第三章 参
百蓮の町を出て、三日が過ぎた。
馬車は紅令の町に入ったので、そろそろ南総院に着いてしまうだろう。
やはり、彩凌は透花を南総院に送りたくないのではないか。
ほとんど無言が続いていた。
彩凌は忙しく馬車を操っていた。百蓮の町での結界壁の修復も早かったが、そんなに早く透花との最後の時間を終えてしまいたいのかと、問いたいくらいだった。
「そろそろ、着きますよ」
朝霧の立ち込める、南郡・紅令の街。
透花がうたた寝して、目覚めた時には、南総院に続く長い坂を馬車が駆けていた。
よく、この濃霧の中を彩凌は道を違えず走れるものだ。
透花は、目を擦りながら、清涼な山の空気を吸い込んだ。視界には白い霧が伸びているだけで、よく見えないのだが、きっと、青々とした巨木が両脇に立ち並び、教院への一本道を作り上げているはずだ。
愛着のある優しい森の香り。彩凌の体に染み付いているお香の典雅な匂いと合わせて、透花の帰るべき場所を示唆するものだった。
……襤褸の隙間から見える色彩。
ひたすら前を向き、手綱を握る彩凌の後ろ姿に親しみと悲しみを感じる。
彩凌は透花が思っているほど、透花のことを思っているわけではないのだろう。だから、こんなに急いで南総院に帰ってきたのだ。
特に思い出にも残らない数日間だった。
透花は、表層的には肯定しながらも、心の片隅では悔やんでいた。
(お師匠さまの、こんな姿ももう見られないな)
下を向くと、益々しんみりしそうなので、顔を上げる。
木々の隙間から、特徴的な朱色の山門が見えてきた。
――南総院だ。
門前には、見慣れた顔と白い道着姿の朱伊が無愛想な顔で突っ立っていた。
「思ったより早かったな」と、そっけなく言い放つ朱伊が、たった数日離れていただけなのに、透花には懐かしくてたまらなかった。
「ただいま。朱伊」
「……えっ。あ、ああ?」
透花の様子がおかしいことを瞬時に気付いたのか、朱伊は怪訝な表情をしていた。
「……朱伊。留守中何か変わったことは?」
「変わったのは、師匠と祥仕の方だと思うがな」
彩凌はそれには答えず、苦笑いだけを浮かべた。
……まだ、王宮からの迎えは来ていないらしい。
透花は安心していたが、来るなら早く来れば良い……とも、内心思っていた。
彩凌に指摘されるまでもなく、透花は自覚している。
もうこの運命から逃れることができないのならば、せめて良き王女になるしかないのではないかと……。自分が妖異だという負い目は、国民に尽くすことで払拭していかなければならないのだろう。
何より、両親に一度会ってきちんと話を聞いてみたいとも思っていた。
もう我がままを言って、彩凌を困らせようなんて思わない。
――だけど。
少ない荷物を持って、馬車から降りると、ひらりと薄紅色の花弁が透花の頬を掠めた。
「皇樹の花ですね……」
彩凌が言った。
太い幹にがっしりとした枝を持つ大木「皇樹」は、毎年春になると薄紅色の花を咲かせてくれる。年中温暖で、季節感の乏しい天陽国にとって、唯一四季の指標になってくれるのだ。
特にこの南総院で咲き誇る皇樹の花は格別で、教徒には尊ばれていた。その花を彩凌と眺めるのが透花の楽しみだったはずだ。
「忘れてた。……もうそんな季節なんですね」
「ここを出る前に大きな蕾を見ました。きっと、今年も、見事に咲くでしょう」
彩凌がぽつりと呟いたので、透花は泣きそうになった。最後だと、否が応でも実感する。
透花は、なるべく彩凌を見ないように山門を潜った。
しかし……。
「お師匠さま?」
彩凌が透花の肩に手をおいた。
「どうでしょう? 祥仕」
「えっ……」
「行きませんか。……お花見?」
「お花見……ですか?」
「でも、境内の花は、まだ咲いてもいないぜ」
「裏山の皇樹が今は見頃でしょう」
「裏山……?」
物騒なので、裏山には一人で近づかないようにと、彩凌から厳しくしつけられていた透花は、踏み入ったことがほとんどない場所だった。
興味はある。……が、彩凌が透花に気を遣っているのなら辛い。どうせここを去るのならば、彩凌が義務として用意した綺麗な思い出などないほうが良いのだ。
「でも、お師匠さまは百蓮からずっと馬車で駆けてきて、休んでないし……」
「この程度の疲れ。なんてことないですよ」
「で、でも」
咄嗟に返事が出来ずに透花が朱伊を見ると、何を誤解したのか朱伊は溜息交じりに言った。
「行ってくればいいだろ。二人で……」
「ちょっと待って」
朱伊は透花が彩凌と二人きりになりたいのだと勘違いしているらしい。
(いつも、そんな気なんて使わないくせに)
「行きましょうか」
透花が手にしていた荷物を朱伊に預けた彩凌は、素早く透花の手を取って境内の奥から山の中に入っていった。
「お、お師匠さま!?」
強引だった。いつもの冷静さは何処にいったのだろう。
しかし、喋らない。
彩凌は何も言わずに進むだけだった。 最近、彩凌の後ろ姿ばかり見ているような気がする。
沈黙が続くばかりで、透花は彩凌の手の温もりだけを頼りに、その背をじっと眺めるだけだ。
(ああ。そういえば。……昔も、こんなことがなかったけ?)
あれは、彩凌だったか、それとも別の人間だったか……。
幼い透花をここに連れて来てくれた人がいたはずだ。
(……誰だろう?)
どうしても思い出せなくて、頭痛にまで達しそうになった時、彩凌が細い山道の奥を指差した。
そこには、皇樹の大木があった。
満開の薄紅色の花が朝焼けにきらきらと輝いている。
一樹だけだった。周りの景色から、ぽつんと浮いて、孤高に咲き誇っている。
「樹齢三百年だそうですよ」
彩凌がはじめて口を開いた。
「……綺麗ですね。私、満開の皇樹を、境内ではない所で初めて見ました」
微風にひらひら舞う花弁に、うっとりとしている透花の手を強く握りしめて、彩凌は言った。
「今まで、私がここを立ち入り禁止にしていたのは、物騒という理由だけじゃなかったんです」
「お師匠さま?」
「実は、ここは唯慧師の思い出が深い場所なんです。だから、私はずっとここを避けていました。お前だけではない。私もここ十数年ここには近づいてないんですよ」
「私が殺めたからですね……?」
ーーここで?
問いかけようとして、透花はためらった。
そんなことを訊いてどうするのだろう。答えを知ったところで、意味などないのだ。
歩みを止めた彩凌は、透花の言葉に眼差しを暗くした。透花の傷が自分の痛みとでもいうような表情を浮かべていた。
「お前に言った通り、私はその場を見たわけではありません。それに師匠は老齢だった。どちらにしても別れは近かったのです。ただ私が師匠の死を受け入れるほど大人ではなかったということなのです。……でも、もうそれは許されないんです」
彩凌の真剣な目が怖い。
真っ直ぐな瞳は、透花を憎んでいるのではないか、恨んでいるのではないか?
「私の両親は妖異に殺されました」
(……やはり、恨んでいるのかもれしれない)
そういう理由でもなければ、命賭けの仕事である「僧侶」になろうなどと、思うはずもないのだ。絶望的な気持ちでいると、彩凌は透花の考えを否定するように、首を振った。
「私が僧侶を志したのも妖異を滅ぼすことが目的の不純な動機でした。でも、そんな私を嘲笑うように、師匠は最期にお前を私に託していったんです」
「……お師匠さまは、私を引き取って後悔しているんですよね?」
動揺を隠した声で問いかけると、彩凌はすぐに答えをくれた。
「正直、そんなことを考える余裕などありませんでしたよ。お前は毎日大きくなっていった。そして、もうここから出て行くんですからね。本当あっという間でした」
意外に骨張った彩凌の手が熱かった。そういえばこんなふうに彩凌と手を繋いだのは数年ぶりだったと、その時になって透花は気付いた。
「実は、百蓮を出てから、ずっと私は考えていました。自分はどうしてしまったのかと……」
「別に。お師匠さまは、いつも通りでした」
「いいえ。百蓮の町で妖異を退治するのにも手間取っていたじゃないですか……」
(そうだった)
「あれは……?」
「お前に自分は妖異だと……殺さなくても良いのかと言われて、心が痛みました。自分は何のためにこの妖異を葬らなければならないのか、どうして僧侶になったのか、何が憎いのか分からなくなってしまったんです」
彩凌は自分の中で整理しているのだろう、ゆっくりと言った。
「私は今まで明らかに逃げていました。お前に真実を告げる勇気もなかったのは、お前が私のもとから離れていくという現実を受け入れたくなかったからでしょう。だから、お前も、私の言葉を信じない」
「信じてないなんて……」
そうではない。
……信じてはいる。
ただ、怖いのだ。信じてしまったら、何処までも透花は彩凌に依存してしまうかもしれない。彩凌に甘えて、もっともっとと欲してしまうかもしれない。
もしも、彩凌が大法胤の義務として透花と向き合っているのなら、いっそのこと……。
(何処かで突き放してくれたほうがよっぽど良い)
妖異だと彩凌から蔑まれ、二度と会えないと覚悟したほうが透花にとっては、幸せなのかもれしない。――でも、それも……。
彩凌は許してくれないのだ。自分自身を許さないように、透花にも……。
「私、お師匠さまのこと好きですよ」
「えっ?」
「多分、今の話の中に出てこなかったお師匠さまの気持ちもあると思うし、私のことをやっぱり、遠ざけたいって思った時もあるかもしれないけど。でも、私お師匠さまが好きで、ずっと小さい頃から、お師匠さまに好かれたくて仕方なかった。今も……きっと、そう。だから、こないだからずっと、お師匠さまに変な態度をとってしまったんです」
透花は、彩凌の手から自分の手を離した。
……好きという表現が良いのか、悪いのか、透花には分からないが、他に彩凌に対する自分の思いを託す言葉が見当たらなかった。
彩凌が素直になってくれるのならば、最後に自分も偽りない本音を告白しようと思った。
また口に出すことによって、今後の覚悟も固めようと思った。
「恐ろしいことでしたが、全部分かって良かったのかもしれません。今回、唯慧さまのことが分からなければ、私は何もなかったかのように生きてしまうところでした。うまく、償うことが出来るかどうかは分かりませんが……」
「償いなんて、唯慧師匠はそんなことは望んでいません。絶対に!」
彩凌が感情をあらわに怒鳴った。
やけに、その面差しが幼く見えた。
あの百蓮の夜のようだった。今日は僧服を着ているのに……。
(変なの……)
「おいっ、祥仕。師匠!」
慌しい朱伊の足音を聞いて、透花はきびすを返した。
「王宮からの迎えが!」
「はいっ」
(行かなくちゃ……)
しかし、透花は動けなかった。気がつくと、彩凌がその手を掴んでいた。
花弁が乱舞する。
風の音に負けないような、彩凌のよくとおる声が透花を金縛りにさせた。
「違います! 私はお前を懺悔させるためにここに連れてきたわけではない」
「お師匠……さ?」
「ただ自分の気持ちを、確かめたかっただけなんです」
彩凌は必死な形相をしていた。
苛烈な瞳の色をしていた。しかし、苛立っているわけではない。
……違う。
――激情。戸惑うくらい真剣な眼差しが間近にあった。
「透花……」
初めて名前を呼ばれた。今まで彩凌が透花の名前を呼んだことはない。
しかも、こんなふうに荒々しい声で呼ばれることなど、透花は想像もしていなかった。
「お師匠さま……?」
激しくなる鼓動がばれないように、腕を解こうとするがびくともしない。
そこにいるのは透花のよく知っている彩凌ではなかった。旅に出てから彩凌の知らない一面を発見することがあったが、今のはそんな生易しいものではない。
(この人は……、 お師匠さまではない?)
――では。
……一体ここにいるのは誰だというのか?
「お前が望むのならば、私は……」
そのままぐいっと引っ張られて、透花は抱き寄せられそうになった。
今まで彩凌には何度も抱き締められたことがあるが、それとは感覚が違っていた。
(何……?)
体の芯が得体の知れない感情で埋め尽くされる寸前だった。彩凌の手が止まった。
「……姫様」
同時にそう言い、恭しく頭を下げたのは、一人の女性と、二人の男性だった。
後の言葉は聞かずとも、推測できる。
彩凌が透花の背中に回そうとしていた手を、そっと下ろした。
――別れの時がきたのだ。




