第四章 参
それは、もう色褪せた過去だった。
実際そんなことがあったのかも、思い出せなくなりそうな遥かな昔。
女は一つの誓いを立てた。
――命尽きるまで、この国を守る。
聞き届けたのは、一人の男だった。
その男は、もう何処にもいない。
とっくの昔に空に還ってしまったけれど……。
女は一人になっても、その時のその言葉を貫くことに、全力を投じた。
誓いだけが、男と自分を結びつける絆に感じていたからだ。
月日は残酷で、次第に男の顔も、声も、匂いも、容姿すらも、女の中で消えていった。
(……それでも)
女は走り続けた。走らなければならなかった。
何がしたいのか、したかったのか、自分自身すら失って、それでも生きている自分に冷笑しながら、終わらない永遠に続く仕事を、女は人知れず着実にこなしてきた。
(もう、駄目かもな)
この大仕事が最後のような気がしていた。
延命をしなければ、自分は消えてしまうかもしれない。けれども、女は躊躇った。
見てしまったのだ。
……すっかり忘れてしまった昔の自分を。
今まで、極力関わることを避けていた、人間の熱病のような情動。その熱源地に落とされたような、懐かしい感覚。
(……いけるだろうか)
唇を噛み締めた。やれるだけのことを、やってみようか。
――誰かに頼ろうと思っていた。
しかし、王都にも、紅令にも強力な結界があって、今の女の力ではどうにもならない。
時は一刻を争う。危険からあの娘を守りたいと願った。あの娘を悲しませないように、自分だけの力でやってみようと……。
もう一人の自分が頷いたから、女は気持ちを固めた。
少し体を休めていたために、出遅れてしまったが、女は再び敵と出会うことが出来た。
「よぉ」
声をかける。炎の影に、薄く紅になっている男の横顔が反応する。
屈強な体を、速やかにこちらに向けた。
「坊主が教院燃やすなんて、世も末じゃないか?」
「お前のせいだよ」
男は穏やかにそう言い捨てた。恨んでいるというより、茶化しているような口調だった。
背後は、紅蓮。炎上する大教院が火の粉と共に、崩れ落ちた。
「何故、「蒼本院」を燃やした?」
「ちょっと、勘の良い奴に抵抗されてな。脅しただけだったんだが、見事に全焼しちまった。言っておくが、火をつけたのは涼雅っていう元坊主でって、……まあ、弁解も馬鹿馬鹿しいか。……じゃあ、一応、反抗の狼煙とでも言っておくかな」
やけに冷静で多弁な男を、女は睥睨した。
「蒼涯経典をどうした?」
「暇潰しに奪っただけだ」
男は懐を指差す。はだけた旅用の法衣の胸元は、少しだけ膨れ上がっている。
まだ、試していないようだった。
「お前、もう日常には戻れないぞ」
「戻す気が、あんたにあったのか?」
……あったのかもしれない。何しろ、相手は黒涯師だ。僧侶の中でも最高位に準ずる地位にいる男なのだ。説教で済めば、それにこしたことはなかった。
それに、放っておいても、男は自滅していくのは分かっていた。
だからこそ、女は勝手な望みを抱いて、すべてにおいて、男より後手に回ってしまったのだ。
「お前は最初から、蒼涯経典が目的だったのか?」
「いいや。だから言っただろう。あんたのせいだって……」
「私の?」
「昔から欲しいものがあったんだ。それを必死になって隠してきたのに、目の前に欲しいものが現れてしまった。……もう、自分の感情を無視することは出来なかった」
女は男の目を見る。長い睫毛が濡れているように見えたのは、見間違いだろうか。
「お前を刺激するつもりはなかったんだが、一応謝っておこうか?」
「いや、良いんだ。すべて自分のせいだ。丁度良いところに来てくれたよ。まったく……」
女は掌に風を導いきながら、苦笑した。
「残念だが、お前に蒼涯経典は操れない……」
ざわっと背後の木々が闇の中に揺れて、男も身構えた。
「知っているが、挑戦してみる価値はある」
懐の経典を取り出した男は、吹きすさぶ風の中にそれを広げて晒した。
ひらりと舞った巻物の中身は、無だった。
……白紙だったのである。
微笑する女の銀色の瞳に、男の悟りにも似た複雑な表情が映りこんでいた。




