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 授業が終わり気だるそうに鞄をぶら下げて教室を出ていく佐伯の背中をこっそりと僕は追った。


 長い髪を軽く揺らして廊下の中央を闊歩する佐伯。

 まるでモデルが花道を歩くように堂々と一定のスピードを保って突き進む。

 彼女の前に立つのを怖れるかのように同学年の生徒たちが次々と脇に寄っていく。


 彼女の人を寄せ付けないオーラは後姿を見ているだけでもビリビリと伝わってくる。

 僕の足取りは一歩一歩重量感を増していった。


 あの佐伯に話しかけて部活動の何たるかや集団行動でのマナーを説かなくてはならないのか。


 僕は身の丈に合わないひどく大それたことをしようとしている気分だった。

 全校集会で訓話する校長のマイクを奪い漫談をやるだとか職員室に単身乗り込んで梶田先生に「その服どこで売ってるんですか?」と訊ねることの方がまだ簡単に違いない。

 果たして僕にそんな胆力と能力が備わっているのだろうか。


 彼女に声を掛けるタイミングを計るどころか見失わないようについていくだけで息が切れてくる感がある。

 そんな僕にはこの距離を詰めて彼女の肩を叩きこちらへ振り向かせることなど沙織にデートを申し込むことより不可能なことのように思える。


 彼女は迷いのない足取りで階段を上がっていく。


 この棟の三階には美術室がある。

 彼女は今日もそこでキャンバスに対面するつもりなのだろう。


 一段一段上るたびに張りと弛緩を繰り返す彼女のふくらはぎの肉感的な動きは親父が日曜に見ていた競馬中継のサラブレッドの四肢を彷彿とさせる。

 膝裏の青みがかった血管が透けて見えるような白さはいやに扇情的だ。


 フェチという言葉を耳にすることがあるが僕は自分が女性のその部分にフェティシズムを覚えるのかもしれないと思い至って何となく自己嫌悪を覚えた。

 性的興奮を肯定的に捉えられない心理は僕がまだ子供だということなのだろう。


 そんなことをぼんやり考えているうちに彼女はさっさと階上に消え姿が見えなくなってしまった。

 僕は慌てて彼女を追いかけた。


 階段を駆け上り美術室の方へ廊下を右に曲がったところで僕は真横から声を掛けられた。


「何か用?」


 ひっ。


 僕は声にならない声とともに飛び上がって驚いた。

 その拍子に彼女がもたれているのとは反対側の壁にしたたかに肩をぶつけて思わずうずくまる。


 小さく呻きながら痛みの中で僕は自分の腹が据わるのを感じていた。

 彼女は僕が後を追っていることに気づいていたようだ。

 この状況を取り繕う言い訳など何も見当たらない。

 この場を逃せば西堀に求められたことを達成することはもう無理だろう。

 とりあえず動揺している心臓の動きを勢いに変えて一気に彼女と対峙してしまおう。


 僕は鈍痛の残る左肩を抑えながら彼女の眼前に立ち上がった。


「あのさ……」


 僕が腹を据えて口を開くと佐伯は冷ややかな視線で僕を射すくめる。

 あまりの冷たさに僕は泡を吹いて気を失いそうだ。


「昨日も、一昨日もあたしをつけまわしてたでしょ」


 良くご存じで。

 心当たりがありすぎる僕は後ろめたさで途端に彼女の顔を正視することができなくなった。


 昨日や一昨日だけでなく金曜日の今日まで今週は毎日話しかけるきっかけを求めて僕は彼女を追い続けていたのだった。


 西堀に期限を設定されていた。


 今週中になんとかしてくださいね。


 言葉は丁寧だが彼女の口調には反論は許さないという断固とした強さがあった。

 できなければ身の安全は保障しませんよ、と鋭利なナイフで顔を撫でられたような気分だった。

 半ば一方的に電話を切られてしまってから僕はあっという間に過ぎ去っていく一日一日を追い立てられるような気持ちで過ごしていたのだ。

 何で俺が、と考えないわけではない。放っておけば良いじゃないか。

 そうは思っても目ではずっと佐伯を追ってしまっていた。


「ストーカー?」


 佐伯が気持ち悪いものを見るように顔を歪めるのを目の当たりにして僕は屈辱的な気分に全身をわなわなと震わせた。

 全てはお前のせいだ。

 それなのにその態度は何だ。


「違う!」


 唾を飛ばしながら僕は身体を熱くする。

 僕は男として最も恥ずべき汚名に発奮しやっと佐伯の目を見返すことができた。


「言っておきたいことがあるんだ」


「何よ」


 訝るような低く冷たい声の佐伯はまだ僕をストーカーと思い込んでいるようだ。

 腕を組んで斜に構える彼女の心は非常に遠くにあることが分かる。

 千里の道も一歩から。

 とにかく一歩踏み出すことが大事だ。踏み出しさえすれば後はそれの繰り返しなのだから。


「今日も美術室で絵を描くのか?」


「そのつもりだけど、そんなこと美術部を辞めた人に関係ないでしょ」


「それがあるんだよ」


「どうして?」


「どうしてって佐伯は美術部員じゃないのか?」


「カジカジには認めてもらったわよ。それは光太郎だって知ってるじゃん」


「だったらOBの言うことは聞いてもらわないとな」


「何それ?意味分かんない」


 佐伯が面倒臭そうに眉間を曇らせ目を細める。


「部員にとってOBの言葉は絶対だ。それが部活動ってもんなんだよ」


 幽霊部員だった自分が部活動について語っているなんて僕が一番驚いていた。

 しかも口から出てくる理屈が筋が通っているのか甚だ自信がない。

 それでも言ってしまった以上後戻りはできなかった。

 僕はあるのかどうか分からないOBの威光を笠に着ているつもりで言葉を続けた。


「部活動は礼に始まり礼に終わる。佐伯は美術室に入るとき、出るときに挨拶をしてるか?」


「そんなことを言いたくてストーカーしてたの?」


 呆れたようなため息交じりの声。


「だから違うって。挨拶の話は例えばってこと。部に入ったんなら部員同士仲良くするのは当たり前だろ。美術部は一人でやってるわけじゃないんだ。部長や部員に自己紹介ぐらいしたのか?」


「絵を描くのは個人。自分以外他に誰もいらない。あたしに指導できそうなレベルの人はいないし、話し相手がほしくて美術部に入ったわけじゃないんだから今のままで何の問題もない」


 佐伯が低い声で押し通す主張に思わず頷いてしまいそうになる。

 しかしここが踏ん張りどころだ。


「佐伯に問題がなくても周りは問題だと思ってるんだよ。佐伯が美術室で使ってる画材は部員がお金を出し合って買ったものだ。部費は払ってるのか?誰の許可をもらって画材を使ってる?美術部には美術部なりのルールがあるんだよ。それが守れなきゃ部員じゃないし、部員じゃなければ放課後に美術室は使えない」


 言い終わった後の声の響きに爽快感があった。

 ストーカー呼ばわりを辞めさせたい一心で思いつくままに言葉をつないだが、佐伯相手にこれだけ開き直れるとは思いもよらないことだった。

 これだけ言えばさすがの佐伯も少しはしゅんとなって可愛げのあるところを見せるのではないか。


「くっだらない」


 へ?


「あたし、美術部辞めるわ。誰に唆されたのか知らないけど光太郎も御苦労さまだったわね」


 手をひらひらと軽やかに揺らし余裕の頬笑みを残して彼女は僕に背を向け階段を降りていった。


 こんな展開になるとは。


 部費は幾らなのか。部長は誰がやっているのか。


 あれだけ言えばそういった美術部に在籍し続けるための質問が返ってきて当然だろう。

 そう思い込んでいた僕は返す刀でばっさりと袈裟掛けに斬られたようなぐうの音も出ない敗北感にしばらく呆然と立ち尽くすだけだった。


 千里の道は途中で途絶えていたようだった。

 気が付けば踏み出した足を置く場所がなく暗闇の奈落に真っ逆さまだ。


 どれぐらい僕はぼうっとしていただろう。

 真っ暗闇の中にいるような感じがしていたが気がつけば目の前には校舎の白い壁があった。

 当然ここは美術室前の廊下だ。


 とりあえず、だ。

 とりあえず責任は果たしたと思えば良いだろう。


 西堀が求めている結果には至らなかったが、佐伯が部を辞めれば彼女が部員から責められることはなくなるのだから彼女もほっとするに違いない。

 僕もこれ以上佐伯のことで誰かに何かを求められるという事態は降りかからないという意味ではこの展開は大成功だったのではないか。


 そうだ。そうに違いない。


 僕はようやく自分なりに状況を良い方向に解釈することができて顔を起こした。


 そこへ不意に背後から何かがぶつかってきた。

 その衝撃に膝から崩れそうになって慌てて壁に手をつき身体を支える。


「佐伯と何話してたんだよ?」


 振り返ると陽平の顔がそこにあった。

 いつから居たのだろうか。

 お前も隅におけないな、とにやけた口角のあたりが言っている。


「別にたいしたことじゃないよ」


「そんなことないだろ。佐伯が行っちゃった後のお前は完全に腑抜けになってたぞ。振られたのか?」


「そんなんじゃないっ!」


 ストーカーの次は失恋男か。

 馬鹿馬鹿しい。


 僕は何もかもが面倒になって陽平を置いて階段を降りていった。

 今の僕はこの場に倒れこみたいほどクタクタで口をきくのも億劫なくらいなのだ。


 慌てた感じで陽平が追いかけてくる。


「怒んなよ、光太郎。悪かった、冗談だって」


「別に怒ってない」


 反射的にそう言ったが頭はカッカしていて鼓膜のあたりがぼわんとしている。


「見るからに怒ってるよ。お前にしては珍しく」


「陽平がからかうからだろ」


「だから悪かったって」


 階段の踊り場で僕は大きく深呼吸した。


 少し冷静になろう。

 陽平と喧嘩しても仕方がない。


「佐伯が美術部に入りたいって言うから顧問のところに案内したんだけどさ」


 僕は少し冷静さを取り戻して歩きながら陽平に事の成り行きを説明した。

 しかし喋っているうちにまた胸のあたりに血が滾ってくるようだった。


 西堀の責任転嫁する強引さ。

 佐伯の人を小馬鹿したような態度。

 女子というのは皆どうも鼻持ちならない存在に思えてくる。


「そっか。そりゃ、俺でも頭にくるわ」


「だろ?ほんとむかつくんだよ」


 僕は激しく陽平に同調した。


 やっぱり男は話が分かる。

 他でもない陽平がそう言うのだから僕が憤るのは間違ってはいないのだ。

 西堀に対しても、佐伯に対しても。


「でも良かったよ」


 陽平が前を向いたまま安心したように表情を緩める。


 陽平が良かったと思うのならきっと僕も良かったと思うだろう。

 そう思わせるほど陽平の笑顔は尊さを感じさせる。


「何が?」


「光太郎が佐伯のこと好きじゃなくて」


「どういうこと?」


「もしそうだったとしたら、俺と佐伯が付き合うことになったら、光太郎が可愛そうじゃん」


「は?」


「いや、俺、最近佐伯のこといいなって思ってて気になってるんだ」


 えー!


 僕は思わず立ち止まって声を上げていた。

 驚きだった。

 陽平が佐伯のことを好きだということと、陽平が沙織のことを好きではないということに。


「声が大きいって」


 陽平が手で僕の口を押さえるような仕種をする。

 その顔が朱に染まっていた。


 陽平は本気なんだ。

 そう思ったとき僕は一つの疑問を口にしていた。


「沙織はどうするの?」


「どうして沙織が出てくるんだ?」


 陽平がきょとんとした表情で首を傾げる。


「だって、陽平は沙織と付き合ってるんだよね?」


「は?付き合ってねえよ。どうしてそうなるんだ」


 陽平はいかにも心外という感じで吐き捨てるように否定した。


 しかし、陽平と沙織が恋仲だというのは学年の常識のようなもので、そう思い込んでいたのは僕だけじゃないはずだ。

 仲良さそうに話をしている二人を見て悔しいけれどお似合いだと校内の至る所で囁き合っているのを耳にする。


 あの親密な様子で付き合っていないということなら僕の中の「お付き合い」の定義が根底から揺らいでしまう。


 果たして沙織は陽平のことをどう思っているのだろうか。

 彼女の方は付き合っているつもりなのではないだろうか。


「さては、光太郎」


「何?」


「お前、沙織のこと好きなんだろ」


 今度は僕の顔が赤らむ番だった。


 沙織のことは可愛いと思うが、好きという感情にまで至っているのかどうかは自分でも分からない。

 しかし、面と向かってそう言われると恥ずかしくて身体が熱くなる。


「そうかそうか。よーし、じゃあ俺が何とかしてやるよ」


 何が嬉しいのかにたにた笑って陽平が僕の肩を抱く。


「いいって、そんなこと」


 僕は慌てた。

 何かにつけて積極的な陽平には分からないだろうが、こういうことは人知れず慎重に動きたい。

 ましてや今は自分の気持ちもはっきりしないのに自分以外の人間に勝手なことをされてははっきり言って迷惑だ。


「遠慮するなって。任せとけよ」


 僕から逃げるように陽平が後ろ歩きで小走りしながら下駄箱に向かう。


「違うんだって、本当に」


 僕は何故か楽しそうな様子の陽平を追いかけてその肩越しに下駄箱にもたれている意外な人物を発見した。


 長い髪。

 すらりとしたスタイル。

 僕は思わず表情を強張らせて足を止めた。


 僕の視線を感じて陽平も立ち止まり背後を振り返る。

 彼も瞬時に四肢を硬直させたのがその背中からビリビリと伝わってくる緊張感で如実に掴めた。


「ちょっと話があるんだけど」


 暗く鋭い目つきは完全に僕を捉えていた。

 ここで先ほどの続きをやろうというのか。


 僕は全身の肌が粟立つのを感じた。

 彼女はきっと僕の言動を思い出し腹に据えかねてここで僕を待ち構えていたのだろう。

 そして僕をこの場で八つ裂きにして血祭りにあげるつもりなのだ。

 僕は自分の首が白木の台にちんまりと載せられて校舎の玄関前に晒されている様子を想像して身震いした


「な、何ですか?」


 声が喉に引っかかって上手に出ない。

 完全に不意を突かれた格好の僕は何の心の準備もできておらず思わず下手に出てしまっていた。


 こうなったら手は一つだ。

 三十六計逃げるに如かず。

 僕は逃走経路のイメージを頭の中で作り上げながら彼女が何を言い出すかその口の動きに注目した。


「このあたりで画材ってどこで売ってんの?」


 彼女が視線を翳らせ苦り切った表情で呟いた言葉は彼女の口の動きに傾注していなければ聞こえないぐらいの小さな声だった。


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