の獣は、追い立てられるように外に飛び出した。透花が血の気の失せた顔を涼雅に向ける。


「……あれが、黒涯経典(こくがいきょうてん)?」

「そう、みたいね」


 顔を見合わせる二人だったが、延凌がそれに舌打ちした。


「……妖異だよ。一応、歴代の黒涯師が名づけた左玄(さげん)っていう名前はあるが、妖異以外の何物でもない」


 全身黒の獣は、猫のような耳を持ち、長い尻尾を持っていた。ぺろりと鼻を舐める舌だけが赤い。


「妖異っていうのは、忌むべき敵だ。毒を持って毒を制する覚悟で大法胤になるのならば、この経典の外に、滅多なことで出してはならない。そうじゃないのか? 彩凌!」


彩凌は痛みに耐えるように、目を閉じた。


「お前の持っている紅の経典は何だ? その妖異を入れる器なんしゃないのか。歴代の大法胤はその経に、妖異を収めていた。……なのに、お前はそれをしない。そして、妖異たちと楽しい共同生活を送っている。両親を妖異に殺められたお前がな!」

「妖異たち?」


 涼雅は聞き返すが、誰も答えなかった。激しい怒気をそのままに、延凌が氷の刃を彩凌の足元に放つ。わざとはずしたのだろう。分かっている彩凌も、微動だにしなかった。


「それでも、お前が紅涯師を継いだ頃は良かった。修行僧たちは、お前を見下して、俺を頼ってきた。いいザマだったよ。それがどうだ? 蒼涯師を継ぐだと!?」

「延凌様……」


 いろんなところを旅歩いている涼雅は知っている。

 近年、彩凌に対する弟子の評価が上がっていることを……。

 彩凌が欲のない己の修行に生きている僧侶だということが長い年月を経て、知れ渡ってきたのだ。


 ……それを、涼雅は誇らしく思っていた。

  だが、延凌の恨みは、爆発してしまったらしい。

 少しだけ理解できるような気がするが、分かりたくもない感情だった。


「さあ、その妖異の封印を解け。彩凌」

「嫌です」


 彩凌はきっぱりと言い、握っていた真紅の数珠を袂に戻した。


「私と貴方が勝負をして、その先に何があるというのです? 何もないじゃないですか」

「……だから?」


 聞く耳持たない延凌は、暇潰しとばかりに、再び数珠の力で、錐のように尖った氷の短剣を放った。

 避けない彩凌は肩口を切りつけられる。じわっと、白い法衣に赤い染みが広がっていくが、傷口を押さえたりはしない。

 むしろ、心の傷の方が深いようだった。


「貴方は、私に名前を授けてくれた。両親を妖異に殺された私を助けてくれたのは、他でもない貴方だった。……どうして? 私の命を助けてくれたのに、奪おうとするのです?」

「助けたのは、気まぐれだった。それで良いのか」

「延凌様……」

「彩凌!」


 朱伊が叫ぶが、彩凌は動かない。動けないまま、延凌が放った左玄という化け物が、彩凌のもとにやってきた。


「お師匠さま!」


 金切り声と共に、走り出そうとした透花を涼雅は抱きかかえた。

彩凌は朱伊が庇った。命は助かっただろう。

しかし、本堂を破壊して、涼雅と透花の背後に左玄ごと吹っ飛ばされたのだから、重傷は負っているはずだ。


「あの……、バカ」


 涼雅は愛着のある恨み言を呟き、飾り気のない法衣の懐から数枚の札を取り出した。

 一斉に放り投げる。赤字と墨で書かれた札は涼雅の念に、従うように、撓りながら、延凌の足元で、ぴたりと止まった。


「さあ、透花ちゃん。彩凌ならきっと大丈夫だから」


 久しぶりに真面目な顔つきで、目配せする。


……逃げろと。


 正直、延凌が何を考えているのか、涼雅と透花をどうするつもりなのか、見当もつかない。

 とにかく透花は早めにここから遠ざけるべきだ。延凌は派手な攻撃をした。さすがに、待機中の僧侶もここを目指しているだろう。彼らと出会えれば、透花は助かる。


「足止めのつもりか?」

「足止めにもならないでしょうけど……」


 自信などない。何しろ、涼雅は攻撃に関する法術を会得する前に南総院を去っている。覚えているのは、札を多用した防御技くらいだ。


「さあ、早く!」


 足が竦んでしまっているのだろうか、一向にその場を去ろうとしない透花に苛々する。

 しかし、透花は涼雅を見ていなかった。視線の先にあるのは、延凌でもない。涼雅の肩越しに、背後へと向かっている。


「透花ちゃ……?」


 一瞬、彩凌が立ち上がったのかと、涼雅は思った。

 だが、透花の浮かべた笑みは、違う種類のものだった。複雑な感情のこもった笑みだった。


「景蘭……」


(えっ?)


 振り返れば、漆黒の髪を静寂の中になびかせながら、景蘭がこちらに歩いていた。黒の着物の裾を割りながら、憎らしいくらい、悠然とやって来る。


「重傷の妖異が何しに来た?」


 延凌はにらみつけるが、当然のように景蘭は無視した。

……助けに来てくれたのかと、涼雅は思った。怪我を負っているとはいえ、彼女は強い。少なくとも透花だけは、助けられると楽観していた。

 しかし、景蘭の声は酷く沈んだものだった。


紅涯師(こうがいし)は、やはり駄目か……」


南総院の庭は、静まり返った。聞こえるのは風の音。木々のざわめき。そして、本堂の屋根の軋む音だけだった。


「私がこの指輪を取れば、お師匠様を助けられるんでしょう?」


透花はおもむろに、己の左手に右手を重ねた。紅の指輪がきらきらと輝く。

涼雅もようやくその指輪の意味を理解したところだった。

 景蘭が妖異であるのなら、透花にも、その血は流れている。

畏怖するべき妖異……のはずだが、到底付き合いの長い透花を、そんなふうに思えるはずがない。景蘭はまるで飛んでいるかのように、早い速度で透花の隣に降り立った。


「しかし、それを取ったらお前は妖異になるだろう。自制の利かない、人から恐れられている妖異に。しかも、十六歳では妖異の血は薄まってしまっている。そこまでしても黒涯師と互角にもならないんだ。出来れば、私がここで黒涯師を倒してやりたいものだが、今の力では無理だ」

「……私の体を貴方が使ったら? 百蓮の町で、私は確かに自制をなくしたけど、でもちゃんと自分の体に戻ることが出来たから」

「ちょっと、待って!」

「……ほう。それは二人まとめて、葬る好機だな」


 延凌は、涼雅の放った札を、黒の数珠を宙に掲げるだけで、簡単に破ってしまった。

興味深そうに、透花と景蘭のやり取りを観察している。


(……冗談じゃない)


涼雅は腹が立った。


「あんたの力なんて、借りなくったってね、王宮の僧侶達がどっと来るわ。そしたら!」

「これ以上、天陽国の禁忌の会話が広がるのは、困るから、僧侶たちには、濃霧の中を、迷ってもらっている」

「……な!」


 何てことをしてくれたのだろうか。景蘭は……。

第一、そんなことが出来るのか? 

確かに蒼本院と同様、南総院は高所に建っている。山に添うように、建っているので、霧も発生するだろうが、それを己の意のままに操るなんて、涼雅には想像もつかない。

やはり、彼女は妖異らしい。


「残念だが、透花。私があいつと対等にやり合うためには、本来の姿に戻る必要がある。しかし、お前の体を使って本来の姿に戻ってしまったら、お前の意識が壊れてしまうかもしれない。私は、お前の体を乗っ取るような形になってしまう。命賭けになるぞ。……それでも、お前は紅涯師の役に立ちたいのか?」

「――えっ」


 予期していなかったのか、透花は目を大きく見開いた。月色の、景蘭と同じ色をした瞳が、ゆらゆらと揺れる。


「私が私でなくなる?」

「前例がある。ここにな……」


 景蘭は、おもむろに、自らを指差した。


「この娘は、お前と同じ天陽国の王女だった。私が本来の姿に戻るために、体を乗っ取ったんだ。以来、この娘の意識は戻らない」

「透花ちゃん。彩凌を待ちなさい。大丈夫よ。あの程度の攻撃で死にはしないから。そんなことしちゃ駄目。絶対、駄目だからね!」


涼雅は透花の腕を掴み、怒鳴ったが、透花は薄っすら微笑んだ。


「涼雅さん。私最初から、指輪を取って延凌様と戦うつもりだったんです」

「何を言って……?」

「唯慧さまを殺したのは私です。お師匠様は、それを知っていたんです」

「………………そんな」


 涼雅は息を呑んだ。確かに唯慧の死には謎が多い。

 しかし、まさか……。


(透花ちゃんが?)


「私は妖異です。なのに、お師匠様は私を育ててくれた。守ってくれた。このままでいたら、私はずっとお師匠様に甘えてしまう。今度は私が、どうにかしたいんです。立ち向かって、償いたいんです。じゃないと、私は一生ただの人殺しのままです」


そう言って、半壊した本堂に瞳を向ける。透花は一瞬、駆け出しそうな姿勢で、一歩、足を向けたが、しかし、頭を振って、その場に留まった。


「景蘭、私が私でなくなって、貴方が私になったとしても、一度で良い。私として母様と父様に会ってくれる?」


 景蘭は、慇懃(いんぎん)に頷いた。


「な、何言ってるの! 駄目よ!」


 叫んだ涼雅の前に、巨大な氷の刃が数本刺さる。


「面白そうじゃないか。やれよ」


 そのいかにも楽しんでいる口調に、涼雅は益々怒りを募らせた。


「ふざけないで! 透花ちゃんを貴方の遊び道具にしないでよ!」

「――ははっ。涼雅。お前だって、彩凌を妬ましく思っていただろう? お前は彩凌と同じ時に入門したんだからな。尚更、嫉妬も深かっただろう?」


 ……痛い一言だった。


涼雅は彩凌を尊敬もしているし、親しみの情も抱いている。しかし、それは涼雅が僧侶になることを断念したからこそ、感じる思いなのだ。今も僧侶をやっていたら、自分は彩凌のことをどう思ったか分からない。


(――でも、それでも……)


「私は貴方とは違う!」


 延凌とは違う。涼雅は自分の道を歩むのだ。決して彩凌の道ではない。それを理解しているからこそ、近くにいて、刺激を与え合い、それを自分の力に変換することができるのだ。もしも、涼雅に何かがあれば、彩凌が動いてくれるだろう。その信頼を裏切りたくない。


(……彩凌のために、絶対に透花ちゃんを手放してはいけない)


 涼雅は、もはや離れつつある、透花の腕を必死に掴んだ。しかし、延凌の堅氷の剣が二人の間を切り裂く。

 透花は導かれるように、景蘭の胸の中に収まった。慈愛の表情を浮かべ、抱き締めていた景蘭は、転瞬、その場に崩れ落ちた。透花の左手の指輪は木っ端微塵に砕けて、飛んだ。


「さて……」


 声色が違う。艶を含んだ低い声は透花のものであって、透花ではなかった。ゆらりと前に出る。――……景蘭だ。

 涼雅は、その歩き方で確信した。


「見せてみろよ、本来の力とかいうやつを……?」


 延凌の挑発に乗るように、涼雅の真横に、旋風が起こった。


「透花ちゃん!」


 銀色の瞳が、丸い月光を宿して、閃いた。


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