第四章 陸
蒼郡の風は、黒煙を含んでいた。彩凌の純白の旅装を、容赦なく汚していく、煤の混じった小雨は、延焼をせき止めるほどの効果はなかった。
(……何故、こんなことに)
彩凌は、薄い下唇を力一杯噛み締めた。
微かに血の味がした。
蒼郡の都・蒼提は、神海にも、東海山にも面していることから、白叡に継ぐ都として、国内では有名だった。
特に海は、天陽国で唯一の港、蒼帰港があり、国土の大部分を深い山と礫土に囲まれている 天陽国の民にとっては、憧れの都だった。
妖異に襲われてから、すべての国交を絶たざるを得なかった天陽国であったが、神海だけは、国主の許可を得て、たまに外国船が港に入ってくることがある。
諸国の珍しい品物や、食物などは蒼提で手に入るので、買いつけの商人は不定期な船の入港を待って、常に大陸間を往来していた。
人が集まる主要都市ほど、僧侶の数は膨れ上がる。
蒼本院の僧侶の質を彩凌はよく知らないが、蒼涯師が持つ蒼涯経典は、ある意味、紅涯経典を凌ぐ力を持つといわれていた。
実力もない王族の傍流が蒼涯経典を使いこなせるはずがないという異論は、いまだに僧侶の間で多く聞かれるが、それは事情の知らない者の不満に過ぎなかった。
……彩凌は、王族の傍流が三師の一人として君臨するのは、自然なことだと思っている。
何しろ、「天来教」自体、国と国王の娘を守護するために、存在しているような宗教なのだ。
その宗教の最高位を受け継いでしまったのだから、王族の血筋が三師に加わることに、彩凌自身何のわだかまりもない。
正直、妖異以外のすべて、彩凌には、どうでも良かったのだろう。
そんな自分のいい加減さが、今回の悲劇に繋がってしまったのならば、詫びる言葉もなかった。
「彩凌!」
天を睨むような格好になっていた彩凌の腕をひく。
意外に強い力は、涼雅のものだった。
「ああ、涼雅。住民の避難は、済みましたか?」
引っ張られながら、呑気に尋ねると頭を叩かれそうになった。
「あんたがまず避難しなさいよ!」
「えっ?」
(なるほど)
すぐさま理解した。
彩凌が今まで立っていた場所は、建物が崩れ落ちて瓦礫の中になっている。
「街に出てた蒼本院の坊主と、朱伊と力を合わせて、あらかた避難させたわ。死者はいないって、信じたいけど……って、大体これ、あんたが率先すべき仕事なんじゃないの?」
「すいません。初めてのことに、私自身が戸惑っていました」
「……あきれた」
あくまで、いつもどおりのやりとりをしていた二人だったが、彩凌も涼雅も内心は、困惑と混乱の嵐の中にいることを、お互いに理解していた。
「蒼涯経典か……」
朱伊の呟きは、彩凌と涼雅に衝撃と事実を伝えた。
「相変わらず、生意気な弟子ね。あんた本当に年とってるの?」
涼雅はほとんど朱伊と話したことはなかったが、時間は共有している。
彩凌が紅涯師になる直前に、彩凌の弟子となった朱伊。その時、教院を去っていた涼雅は、彩凌と朱伊の実情は知らないが、ある意味、腐れ縁の気安さはあった。
「お前は年のことを気にするより、自分の頭のことを気にしたら、どうだ?」
「まあ、コイツ! 彩凌! ちょっと、弟子のしつけがなってないわよ!?」
「涼雅、今はそんなことよりも……」
彩凌は、二人が自分について来ることを確認して、危険な現場に背を向けた。
消火しようと思ったが、ここはもう自然に火が消えるのを待つしかないだろう。
頭が重い。彩凌は涼雅から馬車の中で、蒼郡に起こった出来事を聞いた。
延凌は、蒼郡の本拠である「蒼本院」で、国主の勅命と小坊主に言い聞かせて、蒼涯経典を持ち出したのだという。
……経典を使うのは、国の存亡に関わる時だけだ。
それは、位のない僧侶でも、知っている常識だった。
おかしいと、何かを感じとった涼雅は、延凌を問い詰めた。すると、延凌はいきなり涼雅を攻撃してきたらしい。
咄嗟に小坊主と共に、難を逃れた涼雅だったが、その時の攻防で教院は、炎上してしまった。今は街が燃えている。山奥で発生した教院の火事が街中まで、たった数日でやってくるのは不自然だ。いくら何でも、街の人たちだって、火の手に気付くだろう。
目撃者の証言からも、最初の被害は竜巻と謎の吹雪だったらしい。それが民家を押し倒し、火災に繋がったということだった。
……答えは、一つしかなかった。
延凌はもう一戦、誰かとこの街で戦ったのだ。
「つまり、あの妖異は、延凌様がそこまでしなければ、勝てない相手だということなのでしょうかねえ?」
「冗談じゃないわよ。殺されかけたのよ。私は!」
「しかし、もしかしたら延凌様が貴方を逃がすために、わざと攻撃したのかもしれないじゃないですか?」
「そんな遠まわしなこと、するかしらねえ?」
――しないだろう。
彩凌は考える。
どちらかというと、その意見自体、彩凌の願望のようで辛かった。
「ねえ、彩凌。貴方が延凌様を尊敬していることは知っているし、私も疑いたくないけれど」
「分かっていますよ。涼雅」
そう言うものの、涼雅の言葉を遮ってしまう。
彩凌はまだ認めたくないのだ。
「まあ、どう転んだとしても、蒼涯経典を黒涯師は使えないはずだ」
「……だと、思うんですが」
蒼涯師とて、蒼涯経典を扱うことは出来ないのだと聞いたことがある。
そんな経典を、まったく系統の違う黒涯師の延凌が使いこなせるはずがない。
彩凌は溜息をついて、胸を押さえた。心臓が掴まれたように痛む。
最悪の事態に向かっているような気がして、いても立ってもいられない。だから、こうして周囲の助言も聞かずに、危険な火事場にいるのだが、延凌に関する手掛かりは、何一つ得られなかった。
彩凌は、大法胤として、一応、街の人を介抱する僧侶と、消火をする僧侶、延凌を捜索させる僧侶に手分けをさせて事に当たらせているが、並みの僧侶が、延凌に立ち向かうのは危ないとも、憂慮していた。
蒼本院の僧侶は、延凌が蒼涯経典を強引に盗んだのだと激怒している。彩凌は延凌を見つけても、手を出さないようにと指示しているが、何処まで彩凌の言いつけを聞き分けてくれるか疑問だった。
「涼雅さん!」
前方から甲高い声がして、彩凌が、悪い想像から顔を上げると、駆け寄って行く涼雅の背中と、小柄な眼鏡をかけた青年の姿が見えた。
「素良じゃいなの!」
今の涼雅と、南総院にいた頃の透花と同じ灰色の修行服。おそらく、延凌の攻撃から、涼雅が一緒に避難したという、蒼本院の小坊主だろう。
彩凌は早足で二人を追いかけた。だが、いきなり止まった涼雅の背中にぶつかりそうになって、驚いた。
「涼雅……」
「あ、あんたは!?」
涼雅の大きな体躯が小刻みに震えている。彩凌は不思議に思って、涼雅の前に出た。
身長の高い女は、素良の後ろにいても、隠れていなかった。
「景蘭……」
途端に、険しい顔つきになった二人に、素良は間の抜けた笑顔で安堵の息を吐いた。
「ああ、良かった。こちらは教院に非難してこられた女性の方なんですけど、どうしても、紅涯師に会いたいとおっしゃられて。私は残念ながら、大法胤のお顔を存じないんですよ。だから、涼雅さんは、以前、南の教院にいらしたというし、もしかしたら……」
「……私が紅涯師です」
「えっ?」
驚きの余り、素良は何度も目を瞬かせている。が、今はそれに構っている余裕などない。
彩凌は涼雅を抜いて、一歩一歩、間合いをはかるように、距離を縮めていた。
「貴方は一体ここで何をしたんですか? ――景蘭」
景蘭は、肩を震わせた。一瞬、笑っているように見えたが、しかし彩凌は景蘭が痛みを堪えるために、笑みを浮かべていることを知った。
黒い着物に染みが広がりつつあるのが分かる。
……微かに、血の匂いがした。
「怪我をしているのですか。貴方は?」
「まあな。ちょっと、黒涯師とやり合ってな、このザマだ……」
涼雅が息を呑んだ。朱伊は目を閉じ、そして素良は腰を抜かしていた。
予想を裏切らない景蘭の答えに、彩凌は目線を落とす。最悪の可能性も考慮しなければならなかった。
「まさか、貴方は、延凌様を殺めたのですか?」
湿った海風が二人の間を縫うように、吹き抜ける。
かえって、火事を拡大させている風に、黒髪を煽られながら、彩凌は景蘭を睨みつけた。
もしも、延凌が殺されたのなら、対話だけでは済まされない。彩凌は、延凌の敵を討たなければならなくなる。
……しかし。
「馬鹿だな。だったら、わざわざ、お前の前に姿を現すはずがない」
景蘭は、彩凌の殺気を受け流すように、溜息をついた。
「逃げられたよ。最悪だ。だから、こうしてお前を訪ねてきたんだろう」
景蘭は、人形のように整った顔を顰めて、言った。
「すまないが、傷が痛む。少し休みながら、お前と話をしたいんだが……」
「――な、何言っているのよ。あんた!?」
気色ばむ涼雅を、彩凌は片手で押さえつけた。
「分かりました」
「ちょっと、彩凌!?」
「貴方の言う通り、少し休みましょう。私が乗ってきた馬車の中ならどうでしょう。ここから近いですし、少し狭いですが、横になることも出来る」
「何処でもいいさ」
「では、そこに連れて行きましょう。しかし、ここまで大きな騒ぎとなってしまったからには、貴方には洗いざらい話してもらいますよ」
景蘭は、朱伊を一瞥してから、大きく頷いた。




