第四章 漆
「とにかく、黒涯師を捕まえなくちゃならない。紅涯師。すばやく捜せよ。奴は箍がはずれちまっている。ある意味、妖異以上に危険なんだ」
「貴方の方が危険極まりないように、私には思えていたんですが?」
「錯覚だ。何言ってやがる。……ったく。あいつを説得しようとしていたのは、私だ。穏便に済ませてやろうとしていたのに。私の良心を踏みにじりやがって」
「……説得?」
馬車の狭い空間で、皆の呼吸が瞬時に重なった。
朱伊も、涼雅も、素良さえいる、息苦しい馬車の荷台。
本当は全員追い出して、彩凌は景蘭から話を聞こうと思っていたのだが、時間がないと訴える景蘭と、傷の手当てをしたいと主張する素良の間に挟まれて、どうでも良くなってしまった。
部外者の涼雅までいて、教主という立場上、大きな危険を冒している気持ちがするが、それも、この緊急時のなせる業だと吹っ切るようにした。
「どういうことよ。何か悪いことでもしてたっていうの? あの延凌様が?」
鼻で笑う涼雅に、真剣な青灰色の瞳が向いている。
「……悪いどころの話ではないさ。あいつは禁術を使っている。私は最初、紅涯師、お前とグルなのかと思ったんだが、途中であいつの単独犯だっていうことに気付いた」
「禁術って……?」
素良が知るはずもない。
法主の位まで上り詰めないと、禁術について打ち明けられることはないのだ。ここで会話を中断させようかと考えたが、無理だった。
「坊主。よく聞け。禁術というのは、「天来教」で教えられてはいるが、使ってはならない術のことだ。色々とあるんだが、「召喚術」というのが最大の禁忌になっている」
「景蘭?」
おおっ……と、素直に驚愕している素良を尻目に、彩凌は、違う意味で瞳を見開いた。
どうして、景蘭がそんなことを知っているのだろうか。
透花も景蘭の話を聞いて、すべてを知ってしまった。生きている年数が人と比べて長いというが、それでも外部の人間が知る由もない「天来教」の秘密を知りすぎているのではないだろうか。
景蘭は痛む傷口に手をやり、肩で呼吸をしながら、更に説明を続けた。
「今更、事情を知る人間が一人や二人増えたって、この国は変わらないだろう。しかし、黒涯師を野放しにしていたら、国がひっくりかえるかもしれない。お前達、召喚術は、何故禁忌なのか知っているか」
「詳しく知りませんが、……その、あちらの扉が開くそうです」
「ふん。師匠から多少説明は受けていたようだな。そうさ、召喚術は僧侶が妖異を呼びだす法。うまく折伏出来れば、妖異を手下のように操ることが出来るが、失敗すれば命が危険だ。まあ、自分の命が危険に晒される程度ならまだしも、その術を行なうことによって、あちらの世界の扉が緩み、妖異が出現しやすくなる。国民を守るための僧侶が、国民を危険に陥れるということになるってわけだ」
妖異とは……、天陽国の国民を襲う「人外のモノ」。
しかし、それは定義であって、真実ではない。
彩凌はすべての矛盾を、身を持って知っていた。
知っていて、今まで誰にも告げたことはなかった。
「少し前から、妖異の数が増え始めた。おかしいと思って調べていたんだが、私
はいつしか、位の高い僧侶が召喚術を使っているのではないかと、疑うようになった」
「……では、蒼郡の変事というのは?」
「察しが良いな、紅涯師。私だよ。私がお前たちをおびき寄せるためにやったんだ。お前たちに蒼郡に来るよう、手紙を出したのも私だ。今の体力では、法胤の張った結界を潜ることは無理そうだったからな」
「それにしたって……」
壁を壊すことはない。
しかし、景蘭の言う通り、確かに、彩凌はそれを聞けば、着実に蒼郡に赴いただろうし、実際向かっていた。
(……延凌さまだって)
「おびき寄せて、尋問したら、黒涯師はあっさりと自白した。本当かと疑わしく思ったし、正直、紅涯師と結託して、禁術の鍛錬でもしているのかと思ったよ」
「それだったら、延凌様に今後は禁術をやらないように、言えば、それで済んだでしょう。私に話してくれても良かったし、延凌様だって話せば分かる方でしょう」
「本当、おめでたい奴だな。紅涯師。あいつが説得して反省するような男か? それに聞く耳持たなかったのはお前だろう」
一笑した景蘭だったが、傷が痛むのか、すぐに左肩の傷口を押さえた。
素良がむき出しになった、鋭く抉られたような傷口に包帯を巻いていく。
「もしかして……」
涼雅が両手を口に押し当てて、ぽつりと言った。
「延凌様は、貴方を折伏しようとした?」
「まさか……!」
彩凌が言い放つが、景蘭は苦笑交じりに頷いた。狭い馬車の中には緊張感が満ちた。
「気付いてないのか? 紅涯師。あいつは僧侶じゃない。……戦士だよ。強いことが奴の中では、絶対だったんだ。……だから、善も悪もすべてが混然となってしまった」
「そんな……。延凌様は、そんな方ではありません。あの方は、私にいろんなことを教えて下さった。いろんな相談に乗ってくださった。私にとっては、兄のような方で……」
「……彩凌。いい加減目覚めなさい。今のこの状態は何よ。ちゃんと、現実を見なさいよ」
厳しく諭す涼雅の声に、彩凌は固まった。
延凌に対して、おかしいと思っていたことや、不満、鬱積した感情を思い出した。
「あいつは、透花を攻撃した。殺すつもりはなかったとしてもだ」
彩凌はその景蘭の一言に、留めをさされて硬直した。
両手を床に突くと、しゃらりと紅の数珠が手の甲に落ちてきて、複雑な気持ちが深まった。
「…………延凌さまは、どうして?」
「分からないか。紅涯師。あいつはな、強さを求めるあまり、蒼涯経典に手を出したんだよ。白紙だとも知らずにな」
「何ですって!」
それには、素良が声を張り上げた。
「蒼涯経典も……、空白なのですか?」
彩凌は驚かない。それも有り得ることだって感づいていた。
「お前もよく知っているだろうが、紅涯経典、蒼涯経典は白紙さ。黒涯経典だけは、中にいるな。しかし、所詮、黒涯師は、紅涯師を補佐する役目に過ぎない。まあ、権力を集中させないために、経典の中身については法胤同士であっても、話してはならないと定めていたが、実情はそれだ」
「貴方は一体誰なんですか? おかしいじゃないですか。そんなに天来教のことについて、詳しくて、透花の体だっていとも簡単に乗っ取った。ただの妖異じゃない」
そう言って、彩凌ははっと息を止めた。
「もしや、貴方は……?」
彩凌が答えを発見したことに、景蘭は半目で頷いた。
「ちょっと待ってよ。何の話よ」
置き去りにされている涼雅が間に入って来るが、彩凌は説明している時間が惜しかった。
「元々、私達「妖異」に安住の地なんてないのさ。何しろ、私達はこちらの世界に来るだけで頭がおかしくなってしまう」
「一体、妖異とは、何なのですか?」
「こことは違う世界に住む者たちのこと。だから、人間とは違う容姿をしている。自分たちの世界が滅ぶと知ってから、この世界に逃亡を続ける浅ましい者たちのことだよ」
「……では?」
黙っていられなくて、彩凌は矢継ぎ早に質問を畳み掛ける。
「貴方たちは天陽国を乗っ取ろうとしていると?」
「馬鹿馬鹿しい。私達が力を合わせていたら、この国だけではなく、大陸ごと乗っ取っている。自慢ではないが、人間よりは強いはずなんだ」
景蘭は彩凌に視線を向けるのをやめて、天井の襤褸に目を向けた。
「後々、私も分かったことなんだが、どうやら、私達は、精神感応力が強いらしい。まあ、お前たちには分からないだろうが、何かの感情に引っ張られる力。感受性が強くなりすぎたものだと思って欲しい。自分たちの世界にいた時は、そんなこと感じたこともなかった。しかし、ここに来て、みんなおかしくなって、急に凶暴になった。多分、ここの世界には、私たちの知らない黒い感情が満ちているんだろうな。あいにく、私は、おかしくなることはなかったが、気づけば、一人になっていたよ」
「元の世界に戻る方法はないの? そしたら、こちらにに来ないように言えるじゃない?」
「それが出来たのなら、もっと早いうちに手を打てたんだが、残念ながら、道は一方通行で、帰り道はない。あちらが滅ぶまで、永遠に妖異は出現し続けるだろうな。しかも、それは、こちらの世界にとってみれば、途轍もなく、長い年月になるだろう」
景蘭は感慨深げに、溜息をついた。
「私は責任を取ろうと思った。あのくだらない神話は私のでっちあげだが、すべてが嘘ではない。「天来教」を作るためには必要だったんだ。いろんな宗派の坊主を一つにしてしまいたかった。精神感応の強い私達に、坊主の精神力を駆使した法力は、よく利くんだ。もっとも、結界壁なんて作ってしまったために、自分の首をしめる羽目になってしまったけどな」
「――……景蘭」
彩凌は姿勢を正してから、こう呼んだ。
「貴方は始王の妻、志妃ですね」
景蘭は口元に艶やかな笑みを浮かべた。
「その名前で、呼ばれると、若い頃を思い出す」
「嘘!? まさか、志妃って!?」
涼雅と素良が身を乗り出して、目を丸くした。彩凌も途方に暮れている。
その中で、朱伊だけが冷静を保っていた。
横たわる景蘭に、現実を押し付けるように、質問をする。
「……で。お前は、黒涯師が何処に行ったのか、見当もつかないのか?」
そうだった。その問いに、皆一斉に、我に返った。
「ああ、さっぱりな。しかし、人間追い込まれると、何をしでかすか分からないから怖い。私を折伏できなかった黒涯師は何をするか? お前たちの方が知っているんじゃないのか?」
「新たな召喚を企むとか、かしら?」
「あの体ではもう無理だろう。自殺行為に違いないが、それも一理あるか」
穏やかに、景蘭は相槌を打ったが、その脇で、彩凌は最悪の心当たりを発見していた。
「貴方の正体を延凌様は?」
「気付いている。調べていたんだろう。その上で、やるんだからな。まったく」
……ということは、延凌は、景蘭が天陽国で信仰されている始王の妃だと知っていても、禁忌を犯して、自分のものにしようとしたのか。
(それほどまでに?)
「どうかしている」
これはもう度胸の問題ではない。
常軌を逸している。暴走しているようにしか、彩凌には思えなかった。
……そして、暴走の先に何があるのか。
「―――祥仕」
彩凌は自分の口から出た言葉に、慄いた。
「あっ……」
景蘭が速やかに身を起こした。




