彼
彼は人を殺してみようかと思った。理由はない、わけじゃないが個人に対して特別恨みがあってのことではない。彼はどうでもよかった。彼にとって命は、いいや、世界中で起きているあらゆることがどうでもいい。そして彼に関わることは辛いことだらけだ。楽しいことがない。女の一人でもいれば変わるのかもしれない。だが彼はモテない。幼少期についた心の傷がどうたらこうたらで対人スキルに絶望的な問題がある。スーパーの裏方のアルバイトをしているが、そこでも人と会話をすることはほとんどなかった。
男は世界をどうでもよくなくするために、確かに努力をした。煙草、酒、風俗、ギャンブル、麻薬、熱中できるものを探してカードゲームや釣りにも手を出した。だが男の快楽神経を揺るがすものは何もなかった。男は渇いている。渇きを癒すものを見つけられずにいる。だから人を殺してみることにした。動物を殺すのは以前にやったことがある。それも男を癒さなかった。だが動物殺しと人間殺しは似て非なるものだと男は最近になって感じ始めた。だって動物を殺してしまって自首するやつはほとんどいないが、人間を殺してしまって自首するやつはたまにいる。
生きている理由はない。だからただ人生を楽しめばいい。楽しみ方は人それぞれだ。男にとってはそれは人を殺すことかもしれない。日本では酒鬼薔薇聖斗くらいしか思いつかないが、アメリカには快楽殺人者が何人もいるとテレビでやっていた。男はもしかしたら自分がその一人かもしれないと思う。いいや、何をしても楽しくない男にとってそれは唯一ともいえる救いだった。これが楽しくなければ男は死のうと考えている。
その日は弱い雨の降る特別暗い夜だった。男は橋の下で雨をしのいで、そのまま眠ってしまった初老のホームレスに狙いを定めていた。狙ったのが彼なのは、単に外を歩いていて最初に目に止まったのが彼だっただけで深い理由はない。少年でも少女でも灰色の女でも、言ってしまえば誰でもよかった。男は皮製の鞘から昼間に買ったナイフを抜く。月明かりは橋の下までは照らさない。初老の男性は声も挙げずに死んだ。死ぬ前にほんの少しだけ目を覚ましたが喉を裂かれていて声を出すことができない。盛大に血を撒き散らして死ぬホームレスを前に男は「なんだ。殺人というのはこの程度のものか」と思った。もしくは別に何も思わなかった。死のう、としたが自分の首をナイフで切るのは恐いし、無理がある。なので明日、首を吊るためのロープやらなにやらを買ってこようと思って男は帰路に着く。
そして翌日の昼頃までしっかり眠った男はなんとなくテレビをつけた。初老のホームレスが殺害されていたというニュースを見る。現場を連想し、散っている赤い血から肉を思い出し、そういえばカニバリズムはまだやっていなかったなと思って男はもう少しだけ生きることを決めた。




