第四章 捌
透花は蒼白になりながら、父であり、王である宋寧の対応を待っていた。
蒼郡で妖異が暴れ、火事が起こった。被害は甚大だと、延凌からの手紙には簡潔にそう書かれていたらしい。負傷した延凌は彩凌と共に、南総院に戻るのだという。
「何故、南総院?」
すぐさま、宋寧は疑った。蒼本院が危険だから、避難するというのなら分かるが、その場所が南総院である理由はない。
「南総院に、紅涯経典を取りに戻ったのではないかしら?」
「そうかもしれんが。大法胤と法胤が二人揃って敵の前から姿を消すというのもおかしい」
「本当に延凌殿の直筆なのかしらね?」
訝る両親を押しのける勢いで、透花はその手紙に目を通した。
「延凌さまの文字だと思います」
透花は「思う」と告げたものの、直筆であることは間違いないと気付いていた。
「どうしましょう?」
「もしも、これが本当ならば大変な事態だ。黒武院の僧侶と共に、蒼郡に王宮の僧侶を派遣するしかあるまい」
「父様……」
透花は、静かに頭を下げた。
「私を南総院に行かせて下さい」
「何を……?」
「彩凌さまは私の師匠なんです。心配なんです。せめて一目会わせて下さい」
「駄目だ」
宋寧は一蹴した。
「この手紙には謎が多い。もしかしたら延凌殿も突然の事態に動揺されているのかもしれないが、もう少し様子を見る必要がある。迂闊に動くと大変な目に遭うぞ。透花」
その通りだ。透花にはすべてが分かっている。
しかし、諦めるつもりはなかった。
(私は行かなければならない)
透花は名指しで呼びだされているのだ。それに答えないわけにはいかない。しかし、この段階で宋寧の心を動かすことは叶わないだろう。
どうするべきか……。
この王宮から出る策を必死に頭で考えていた、夜。
透花は、ふいに芳花から呼び出された。
芳花の部屋は、透花の部屋と違って落ち着いていた。静かに感じるのは、部屋全体が青色を基調としているせいだろう。
透花の部屋に芳花がやって来ることが当たり前になっていたので、その日初めて透花は母の部屋を訪れたのだった。
(こうしている暇はないのに……)
王宮から抜け出す方法だけを思案していた透花にとって、今回のような機会は後回しにして欲しいものだった。
しかし、芳花は透花に座るよう指示する。透花は本音を口に出すわけにはいかないので、芳花の言いなりに革張りの椅子に腰を下ろすしかなかった。
「ねえ透花」
「はい?」
「教院に貴方を取り上げられた時、私がどんなに泣いたことか分かる?」
唐突な一言に透花は目を丸くした。いきなりすぎて、芳花の真意がまったく見えてこない。困っていると、芳花は笑いながら自身で答えた。
「しきたりなんて知らなかったの。本当よ。生まれてからずっと一緒にいたのに、まさか離れるなんて、思ってもいなかった。貴方を渡すって聞いた時、私は激しく抵抗したのよ」
突然、侍女を遠ざけた芳花は椅子に座り、傍らに座る透花の髪を撫でながら微苦笑した。
「だけど、願いは叶わなかった。どうにもならないことがあるって、そのとき、私は知ったの。それから、私は何もかもが嫌になって、すべてを呪ったわ」
当然、芳花は透花が妖異の力を持っているなんて、知りもしない。……だったら、何故我が子を、教院に送らなければならないのか、理解できるはずもないだろう。
「でもね。私、南総院で久々に透花を見た時、思ったの。ああ、透花は成長しているんだって。子供なのに、懸命に教院の仕事を手伝っていたでしょう。まだ小さいのに、泣き言も言わないで、私と一緒に帰りたいとも言わなかった」
言われてみれば、その頃透花は必死だった。彩凌に認めて欲しくて、とにかく、良いことをして注目してもらおうと、懸命だった。
「私は透花の母親だもの。いずれ帰ってくる透花のために、胸を張って会えるような人間にならなきゃいけないって、思って、……覚悟をしたのよ」
「……覚悟?」
「そう、覚悟が必要なのよ。賭けとは違うわ。自分の思ったことや、決めたこと、そのすべてに全力を出しきる誓いのことよ。……貴方にも、あるのかしらね。透花」
(……覚悟)
そんなもの意識をしたこともなかった。だが、透花はこのままではいけないと腹を括っていた。
自分をこんなにも大切にしてくれる両親は大切だが、やはり透花にとって、彩凌は大切な人なのだ。彩凌に危機が迫っているのなら。少しでもいい。
(……お師匠さまの役に立ちたい)
再び王宮の見取り図を頭の中で広げはじめた透花の耳元に、芳花は口を寄せた。
「もしも、覚悟があるのなら、部屋の外で待機している僧侶たちを連れて行きなさい」
「えっ?」
透花はしばらく芳花が何を言っているか分からなかった。しかし、芳花は構わず続けた。
「少人数だけど、王宮の僧侶の中では選りすぐりの者たちよ。私から透花の指示に従うように言い渡してありますから」
「……母様。どうして!?」
ようやく芳花の言葉を受け入れた透花は驚いて立ち上がった。
勢いで座っていた椅子が音を立てる。芳花は透花の手を擦りながら、一粒だけ涙を落とした。
「決まってるでしょ。貴方を死なせたくないからよ。透花」
それは芳花の愛情表現だ。
この人は……、透花の正真正銘、母親なのだ。
芳花は透花が意地でも南総院に向かおうとしていることを見抜いていたのだろう。
「母様……」
「行きなさい」
何も言えなかった。無事に帰れるかどうかなんて、透花は約束も出来なかった。
深く、一礼するのがやっとだった。
芳花の部屋から逃げ出すように、駆け出し、外に出た
母の優しさが痛かった。
もしも、透花を逃がしたことが分かれば、宋寧は怒るだろう。
芳花がどんな目に遭うか分かっているのに、透花は歩みを止めることは出来ないのだ。
「姫様」
感傷を吹っ切るように顔を上げる。……と。
広い廊下には昼間見た浅黄色の法衣の男達が叩頭して透花を待っていた。