第三章 弐
透花も唯慧師のことは、時々涼雅から聞いて知っていた。
涼雅と延凌、そして彩凌の師匠。
その温和で飄々とした性格を、涼雅は懐かしそうに目を細めながら透花に話してくれたものだった。
逆に、彩凌が唯慧の話をしてくれたことはないのが気にかかっていたのだが、そういう理由だったらしい。得心はしたが、心は張り裂けそうだった。
(…………唯慧師を私が殺した……?)
自分の大切な師を殺害した妖異との生活を、彩凌はどう思っていたのか。
師匠の敵を育てなければならないなんて、こんな屈辱的なことはない。
これからどうなっていくのか。
これからどうしたら良いのか?
もし、透花が妖異だとばれたら?
国王の娘こそが、妖異の血を濃く継ぐのだと気付かれたら?
そうしたら、透花は何処にいることも出来なくなるだろう。
こんな不安定な状態で、自分は王宮に戻っても良いのだろうか……。
ふらりと、透花は宿の部屋を出た。
廊下を支配する、夜の乾いた空気に体を震わせて一歩踏み出す。
――と、背後で咳払いがした。
薄暗い廊下に、ぼんやり燭台の灯が揺れていた。
……彩凌だった。
「外には出るなと再三言ったはずですよね」
「はい」
明らかに、声が怒っている。言い逃れは出来ない。透花は夜着ではなかった。
「す、すいません」
(お仕置きだな……)
直感した透花は、頭を下げながら振り返った。
しかし、いつものような指の痛みは、いつまで経っても襲ってこなかった。
おそるおそる顔を上げる。
「ここは紅令ではないのですよ。外の世界には危険が沢山潜んでいるのです」
彩凌は微笑しているらしい。怒っているわけではないようだ。
透花の頭を、彩凌が触った。そっと撫でる。
子供のような扱いだったが、彩凌が透花を見る目はいつもと違っている。
「あまり私に心配をかけさせないで下さいよ」
「お師匠さま?」
……おかしい。今までの自信に満ちた保護者の態度ではなかった。
迷っているような……、弱っているような……、悩んでいるような表情だった。
……奇妙な感覚。
(何だろう?)
何かが違う。……それとも。
彩凌が宿の用意した簡素な夜着を着ていることに、透花が慣れないせいだろうか。
大法胤の正装に身を包んだ彩凌は、透花でさえ近寄りがたい感じがするものだ。
それが……、今はごく普通の青年に見える。
変な気分だった。かえって、緊張する。
「眠れないんですね」
彩凌は小声で言って「無理もない」と続けた。
透花は彩凌につられるように少しだけ笑った。
「お師匠さまも眠れないんですか?」
「ええ」
彩凌はうなずいた。
「ここのところずっとです」
(もしかして……?)
透花のもとに王宮の使者が来てから、彩凌も眠れなかったのだろうか。
透花と同じように……。
変な期待を微笑で打ち消して、透花は自分の部屋に戻ろうとした。
「透花?」
呼び止められても辛かった。急に背中を見せる透花を心配してくれているのだろうが、慕っているからこそ、一緒にいるのが申し訳なかった。
今まで何も知らずに彩凌にまとわり付いていた自分が恥ずかしくて仕方なかったのだ。
「明日、早いんですよね。とりあえず休まないと……。お師匠さまもお休みになって下さい」
「……もう少し」
彩凌は躊躇うように口にした。
「もう少し一緒にいられませんか?」
「えっ?」
耳慣れない言葉に、透花は硬直する。自分の言動を省みたのだろう彩凌は、慌てて顔を横に向けた。
「すいません。――部屋に戻ります」
「お師匠さま……?」
やはり、変だ。しかし、透花もまた変なのかもしれない。今までの透花だったら、その言葉を信じきって、彩凌に駆け寄っていたはずだ。……でも。
(もうそれは出来ない)
しみじみと思う。
(お師匠様は、私のことをどう思っているのだろう?)
愛情は感じる。透花のことを心配してくれているのも分かる。
しかし、それが僧としての義務からなのか、彩凌自身の本当の感情なのかが分からなかった。
ーーと、透花に背中を向けかけていた彩凌だったが、突如場の気配が変わった。
「大変だ! 彩凌」
どかどかと足を引き摺って階段を上ってくる人影に、彩凌が明かりを向けた。
「延凌様?」
法衣を身につけた延凌が左肩の傷口を押さえながら、やって来る。
彩凌はその深刻な表情に、何かを察したのか、階下に駆け出した。
後を追う透花の前に、自前の真っ赤な寝巻き姿の涼雅が立ち塞がった。
「どしたの? 透花ちゃん」
あくびを噛み殺しながら辛うじてそう言う。
透花は涼雅の袖を引いた。
「よく分からないんですけど、一大事みたいです」
外が騒がしい。
(何が起こってるの?)
階段を駆け下りようとしたら、廊下の先にあった小窓が壁ごと吹き飛んだ。
「うわっ!」
「透花ちゃん!」
涼雅が慌てて透花を後ろに庇ってくれた。
「怪我はない?」
「涼雅さんは?」
「私は大丈夫よ。それより……」
険しい顔つきで、涼雅は穴になってしまった窓から、外を眺めた。
闇の中にうねっている何かが見える。巨大な……
「尻尾?」
「……妖異ね」
涼雅が溜息交じりに言う。涼雅には、透花の事情を知らせていない。仕方のないことだ。
でも……。
(……妖異)
その冷たい一言が透花の胸には深く突き刺さった。
◆◆◆
妖異は、巨大な蜥蜴のようだった。
大きな肢体を使って、百蓮の町を破壊しているというのは、逃げ惑う人々の会話から予想したことだ。
透花と涼雅は、人垣を縫ってやっと表に出た。
夜だから分かりにくいのかもしれないが、見たところ、壊滅的な損害を受けている箇所は確認できない。
「透花殿、涼雅」
明るい声で呼び止めてきたのは、延凌だった。
「俺も一緒に退治してやろうと思ったんだがな。彩凌に叱られた」
「絶対安静です」
有無をも言わさない涼雅の口調に、延凌は微苦笑を浮かべる。
「あの、お師匠さまは?」
「あそこだよ」
延凌が暢気に指差した場所に彩凌の後ろ姿があった。
往来の真ん中に立っているのは、彩凌一人だ。
妖異が跋扈する町の中で、そんな目立つ場所を通る人間もいない。
「……お師匠さま」
「心配はいらんさ」
「そうよ」
二人の言う通りだ。彩凌があんな妖異に負けるはすがない。「妖異」という言葉に、透花の心中は複雑だったが、それでも今は彩凌の勝利を疑いたくなかった。
(だけど……)
透花は彩凌の動きが鈍いような気がしてならなかった。
あくまで透花がそう思うだけで、彩凌にとってはいつもどおりなのかもしれないが、先日馬車の中で、妖異を殲滅した時のような速さがなかった。繰り出される攻撃をすれすれで避けている。
……迷いがあるようにもみえた。
数珠を握りしめているのだから、法力は使えるはずなのだ。
(一体、どうして?)
「……お師匠さま」
心配で見ていられなくなった透花は視線をそらした。
……と、無意識に向かった視線の先、小柄な男が小声で呻いた。
「もう、おしまいだ」
その男の妻だろう女性が一緒になって、うなだれている。
「妖異が町にやってくるようになったなんて、もうここには住めないわね」
「そうだな」
その二人に同調するように、町の人はみな下を向き出した。
(いけない)
このままでは、みんなこの町から逃げ出してしまう。結界壁を張りなおせば、またこの町に住むことは可能なのだ。せっかくの活気ある町を、こんな形で潰したくない。
「どうしよう」
「大丈夫だ」
透花に言うようにして、町のみんなに向かって声を張り上げたのは、延凌だった。
「百蓮は結界壁が古くなっていた。簡単な補強は昨日したのだが、強力な妖異が侵入したことによって、一段と結界壁が脆くなったんだろう。この妖異を抹消して明日には大法胤自ら結界壁を作って下さる。安心しろ」
侵入した強力な妖異というのは、景蘭のことなのだろう。
説得力がある真実の言葉に、暫時、町人達は押し黙った。……しかし。
「大法胤?」
「まさか、あれが大法胤だっていうのか?」
「あのひょろっとした兄ちゃんがか? 嘘だろ?」
彩凌を見遣る町人の目は、疑いに満ちていた。
仕方ないことだった。彩凌は若すぎるし、服装もいつものような煌びやかな法衣ではない。
……宿の寝巻き姿だ。
信用しろというのも無理な話なのかもしれない。それに、今事態は膠着している。
「何をしていやがる。……俺が」
延凌が飛び出そうとして、足を押さえた。まだ怪我の調子が良くないらしい。
やはり、彩凌の動きは悪いのだろう。
「あの兄ちゃんが大法胤なんて嘘だろ? 弱そうだし」
「大法胤が来るんなら、盛大に式典でもやるもんだ」
「でも一応は坊さんみたいだぜ。今日町の真ん中で法力使っている姿見たし……」
「馬鹿な。坊主が女連れのはずないだろう。あそこは女人禁制だ」
「そんなの分かんねえぜ。破戒僧だっていくらだっているからな」
背後の下卑た声が透花の頭を真っ白にさせた。
透花が女物の着物を身につけているせいだろう。いつもの小坊主姿でいたのなら、まだばれていなかったかもしれない。
彩凌が透花の格好について何も言わないのは当然だ。そして、紅令に帰したがるのも……。
透花を連れている彩凌は、町の人にそういう目で見られていたのだ。
…………もう駄目だ。
体の芯がかっと熱くなった透花は、黙っていられなかった。
「よせ」
掴まれた延凌の手を振りはらい、透花はありったけの大声を張り上げた。
「お師匠さまは……、あの方は紅涯師、大法胤彩凌さまです!! 私を連れているのはやむを得ない事情で……、つまり!」
(何が言いたいんだろう。私は?)
無意識に言い散らかしていた言葉を頭の中で整理してみて、透花はふと思った。悟ったというのが正しいのかもしれない。
(ああ、そうだ)
「……私は。……私は、天陽国の第一王女隆 透花です。大法胤は宗規に則り、私を旅の供にして下さっただけ。やましいことはこれっぽちもありません。信じて下さい。大法胤はあの程度の妖異に引けを取ることはありません!」
町人達が呆気に取られたのは、透花の熱弁だけが原因ではなかったようだ。
紅の閃光が、町を包んだのは、その時だった。
まるで、透花の言葉を聞いていたかのような頃合で、彩凌は妖異を縛りつけ消失させた。
「おおっ!」
どよめきと歓声が一斉に沸き起こる。
彩凌はゆっくりと歩を進めて、あっさりと透花に言った。
「妖異を退治しても、騒ぎになりそうですね」
やはり、透花が何をしてしまったのか、分かっているらしい。
それほど余裕があったのなら、何故もっと早く妖異を退治できなかったのか?
しかし、透花が疑問をぶつける間もなく、延凌と涼雅を置いて、彩凌は透花の手をひいて、宿の中に入った。
「準備が出来た次第、ここを出ます。結界壁の補強は町の外でも出来ますから」
「お師匠様……」
後ろ姿なので表情が分からない。
「もしかして、その……、怒っているんですか?」
「どうして?」
「だって……」
「…………有難う、祥仕。――でも、もう、これから貴方は、透花……姫になるんですよね」
「えっ?」
それは、彩凌の独り言のようでもあった。
足早に、宿の中を進む彩凌に透花が追いつくことが難しくなってきた時、彩凌は、ぽつりと小声で言った。
「そろそろ、王宮からの迎えも来ているでしょうから。貴方は帰らなければ……」
「でも、こんな私が姫だなんて……」
思いがけず、本音を吐露すると、繋いだ指先に強く力が入った。
「今、お前は、姫だと胸を張って私を護ろうとしてくれたでしょう。それを貫きなさい」
それは、励ましには違いない。
けれど、もう自分には王宮に帰る以外の選択はないのだと、透花は思い知らされたようだった。