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「おーい、光太郎」


 下駄箱に向かって廊下を歩く僕の背中にクラスメイトの松本陽平の声が追いかけてくる。


 彼はサッカー部のキャプテンを務めていた。

 この夏で部活動は引退した格好だが、県選抜の実力を持つ彼は高校へはスポーツ推薦での進学が決まっていて夏休み中も後輩たちに混じって練習を続けていたようだ。

 おかげで陽平は三年生の中では誰よりもこんがりと日焼けしていた。


 そう言えば陽平が進学するのは母さんが口にしたあのT学園だ。


 T学園はそのブランド化されたと言っても良い知名度を維持するためこれまでの学力重視の方針を転換し近年はスポーツの面にも力を注ぎ少子化の現代でも生徒集めに不安はないと評判だ。

 僕もT学園を受験し合格すれば校内に陽平という知り合いは確保することができる。

 しかし、スポーツ推薦の生徒と一般試験での合格者は同じクラスにはならないから孤立感を拭うことには全然つながらない。


「何?」


「今から、沙織たちとカラオケ行くけど、来ないか?」


 隣のクラスの沙織は清純や可憐という言葉がぴったりの学年で、いや、校内で一番の美少女だ。

 そんな沙織とお近づきになれるシチュエーションが僕の胸にもたらした波動は決して小さくはない。

 だが、僕は表面上はそれを平然と押し殺した。


 運動神経抜群でしかも聡明な顔立ちの陽平は女子からもてる。

 毎年バレンタインデーにはアイドル顔負けの到底一人では食べきれない量のチョコレートをもらっている。

 来年三月の卒業式には陽平の周囲でいったいどんな騒ぎが起きるのだろうと羨ましいような怖いような気分で想像するのは僕だけではないはずだ。

 その陽平の口から沙織の名前を聞いて僕は負け惜しみではなく素直に二人がお似合いだと思った。

 そんなところにお邪魔してもいたたまれないだけのような気がする。


「サッカーは?」


「たまにはサッカーから離れて気晴らしするのも重要なんだよ」


「陽平の人生において?」


 僕は意地悪そうに笑う。

 しかし、陽平はいたって真面目な顔つきで頷いた。


「そう。俺の人生において」


 陽平とは二年生のとき初めて同じクラスになって話すようになった。

 四月のクラス替えで隣の席になり、五月、六月とくじ引きで席替えをしたのに三ヶ月連続で左右隣同士になって陽平が声を掛けてきたのだ。


「この三ヶ月隣同士になったけど、これってお互いの人生においてどういう意味を持つことになるんだろうな?」


 比較対象にするのもおこがましい程のイケメンからいきなり席順の人生における意味を問われて僕はただただ困惑した。

 しかし、どれだけ考えても僕の頭の中には一つの熟語しか浮かんでこなかった。


「偶然じゃない?」


 口に出してから後悔した。


 偶然。なんと空虚な響き。


 折角我が校のアイドルと仲良くなれるチャンスだったのに、面白みに欠ける奴だと思われたのではないだろうか。


 僕は陽平の次の言葉を固唾を飲んで待った。

 彼は黒板を睨みながら腕組みをして押し黙ってしまった。


「じゃあさ、来月も隣同士になったとしたらどう思う?」


 漸く口を開いた陽平はさらに僕を試してきた。


 僕は陽平の真意を測りかねていた。

 彼はこの自分でも嫌になるぐらい平凡な容姿の僕をからかっているのだろうか。

 いや、何故かは分からないが僕は今彼に試されているのだ。

 誰かこの質問の本当の意味を教えてくれ。いったい正解は何なのか。


 僕は自棄気味に口を開いた。


「奇跡じゃないかな」


 一瞬「だよねー」と言って僕の手を取るかと期待した。

 しかし陽平は僕の答えに何の感慨も示さず低い声で「そこまでは言えないな」と呟いただけだった。


 ドキドキしながら待った七月の席替えで僕の席はとうとう陽平の横から外れた。前後になってしまったのだ。


 僕の前の席に座った陽平はにっこりと振り返りやっぱり問いかけてきた。


「これはどういう意味なんだ?」


「縁、だと思う」


 縁か。

 縁ね。


 陽平は今回は満足そうに頷いて正面に向き直った。


 それから陽平は身の回りの物事について意味を僕に問いかけてくるようになった。


 晴天が十日続いた意味。

 新しく使い始めたばかりの消しゴムを失くしてしまった意味。

 オリンピックが四年に一回である意味。


 それを僕は真面目に考える振りをしながら思いつきで適当に答える。

 その返答に彼は大抵はどこかつまらなさそうに頷くだけなのだが、ときおり琴線に触れるのか男の僕でさえ蕩けてしまいそうな甘い笑顔を見せてくれることがある。

 僕の答えのどこがどんな風に良かったのかは全くこちらに伝わっては来ないのだが、その笑顔の瞬間には心の中でガッツポーズしてしまう。


 将来はプロのサッカー選手になると公言しそのための努力を惜しまない陽平を僕は心から尊敬しているが、そんなやり取りを通して僕は単なる運動馬鹿ではない哲学者的な面を見せる彼を愛していた。


 そう言えば今の席は僕が窓際で彼が廊下側と目も合わせられないような距離になっている。


「陽平はいいとしてもみんな受験勉強は?」


 沙織はどこの高校を受験するのだろうか。

 K高校ならこの先三年間毎日のように彼女の顔を見ることができるのだが。


「さあね。遊びにこれるぐらいなんだから大丈夫なんだろ」


 少し自分本位で他人のことに気が回らないところがある陽平らしい物言いだった。

 しかしそんな言い草も妙に納得してしまう。


 陽平は常に自信に満ち溢れていて、しかもそれが嫌みではない。

 彼の周りにはいつも人がいる。

 彼の魅力は光り輝き、太陽のように人を照らしている。


「光太郎もたまには息抜きした方がいいぞ。どうせお前ならK高校だって楽勝だろ」


 僕が周りにひけをとらないことと言えば勉強だけだ。

 中学に入ってからテストで学年のトップテンを逃したことはない。

 K高校は公立では一番の進学校だが校内三十位程度に入っていればまず大丈夫と言われている。


「どうする?」


「カラオケかぁ」

 

 母さんが目を覚ますまでにはまだ時間はある。

 しかし、僕はカラオケが得意ではない。

 自分の声がマイクを通して部屋中に響き渡っている状況にどうにもなじめないし、誰かが得意げに歌う曲にあわせて身体を揺らしてリズムを取るのも苦手だった。

 女子がいるならなおさら緊張して上手にできないだろう。

 あまり楽しそうなイメージは思い描けない。


「俺は、やめとくわ」


「今日も、病院か?」


「まあ、そんなとこ」


 僕は軽く眉を顰めて見せた。


 気が乗らないときはいつもこの手で逃げている。

 嘘ではないが、百パーセント頷くこともできない。


「あ、いたいた。仁科君」


 僕の顔を見つけて小走りに寄ってくる坂本先生が陽平の肩越しに見える。

 僕に何の用だろうか。


「じゃあ、また今度な」


 陽平はあっさり引き下がった。


 僕みたいなパッとしない人間にも声を掛ける優しさや、誘いを断られても軽く受け入れてくれる淡白さも彼の魅力の一つだと言えるだろう。


「おう」


 坂本先生と正反対に走り去っていく陽平に手を挙げて僕は坂本先生を待った。


 坂本先生の身長はおそらく百五十センチメートルもないだろう。

 決して背の高い方ではない僕とでも向かい合うとかなり見上げる格好になる。


「仁科君。来週の実力テストが終わったら父兄の方と進路について面談することになってるんだけど、仁科君の場合、お父さんになるよね」


 坂本先生も当然母さんが入院していることを知っている。


「そうですね」


「仁科君のお父さん時間作れそう?もしお忙しいのならお父さんの都合の良い時間に家庭訪問させてもらってもいいんだけど」


 僕の親父は県立博物館に勤務している学芸員だ。


 去年のこの時期に県内の工場跡地から古い陶器の欠片が見つかり、それが室町時代のものだということが判明して以来、親父は急に多忙になった。

 学生時代に大学院まで進学して考古学を専攻していた親父は当然のように発掘チームにしかもリーダーとして組み込まれてしまった。

 博物館の仕事はそっちのけで発掘現場に派遣されることになったのだ。


 日本史の教員である坂本先生もそのことを知っているのだろう。


「父の予定はちょっと僕にも分からないんです」


 発掘が始まってからは毎日早朝に家を出て夜遅くに帰ってくる親父とは会話をする機会が少なく、この生活リズムがいつまで続くのか全く読めない。

 発掘のことはよく分からないが、実際携わっている親父でさえも見通しが立たないような状況なのではないかと想像している。


「そうよね。発掘だもんね」


 坂本先生の声にはどこか羨ましさが滲んでいるように聞こえた。

 日本史を生徒に教えるような人にとって親父の仕事は興味深く羨望の的なのかもしれない。


「どうするか聞いてみます」


「うん。時間の調整が必要だからお父さんから学校に電話してもらえると助かるかな。お願いね」


 坂本先生と別れて下駄箱に向かう。


 これからどうしようか。

 今から病院に向かってもまだ一時間は母さんは起きないだろう。

 でも学校にいる理由もない。


 下駄箱の向こうから差し込んでいる西日と言うには強すぎる陽光に目が眩む。

 肌を焦がすような暑さがそこにある。

 今、外に出るのは得策ではない気がした。図書室で涼みながら勉強でもしようか。


「おーい、光太郎」


 デジャブのようだが陽平が呼んだのではない。

 聞き覚えのない女性の声だったからだ。


 女子にこんな風に馴れ馴れしく下の名前で呼ばれたことはない。

 僕はどぎまぎしながら後ろを振り返った。


 そこにはあの転校生が仁王立ちしていた。

 ホームルームのときの見下ろすような冷やかな視線を長い前髪の向こうから無遠慮に容赦なく僕に浴びせてくる。


 僕は首を竦めるような気持ちでおずおずと佐伯と向かい合った。


「呼んだ?」


 僕の問いに彼女は小さく顎を引いた。

 僕は彼女の意図を探るため前髪の向こうに隠れている瞳に目を凝らした。


「何?」


 少し声が上ずってしまう。


 彼女が僕に何の用だというのだろう。

 彼女とは今日会ったばかりで、もちろん話すのはこれが初めてなのにどうしてこんなにも気安く呼び捨てにされるのだろう。


 女子と話す緊張よりも、展開が読めない不安が先に立つ。


「光太郎ってさ、美術部でしょ?」

 

 彼女は僕の目の前に立ち長い髪を指先で掬い耳に掛けた。


 黒髪の奥から露わになった少し尖った耳の形と白さが僕の目に焼きついた。

 うなじに浮かんでいる柔らかそうな産毛の存在に見てはいけないものを盗み見たような後ろめたさを感じてしまう。

 僕は思わず視線を床に落とした。


「なんでしょ?」


 確認する彼女の声に軽い苛立ちが漂う。


 叱られたような気持ちでハッと顔を起こすと僕の目を覗き込むような彼女の力のある眼差しとぶつかった。


「そうだけど」


 多少否定したい気持ちを抱えながら僕は頷いた。


 確かに僕は美術部に在籍していたがそれは「仕方なく」であり形だけのものだった。


 この中学校は部活動を重んじていて生徒は何かしらの部に在籍すべしという校則がある。

 それで「仕方なく」美術部に入部したのだが、その選択に当たっては母さんの見舞いという事情を考慮したわけではない。


 運動が苦手。

 ブラスバンドのように華やかなイメージがつきまとうのも苦手。

 囲碁将棋はルールが分からない。

 結果、消去法の末に残ったのが一人で黙々と作業ができる美術部だったというだけだ。

 

 しかも美術に特筆すべき思い入れがあるわけでもない僕にとって美術部は帰宅部。

 最低限の活動には参加したが本気モードの部員からしてみれば爪弾きにしたい存在の幽霊部員だっただろう。

 「だった」と過去形なのは一学期の終わりに引退作品を完成させて三年生は全員引退したからだ。

 そういう意味でも僕は佐伯の問いに首を横に振りたかったのだが、それを口にしたら、つまらない屁理屈をこねるな、と叱られそうなのでやめておいた。


「よかった」


 佐伯が小さく笑ったのを見て、僕は少なからず驚いた。

 彼女の顔は眉一本動かない鉄仮面ではなかった。

 彼女がこうも簡単に笑顔を見せるとは。

 僕はこの掴みどころのない転校生が急に近い存在になったように思えた。


「どうして俺が美術部って」


「さっき、さかもっちゃんに聞いたのよ。この学年に美術部員いませんかって。そしたら確か仁科君がそうよって」


「そ、そうなんだ」


 転入初日からいきなり担任教師を「さかもっちゃん」呼ばわりとは。やはりこの御仁は何を考えているのか分からない。


「ねぇ。あたし、美術部に入りたいの。どうしたらいい?」


「え?今から入りたいの?」


「入れないの?美術部は転校生入部お断り?」


「そういうことはないと思うけど。三年生はもう引退したんだよ」


「絵を描くのに引退なんかない」


 そういう問題ではないと思うけど。

 しかし、胸を張って堂々と言われると僕は反論できなかった。


「梶田先生に相談すればいいんじゃないかな」


 僕は逃げるように美術の教師で部の顧問の名前を挙げた。


 ただ、この顧問は僕に輪を掛けて幽霊的存在で僕が在籍している間に部員の指導に現れたことは一度もなく、絵筆を持った姿すら見たことがない。

 自分が美術部顧問であるということを認識しているかどうかさえ甚だ疑わしいような教師だ。

 だからこそ三年生の佐伯がこの時期に入部したいと言い出しても軽く「ご自由に」と言いそうな気はするが。


「カジカジはどこにいるの?」


「えっと」


 僕はカジカジが梶田先生を指しているのだと思い至るまでに少し時間がかかった。

 彼女は誰にでもあだ名をつけないと気が済まないのだろうか。


「職員室かな。でなかったら美術室の準備室か。目がチカチカするようなワイシャツ着てるからすぐに分かるよ」


 梶田先生の色づかいのセンスは、さすが美術教師、凡人には理解できない、と校内で評判だ。

 どこで売っているのか見当もつかない光沢のあるテロテロの生地に原色をちりばめた柄は遠目で見ても梶田先生だとすぐに分かる。


「連れてって」


「え?」


「職員室も美術室も場所分からない」


 僕は気がひけた。


 職員室は生徒なら誰しも足を踏み入れたくないところだし、美術室に行って後輩の邪魔をするのも嫌だった。

 引退した先輩幽霊部員の顔など誰も覚えていないだろうがこちらとしてもどんな顔をして入って行けば良いのか分からない。


 何とか彼女から逃れる術はないだろうか。

 僕の心はすでに後ずさりしている。

 隙あらば駆け出す算段だ。


「職員室はすぐそこだし、美術室はこの校舎の三階……」


「カジカジの顔も分からないから」


 眉間を曇らせて目を細めた彼女の不機嫌そうな言葉に囚われて僕は鬼軍曹に命令された一兵卒として背筋をピシッと伸ばし先に立って歩き出した。


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