序章
――天陽国の第一王女は、成人するまで教院で過ごさないといけない。
それは、しきたりであり、代々王家の娘が守ってきた絶対的な「法」だった。
躾のためだとか、王女としての自覚を促すためだとか、色々と意見はあるが、天陽国の王女、隆 透花にとっては、もはやどうでも良いことだった。
「いたたたっ! ゆ、指が折れる!」
左手の人差し指に激痛が走る。慣れている痛みだが、だからといって指が折れないという保証は何処にもない。しかも、朝一番にこんな目に遭うとはつくづくツイてない。
「――ああ、今日も最悪。何でこんな目に遭わされてるの? お師匠様なんて大嫌い。そんなふうに、今思ったのではないですか?」
そこまでは思ってない。
しかし、透花が肩を震わせたのを、肯定と取ったのだろう。透花の背後に立つ大きな影は、経を唱えるかの如く、滑らかで柔らかな声音で、説教を言った。
「でも、仕方ないですよね。二日連続で寺の掃除をサボった挙句、今まさに、貴方は逃げ出そうとしているのですから。ねえ?」
(……うっ)
透花は既に頭を下げた状態で振り返った。
眠気をこらえて何とか一つに結い上げた灰色の髪は、激しく動いたせいで、既にぐちゃぐちゃになっていた。
「ごめんなさい」
指の痛みは既に収まっていた。
透花の人差し指に、きらりと光る紅の指輪は朝日に映えて美しい。
とても、今まで透花の指を締め上げていたものとは思えない。
……そして、それはこの人物にも言えていた。
「分かったのならよろしいのです」
清々しい青年の微笑。柔和な物腰と、中性的で儚げな面差しからは、虫も殺せないような優しさが漂っていた。
だが、そんな青年の指の間には、透花の着物と指輪と同じ紅色の数珠が連なっている。
今の今まで透花を苦しめていたのは、紛れもないこの青年なのだ。
「さあ、一日はあっという間ですよ。さっさと掃除をしてしまいなさい」
涼やかな風に、背中まで長いさらさらの黒髪をなびかせて、青年の視線が透花から離れる。これから彼は本堂で読経してから、透花を近寄らせない庫院で、教徒の悩み相談を始めるのだろう。
彼の朝は忙しいが、相変わらずだ。毎日繰り返される日常は淀みなく、平和だった。
……だからこそ、ないものねだりは承知で、透花は望んでしまう。
(もう少し、他に何かないの?)
「お師匠様」
老朽化の激しい廊下を、軋ませることなく空気のように進む彼の後ろ姿。
目に鮮やかな紫紺の法衣は、最高の僧侶にしか与えられない栄誉の証だ。
……透花の師匠。
大法胤・彩凌。
「大法胤」とは僧侶としての最高位である。彩凌は若干二十六歳にして天陽国の国教である「天来教」の教主として君臨していた。
美麗な顔立ちと凛とした所作は、圧倒的な存在感を放っていて、まだまだ若いとはいえ、教主としての貫禄を十分持っていた。血筋はどうあれ、質素な灰色の僧服を纏い、弟子の体裁を取っている透花には、手の届かない存在に等しい。
「何です?」
「えっと……」
振り返って、間近に心当たりのない顔で聞き返されると、透花の方が困ってしまう。
「な、何でもないです」
彩凌は暫時、怪訝な顔をしていたが、すぐに忙しさを思い出したのか、
「掃除が終わり次第、境内でなら遊んでも構いませんけど、夕刻にはちゃんと戻ってくるんですよ」
きっぱりと言い渡して、颯爽と透花の視界から去って行った。
「ああ」
透花は速やかに納得する。今の言動……。
(子供扱いも良いところだよね)
彩凌は、もしや忘れてしまったのだろうか。
先日教院に訪れた「使い」を……。
透花はもうすぐ成人する。
王宮に戻る日が近づいているのだ。