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 実力テストの出来は可もなく不可もなくといったところだった。

 学年の順位は九位で辛うじてトップテンを守ったにとどまった。


 夏休みに塾の夏期講習にも通いそれなりに頑張って勉強したつもりだったから結果を見たときには期待外れの印象だった。

 しかし、思い返してみれば夏の暑さに負け何となくだらけて取組んでいたような気もする。

 僕だけに夏休みがあったわけではなくみんなも努力しているのだからそんなに簡単に順位が上がるはずもない。


 それでもこの調子でいけばK高校にはまず間違いなく合格できる。

 そう考えれば少し気持ちも楽になれた。


 僕は軽く両膝を叩いて立ち上がった。

 寝入った母さんを起こさないように「また明日」と小さく声をかけ静かに病室のドアを開く。


 病院の外は日没にはまだ間があるのに空に膜を張ったような思いがけない薄暗さだった。

 来たときは空調のきいた病院に入ってもしばらく汗がひかないほど暑かったのだが、今は僕の頬をひんやりとした空気が撫でていく。


 見上げると南の空を煤が立ち込めたような不気味な雲が覆っていた。

 しかも止めようのないドミノ倒しのようなスピードでその面積は刻一刻と広がりを見せている。


 夕立が来る。

 傘はない。


 僕は慌てて自転車にまたがった。


 院内に戻ってしばらく様子を見ようか。


 一瞬躊躇したが、夕飯の準備を考えるとそうもいかない。

 耳をすませば大粒の雨が地面を叩きつける音が聞こえてきそうで背後から迫る雲の流れから逃げるようにペダルを踏みだした。


 道路上に人影はまばらだった。

 誰もが雷様の登場を恐れて家の中でおへそを隠してじっとしているのだろう。


 僕は家路を自転車レースのコースに見立て空いた道をタイヤを唸らせて全速力で駆け抜けた。


 顔に冷たいものを感じた。

 途端に夏の名残の日差しに焼けたアスファルトが濡れて湿った土臭いにおいが立ち上りはじめる。


 あと少しで家なのに。


 しかし、手の甲や頬、首筋に空から降ってくる幾筋もの重い水滴が容赦なくぶつかって弾けていく。


 あっという間に雨の幕に包まれてしまった僕は路肩に駐車している軽自動車を何とか避け全速力でマンションの敷地内に駆け込み自転車置き場の壁にぶつけるように自転車を突っ込んだ。


 頭上に鞄をかざしながらマンションに逃げ込んだときには手で払っても焼け石に水というぐらいに服が濡れてしまっていた。

 ズボンからハンカチを取り出して顔を拭おうかと思ったが面倒になって階段を駆け上がった。


 ドアに鍵を差し込んで違和感を覚える。


 鍵を回さなくてもノブを捻るとドアは簡単に開いた。


 中を覗くと親父の革靴の隣に見慣れない女性もののパンプスが並んでいる。


「雨に降られちゃったでしょー」


 僕は廊下の奥からスリッパを鳴らして駆け寄ってくる人に目を凝らした。


 母さん。


 母さんが僕の手にタオルを握らせる。

 そして自分でもタオルを使って僕の頭や肩を拭ってくれる。


 不意に目頭が熱くなって視界が霞む。

 髪から伝う雫が目に入りぼやけて見えるのか。

 僕は洗剤の匂いがするタオルに顔を押し付けた。


「早く着替えてこい。風邪ひくぞ」


 顔を起こすとワイシャツにスラックスという最近はあまり見ることのなかったこざっぱりした格好の親父が立っていた。

 その横にいるのは……坂本先生だ。


「先生」


 僕は坂本先生を母さんに見間違えてしまったのだ。

 病院にいる母さんが家でこんな風に出迎えてくれるはずないのに。


「今日はたまたま仕事の都合がついたから先生に家庭訪問に来ていただいたんだ」


 親父の言葉はどこか言い訳がましく聞こえた。


 時間ができたのならまず何をおいても母さんの見舞いに行くべきじゃないか。

 そう言いたくなったが、僕の進路面談のために時間を割いてくれたのだからと思うと頷くしかなかった。


 坂本先生はリビングに入って行ったかと思うと鞄を手に戻ってきた。


「では、私はそろそろ失礼いたします」


「あ、ああ。そうですか。今日はご足労いただきましてありがとうございました」


 親父と坂本先生が話しているのを見るのはどこか不思議な感じがした。


 当然ながら二人とも僕はよく知っているが、親父は家の中、坂本先生は学校でしか存在せず登場がシンクロすることはなかった。

 それが今、僕の目の前で二人が会話している現実にうまく僕がフィットできていないようだ。


「いえ、とんでもございません。私の方こそお忙しいのに貴重なお話を聞かせていただきましてありがとうございました」


「よろしければ、発掘現場の方へもお越しください。案内させていただきますので」


「ありがとうございます。ぜひ、よろしくお願いします」


 頭を下げ合う二人の大人。

 僕はタオルを使いながら部外者の感覚でそれを眺める。


 社交辞令の応酬。

 空虚な芝居臭さ。

 「そろそろ時間だから帰るね」「じゃあな」で終わることにどれだけ時間をかけるのか。

 大人になれば僕もこんな風に口先だけの言葉のやり取りのスキルが身につくのだろうか。


「雨、降ってますけど」


 僕も大人のやり取りにそろりと顔を出した。

 言ったらまた一しきり芝居続行になるのは分かっていたけど、ずぶ濡れで突っ立っているのに指摘しないのもおかしいかなと思って。


「あ、そうだった。先生、雨が止むまでもう少しゆっくりしていかれたら」


「お気づかいありがとうございます。でも今日は車で来ておりますので大丈夫です。まだ仕事も残っておりますし」


「そうですか。それではお気をつけてお帰りください」


 にじるようなゆっくりとした動き。

 二人が息を合わせて玄関に近づいていく様は見事だった。


 ドアが閉まるまでいったい何度お辞儀をし合ったのだろう。

 大人って面倒くさい。


 僕は髪から滴る水の流れをタオルで拭いながらリビングに入った。


 いつもと違う匂いがあった。坂本先生の残り香だ。


 学校ですれ違う時には何も思わないのに、ここで嗅ぐと何となく大人の女の艶めかしさが感じられるようで僕は慌てて自分の部屋に逃げ込んだ。


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