第四章 玖
懐かしい山の香りを一杯に吸い込んで、透花は芳花が用意してくれた馬車から降りた。
南総院の山門前からは道が険しいので、本堂には歩いて行くしかない。
ぞろぞろと白の法衣の僧侶を連れて、透花は中門に続く階段を上った。黄昏時に教院の灯りが浮かび上がる。
……誰か教院内にいるらしい。
そっと、透花を匿うようにして前に立ったのは、宋寧に今回の件を報告した僧侶だった。
「危険です。ここからは私達が」
「いいえ。ここからは私一人で行かせてください」
「何をおっしゃるのです? まだここにいるのが延凌様か、彩凌様か分からないのですよ」
実直そうな四角い相貌を引きつらせて、僧侶は諭すように言った。
「大丈夫ですよ。本堂の中にいるのは、延凌さまと、お師匠……、彩凌様でしょうから」
「不審者かもしれません」
「では、私が行ってから暫くしても戻って来なければ、来て下さい」
「私も行きます!」
「駄目です」
強硬に主張した透花は、ひらひらした上着を脱ぎ捨てて、自分だけが知っている山の斜面の獣道を走った。僧侶達はあっけないくらい簡単に撒くことが出来た。
なんとしても、一人で対峙しなければいけない問題なのだ。芳花の好意を素直に受け取ることは出来なかった。芳花は透花が妖異であることを知らないのだから……。
ようやく目の前が開けると、夕闇の中にひっそりと、教院が佇んでいた。
(……やっぱり、いる)
透花は悟りつつ、建物の外側から、ゆっくりと庭を横切った。
青々とした苔の育った石畳を越えて、本堂に回る。
緊張しながら、堂に続く低い階段を上がると、開け放たれた扉の先。畳の上で、ごろりと一人の男が寝そべっていた。
――紛れもない。
「延凌……さま」
薄目を開けた延凌は、ゆるゆると透花を見た。
月明かりに染まった透花は、まるで妖異のようだったのか?
延凌は再び眼を閉じ、緩めた口元から言葉を繰り出した。
「透花殿……。まさか、本当に来るとはな」
透花はそれには応えずに、延凌の怪我に息をつまらせていた。素人目で見ても、延凌は怪我が酷かった。
白の簡易法衣は、乾いたどす黒い血の色に固まっている。
満身創痍とは、このことだと、透花は感じていた。
「これは……? どうしたんですか? 一体誰と?」
「安心しろ。彩凌と戦ったわけじゃない。景蘭とだ」
そう言って延凌は闇色の瞳を開けると、少しも苦痛を感じていない顔で、不気味に笑った。
「何故、驚かないんだ。透花殿? 彩凌はいないぞ」
「分かってます」
呆気ないほど単純に頷く透花に、延凌はあからさまな嘲笑を浮かべていた。
「何だ。あんたは、分かってて、ここに来たのか?」
「最初から、延凌様の手紙には不審がありましたから……。貴方だってそれが分かってて、私をおびき寄せたんじゃないのですか?」
延凌はふんと鼻をならした。
「言うようになったな。あの従順でどうしようもなく彩凌バカだったお嬢さんが……」
「父上から聞きました。お師匠様が蒼涯師も兼務するかもしれないってこと。延凌様は、お師匠様に言った気配がなかった。もしかしたら、お師匠様に嫉妬しているのかと……」
「……嫉妬ねえ」
言いながら、延凌は声を出して笑った。
「それに……」
透花は、ぴしゃりと緩んだ空気を止めて、苦味のある続きを口にした。
「思い出してしまったんです」
既に、辺りは暗闇に閉ざされていた。
本堂の金色の「天尊」像の両脇に灯る蝋燭の明かりだけが、唯一の光源になっていた。
「やはり、唯慧師を殺めたのは、私なんです」
ざわっと、庭の木々が音を立てて揺れる。夜風が透花のおろした髪を撫でるように吹き抜けて、風の勢いに負けないように、透花は語気を強めた。
「どうしてお師匠様に認めて欲しくて、私はあんなにも必死だったのか、分かったんです。私は心の底で覚えていたからでしょう。唯慧師の最期の瞬間を……」
「――そうか……」
静かに、延凌は上体を起こした。
幼い頃、透花はこの裏山で、延凌に念石をはずされた。延凌に攻撃を仕掛けた透花だったが、結果的に唯慧が命を落としてしまったのだ。
「じゃあ、もう分かっているんだな。唯慧師が俺を庇って死んだことを……」
透花は叫び出したくなるような感情の激流に耐えながら、数回うなずいた。
「……どうして? 延凌様。貴方は、私に何をしようとしたのですか?」
「折伏しようとした。俺はあんたを自分の奴隷にしようとしたのさ」
「だ、だって、私は一応、王族ですよ。それを奴隷にして……」
「王族だから、意のままに操ることに魅力を感じる者もいるだろう。まあ、俺は別にこの国を乗っ取ろうなんて考えちゃいなかった。あんたが王女だろうが、何だろうが、俺にとって、あんたは妖異。それだけだった。そして、俺はあいつに負けたくなかっただけだ」
「お師匠様に?」
「正直、名前を出されるだけで、むかつくよ。俺はあいつが嫌いだ」
やんわりと告げられた一言に、透花は何も言い返せなくなった。
延凌は長い年月、ずっとその感情を封印して彩凌に尽くして来たのだろう。そして、彩凌はそれに気付いてなかった。
「天才だな。俺だって認めてはいる。だが、耐えられなかった。たった十六歳だぞ。そんな子供に大法胤の位をやるという唯慧師すら、信じられなかった。俺はずっとあのジジイに尽くしてきたんだ。いつか、大法胤になってやろうと思っていた。正義感だって持っていたよ。それが……、あっさり崩れ去ったよ。あいつのせいで……」
いつの間にか、暗い空の間隙を縫うように、現れた月が普段見る延凌の小麦色の肌を、青白く染めていた。
「……唯慧師はあの時、俺を殺しておけば良かったんだ。俺は、師匠の死で立ち直るような人間ではなかった。あの後も俺は、妖異を捜す旅をしながら、禁術を使って、妖異を呼び出していた。妖異と分かれば、折伏して、奴隷にしてから、俺の手で葬ってきた。でもな、なかなか、強い奴には出会えないもんだよ。あんたや、景蘭のようなのにはな」
穏やかに狂気が語られる。
(この人は、延凌さまではない)
そう思い込もうとした。
しかし、十年一緒に暮らしていた彩凌のことだって、分からない一面があるのに、透花が延凌の何を知っているというのだろう。
「……で、どうするんだ、透花殿。まさか、何の策もなく来たわけじゃないだろう? 正直、あんたが来なければ、ここで彩凌の帰りを待っていても良いと思ったんだが?」
本堂から月光が淡く照らす庭に延凌は下り立った。軽やかな足取りは怪我していることを感じさせない。透花は延凌と初めて向かい合う格好となった。
「何故来たんだろうな。透花殿。そこまで分かっているのなら、国王や彩凌の元で泣きついてれば、良かったじゃないか? 俺はあんたを殺すぞ」
「どうして、私を?」
「言っただろ? あんたは妖異だ。あんたに唯慧師は殺された。百蓮でも凶暴な力を発揮した。俺は僧侶だ。王の犬になった覚えはない。妖異は抹殺する。折伏して、意のままに操ってから、最後に殺すんだ。……野放しにしたくないんだよ。それとも、あんたは俺を説得出来るとでも思っていたのか?」
「出来れば……」
「馬鹿げているな」
延凌は容赦なく一蹴した。
「正直俺はあんたを見るたびに、苛立たしい気持ちを抑えていたよ。あんたが彩凌を慕えば慕うほどな。……俺にとって、あんたの存在は、この国の矛盾点にしか見えなかった」
「でも、延凌様はずっと私を可愛がって下さったしゃないですか。どうして、今まで手を出さなかったんですか? 機会ならいつだって……」
「南総院にあんたがいたからさ。俺はこの場所に来る度、唯慧師を思い出した。…………あの人が怖かったんだ」
じろりと睨まれた透花は、うつむいた。
「……でも、延凌様。間もなく王宮の僧侶たちがやってきます。彼らは何も知らない。貴方がただ負傷していると思っています。……今ならまだ間に合うんですよ」
「しかし、奴らはそろそろ俺の蒼郡での所業を知るだろう。彩凌が指揮を執るはずだ」
「それでも。お師匠さまは、優しい人です。貴方を殺せない……」
そうだ。彩凌には無理だ。
彩凌は優しくて、脆い。
透花は、ずっと彩凌が分からなかった。何を思って、何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
だから、苛立ちが反発に変わってしまうこともあった。けれど、今回すべてが発覚して、離れてみて一つだけ気付いたものがある。
彩凌もまた芳花と同じように、透花の保護者であろうと必死だったのではないだろうか。
……だとしたら、彩凌は透花が思うほど、完璧でも人間離れしているわけでもなく、ただ完璧であろうとしているただの人ではないのか。
そういう人だからこそ、延凌が相手だと気付いてしまったら、本気で戦うことなんて出来ないだろう。そして、透花は、そんな彩凌を見たくはなかった。
「まだ、分かってないな。透花殿」
透花は月を背景に立っていた。自分の蒼い影を見つめている。
流れてきた雲が一瞬月を覆って、再び光が降りてくる。ざわっと空気が震動した。
「あいつは、自分のことは、どうだっていいと思っているだろう。それこそ、命を投げ出すのも厭わないくらいな。……でも」
大きな足音が弾みをつけて迫ってくる。
「……あ」
声が出た。刹那、透花の影は消え、強い力に持ち上げられるように、流された。
「―――祥仕!!」
影は重なり合って一つになる。……彩凌が透花を後ろから抱き締めたのだ。
「あんたのことに関しては、狂気染みたほど執着するんだ」
延凌の冷笑混じりの視線は、透花の背後に向かっていた。