第四章 弐
彩凌は大きく揺れる馬車の荷台で、瞑想をしていた。
胡坐を組み、心を無にして、空気や、大地に溶け込む。世界と一体になるというのが修行の目的だった。
天来教の真実を知ってからは、「神」という存在が俄かには信じられなくなった彩凌だったが、この「瞑想」だけは、唯一真実味があると思っていた。
これをやると、気持ちが穏やかになり、神経が研ぎ澄まされるのだ。
手強い妖異が出現すると、手駒のように駆り出される修行中の僧にとって、ぶれない心の持ちようは、至極大切なことだった。彩凌にとって、日に二度の日課になっている瞑想だが、ここのところ、ちゃんと時間が取れなくて、悔やんでいたのだ。
(この機にしっかり修行をやり直さなければ……)
そう、思い立った彩凌は、馬車に乗り込んだ直後から、瞑目し、意識を散らすのに懸命だった。しかし、どうにも集中出来ない。何度も頭を振るものの、余りにも、考えることが山積していて、どうにもならない。
――一体、妖異とは何なのか? 彼らは、何処からやってくるのか?
少なくとも、景蘭は今まで彩凌が見たこともない新種だった。
唯慧師匠も、延凌も「人間に害を為す、強大な力を持った野獣」としか彩凌に伝えなかった。あとは、自分で考えろと言わんばかりの教えに、彩凌も次第にどうでも良くなっていた。戦いに暮れる日々に理由なんていらなかったのだ。しかし、考えてみれば、だいたい妖異が何たるか、ちゃんと分かっていない時点で、この国は間違ってしまっているのかもしれない。
透花は直接的に、景蘭を殺すのかと彩凌に訊いたが、単純に殺し合いに発展するような相手とも思えなかった。あの時は、透花が人質に取られているようで、彩凌は我を失いかけていたが、言葉が通じるのなら、話してみる価値はあるはずだ。
たとえ、延凌や、弟子達の心を裏切ることになっても……。
「……て、瞑想になってないぞ。おい」
御者台の朱伊が容赦なく突っ込んでくる。彩凌は肩を震わせた。
こちらの様子など本来知るよしもない位置で、馬の手綱を操っているのに、まるで後ろに目があるような言い方だった。
「ああ……。どうも駄目ですね。妖異のことを考えていました」
正直に答えたつもりだったが、白い外套を着込んだ大きな背中は、否定していた。
「はっ。馬鹿を言え。祥仕のことを考えていたくせに……」
弟子とは思えない言動である。しかし、彩凌は目を細くして微笑した。
実際、そうなのだ。表層では、これから起こりうる景蘭との対決を、透花も絡めて考えているつもりだった。しかし、内側では透花のことばかりが気になって仕方なかった。
「心配してくれているのですか?」
照れ隠しに尋ねると、朱伊は即答した。
「祥仕の方をな……」
「ほう……」
(随分、素直ですね)
それだけ、朱伊も透花に対して、親しみを抱いているということなのだろう。
だが、朱伊が透花に抱いている感情は、あくまで妹分に対する気遣いのようなものだ。
(……私は、やはり違う)
そんな種類の感情ではないようだ。今まで彩凌は透花の保護者として、親のつもりで彼女を育ててきたつもりでいた。しかし、それはいつの間にかおかしくなってしまったらしい。
(……あの時、私は透花に何をしようとしていたのだろうか?)
別れるつもりでいた。最後に、逃げてばかりいないで、ちゃんと透花と向かい合おうと、紅令に帰る馬車の中で誓ったはずだった。
それが……。
強く握り締めた透花の手は微かに震えていた。
力任せに自分を放そうとしなかった彩凌のことを、透花は怖いと思ったに違いない。
弟子に対する態度ではなかった。ましてや、大法胤の所業とは思えない。
この手を離したら、もう会えないと悟った。そしたら、歯止めがきかなくなっていた。
透花は彩凌より、ずっとさっぱりした表情をしていた。
女物の着物をまとい、薄っすらと笑みを作る透花は艶があった。もう、妖異だとか、子供だとか、そんなふうに見守ることが出来なくなってしまっている。
ーー彼女は女性なのだ……。
彩凌は長い間ずっと気付かないふりをしていた。知ってはならないと、足掻き続けてきたのだ。
(一体、どうしてしまったのだろう。私は……)
透花が十三になった頃くらいから、彩凌は彼女に教院の外に出ないように言いつけた。
男装がばれるなどと、周囲には主張していたが、本心は違っていたのだ。
――ただ単純に、透花を他人の目に触れさせたくなかっただけなのかもしれない。
…………最低だ。
彩凌は自分自身に恐怖すら覚えていた。
もしも、あの時王宮の使いが来ていなかったのなら?
(私は透花を……、どうしてしまったか分からない)
彩凌自身あの時の行動が理解できない。
しかし、まったく理性的でないことを仕出かそうとして、驚いていたのに、王宮の使いに連れて行かれる透花を目の当たりにして、本能に従って行動を起こすことが出来なかった自分自身を恨んだ。
(やはり、あのまま……。あの手を離さなければ)
恐ろしい思考を続ける自分を、激しく頭を振って諌めた。
「仕方ないですよね」
彩凌は心とは正反対の言葉を小さく呟くと、はかどらない瞑想をきっぱりとやめて、ごろりと転がった。
やる気がそがれてしまった。体がだるくて、どっと疲労を感じていた。こんなことは滅多にないので、透花がいなくなって、緊張の糸が切れたという方が正しいかもしれない。
「ここ何日か、まともに寝てないんです。少し眠るのでそれまでに蒼郡に着いてください」
「無茶言うな!」
朱伊は予想通り怒鳴った。まだ、透花と別れてから七日しか経っていない。百蓮を先ほど通過して来たばかりである。馬車の乗り心地を悪くしている相変わらずの砂利道は、蒼郡までの一本道になっているが、まだまだ先は遠かった。
しかし、彩凌は一刻も早く見慣れた場所から遠ざかってしまいたかった。百蓮すら、透花の面影を思い出して切なくなる。
「その傷心っぷりを、もっと早く祥仕に見せつけてやれば良かったんだ」
流れるように告げられた一言に、彩凌は仰け反って、朱伊の橙色の頭を見つめた。
砂を含んだ風に揺れ、淡い日差しの中に光を生んでいる髪。
涼雅に続いて、長い付き合いである名目上の弟子に、彩凌は本心から顔を綻ばせた。
「私はどうも祥仕の前では強くなければいけないと思っていたようです。それこそが私の愚かで浅はかな考えなのだと気づきもせずに。いつの間にか、肩肘張って生きるのが仕事だと思っていました。教院の世界でしか私は役に立たないんです。他に何の取り柄もないんです。だから……」
(背伸びしていたんでしょうね……)
彩凌は目を瞑った。
「泣くのか?」
問われて、
「泣く価値もありません」
一蹴した。
最近にしては、珍しく眠い。しかし、うとうとしていると、頭の上に何かが飛んで来て、彩凌は慌てて目をこじ開けた。
「何の悪戯ですか?」
「忘れてた」
あっけらかんと答える朱伊を一瞥して、彩凌は寝そべったまま文字を読む。だらしない姿勢だと、自覚はあったが、たまには、こんな時間を設けるのも良い気がしていた。
「ああ、これは。延凌様の……。黒武院の弟子からの手紙ですね」
延凌の本拠、黒武院は、彩凌の本拠地・南郡の隣り、北郡にあり、蒼郡とは南郡同様、遠く離れている。
三師の存在している三郡は、線で結ぶと逆三角形になる。そして、その中心に国王のいる都、白叡があるのだ。
「朱伊。お前にこれを渡した人間は何と言っていましたか?」
「ああ。何でも、黒涯師が帰って来ないで困っているって話さ。まあ、お前もいないという話をしたら、肩を落として帰っていったが……」
「ああ、それは……」
すまないことをしたなと、素直に思った。
「確かに、蒼郡の妖異を退治されるために、延凌様は、私よりも先に蒼郡に入られてましたからねえ。弟子達には迷惑をかけたことでしょうね」
「まあ、三月以上も留守だったら、師匠に心酔しているような弟子なら、心配するだろうな。……俺はしないけど」
「えっ?」
彩凌は朱伊の最後の部分を無視して大きく反応した。
「三月?」
それは、少し長いのではないだろうか。
……ということは、国王と延凌が会ったのは百日以上も前ということになる。
ふと湧いた暗い予感を否定するために、姿勢を正して、しっかりと書面に目を走らせる。手紙には、もうだいぶ前から、延凌の様子がおかしかったことが切々と書かれていた。
(……この弟子の思い過ごしではないのでしょうか?)
延凌の性格は変わっていなかった。頼もしくて、強くて、妖異に容赦ないところも、いつもどおりだ。
(延凌さまを心配しすぎて、弟子深刻に考えているのでしょう)
だが、景蘭との戦いで透花を狙った延凌を、彩凌はまだ許せないでいた。こういう人間だったのだと、疑心を抱いたのも事実だ。
「なあ、大体どうして、蒼郡なんだ?」
「えっ?」
「妖異が行くのは、蒼郡とは限らないんじゃないのか。特殊な妖異だからって妖異には違いないだろう。ちゃんと考えろよ。何で休息を必要としている妖異が、弱まっているとはいえ、結界壁の張ってある蒼郡に行くんだ?」
「宣戦布告……とか?」
「妖異が……か?」
朱伊は鼻で笑った。
「もしも、それが真実であったのなら、何故、延凌様は蒼郡と言ったのでしょう? 手分けして探しても良かったのに……」
「さあな」
「蒼郡に行けば、はっきりするんでしょうけど」
嫌な予感がしている。その前に、見落としていることがあるような気がして仕方なかった。
そして、得体の知れない不安感をあおるように、
「……あ!」
朱伊の驚声と共に、馬車が急停止した。
頭を床に打ちつけそうになって、反射的に上体を起こした彩凌は、身を乗り出して、御者台に座る朱伊の横から顔を出した。
「何事ですか?」
暴れる馬を宥めながら、朱伊が彩凌を睨んだ。
「暫定人類を轢くところだった。」
「何よ、その言い草は! まったく師弟揃って可愛くないわね!」
「その声は?」
声というよりは、話し方で分かったのかもしれない。
馬の鬣の向こうに、砂塵の中に埋もれるように立っている、見知った顔があった。
「涼雅ではないですか?」
彩凌が馬車を降りると、涼雅は幼子のように、わっと彩凌のもとに駆け寄ってきた。
「ちょっ、ちょっと大変なのよ!」
「お前の格好の方が大変だぞ」
余計な朱伊の一言だったが、彩凌は聞き逃さなかった。
常の涼雅ではなかった。いつもの派手な化粧もしていなければ、重たい極彩色の衣装も着ていない。
修行用の灰色の道着に、髪を一つに束ねている。彩凌が修行中に見ていた涼雅の出で立ちだった。
「頭でも打ったのですか?」
さりげなく言ったつもりだったが、涼雅は彩凌の胸倉を掴み、揺さぶった。
「もう! それどころじゃないのよ! 延凌様よ!」
一気に緊張感を高めた彩凌は、今度は逆に涼雅のがっしりとした肩を掴んだ。
「どういうことです?」
朱伊が琥珀色の瞳を眇める。砂嵐の先に、緑の大地と蒼い山がゆらめいている。遠く遠く、山の麓から伸びる一筋の黒煙。
――「蒼郡」で何かが起きている。
彩凌はようやく最悪の答えを導きだそうとしていた。