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稲妻使いの令嬢と呪文殺しの少女

作者: あかみんご
掲載日:2026/07/02

あれほど苛烈で、美しい青い瞳を私は他に知らない。初めて出会ったときから、その公爵令嬢は親しげで、なのに剣呑な雰囲気を醸し出していた――ちょうどすぐ目の前で、冷ややかにこちらの喉元を値踏みしている猛獣みたいに。


そんな彼女の、形の良い唇からこぼれ落ちた言葉は、今でも鮮明に覚えている。


「人を殺したのは、初めて?」


こんな質問は、後にも先にもないだろう。

その問いかけの端には、彼女の死生観が滲み出ていた。

常に死の影がつきまとう、そんな彼女の世界に私が踏み込んだ瞬間だった。


思い返すと、すべての始まりには、瑞々しい柑橘の香りが漂っていた。

私達の間には、いつも言葉にできない奇妙な絆と、あまりにも甘酸っぱい果実の味が満ちていた。



朝の市場は人で溢れていた。

石畳の通りには露店が並び、焼きたてのパンの匂いと香辛料の刺激的な香りが入り混じって漂っている。


行商人たちの威勢のいい呼び声をすり抜けながら、リサは喧騒のなかを横切った。

歩くたびに肩に食い込む使い込みの鞄は、中に詰まった全財産のせいで少し重い。十七歳になったばかりの彼女が身にまとう旅装束は、周囲の華やかな活気に比べると、ずいぶんと質素なものだった。


賑やかな通りの一角から、目が覚めるような鮮烈な色彩が飛び込んでくる。


その果物屋の前で、彼女は足を止めた。目を引いたのは木箱の上に山積みにされた、鮮やかなオレンジ。故郷で見慣れたものとは違う、これが噂に聞くヴェルニア産なのだろうか。


渇いた喉が、少し痛んだ。


「すみません。これ、おいくらですか?」


聞かれた店主の男は、一つ分の値段を答えた。

少し考えてから、リサは右手を開いた。


「五つください」


鞄から取り出した銀貨と麻袋を差し出す。


「これに入れて」


店主の男は手慣れた様子でオレンジを選び、布で軽く磨いてから麻袋に詰めた。


「ほらよ。甘いやつだ。一つおまけしとくよ」

「ありがとう」


彼女は麻袋を受け取り、胸に抱えた。

確かな重みと共に、瑞々しい柑橘類の香りがした。


「一つ訊いてもいいですか?」

「ん?」

「中央へ行く乗合馬車の発着所はどこでしょう」


店主は手を止めた。


「中央?」

「はい」


男はリサの顔をじっと見た。

それから、少しだけ眉をひそめた。


「あんた、唱え手か」


男の声は低かった。しかし『唱え手』という言葉が落ちた瞬間、まわりの空気が変わった。近くで野菜を選んでいた女性が手を止める。荷車を押していた男が振り返る。果物を抱えた少年が、怯えたように母親の後ろへ隠れた。ひそひそとした囁き声が、波のように広がっていく。


「まさか」


リサが答えると、店主の顔から表情が消えた。

彼は街道の先を指差した。


「この大通りをまっすぐ抜けた先にある広場だ。大きな時計塔がある。中央行きの始発はもうすぐ出る時間だ……急ぎな」


「ありがとう」


麻袋を大事に抱えて頭を下げると、リサは小走りでその場を後にした。


背中に突き刺さるような視線を感じる。誰も声をかけてこないが、誰もが自分を見ている――その奇妙な肌感覚だけは、路地を抜けても消えなかった。


広場の時計塔は、ちょうど朝の八時を告げる鐘を鳴らしていた。


中央へ向かう乗合馬車の発着所は、冷え込む朝の空気で満ちている。

リサは広場の隅にある木製のベンチに腰掛け、小さく息を吐いた。慣れない旅を続けてきた体は、芯から疲弊している。麻袋から先ほど購入したオレンジを一つ取り出すと、親指の爪を立てて皮を剥き始めた。


パチッと皮が弾け、瑞々しい柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。果肉を一口に含むと、強い甘みと酸味が広がり、喉を流れ落ちていく。凝り固まった身体がじんわりと解けていくようだった。もぐもぐと口を動かしながら、広場を行き交う人々を眺める。


くすんだ亜麻布のシャツに分厚い革の胸当てを着けた護衛の男たち。

泥に汚れた長靴を履いてせっせと荷を運ぶ行商人たち。

その多くが、汗と家畜の匂いを漂わせていた。


二つ目のオレンジに手を伸ばす。


出発の時間を告げる時計塔の鐘が鳴り止んでも、馬車は来なかった。

発着所にいる人間たちも、動こうとはしない。誰もがただ、じっと待っている。


リサは案内板を見上げた。

都で使われる文字は、故郷のものとは少し形が違う。乗り場を間違えたのかもしれない、という不安に駆られていると、遠くから規則正しい蹄の音が聞こえてきた。


人々が自然と道を空ける。


現れたのは、黒塗りの重厚な車体に、陽光を反射して磨き上げられた金具を備えた馬車だった。扉には金色の鷲を象った紋章が誇らしげに描かれている。


リサは立ち上がった。

やっときた。


乗合馬車にしては立派すぎる気もしたが、中央へ向かうのだからこういうものなのかもしれない。何しろ、故郷には馬車なんてほとんどなかったのだ。


迷ったのは一瞬だった。


車輪の響きがすぐ近くで止まり、馬車は発着所の前で静かに停止した。

御者が手綱を引くと扉が開き、一人の男が先に降りてくる。

仕立ての良い衣服の上からでも分かる、鍛え上げられた頑強な体躯。

腰に帯びた細身の剣の鞘には、馬車の扉と同じ金色の紋章が刻まれている。


「休憩だ。馬に水をやっておけ」


彼は御者に告げると周囲を一瞥した。

そして、こちらへ歩み寄ってくるリサを認め、わずかに眉をひそめた。


「止まれ」


低い声だった。

リサは足を止めた。


「私ですか?」

「何をしている」

「中央まで乗せてもらおうかと」


男は数秒ほど黙った。信じられない阿呆を見るような顔をしている。


「乗せてもらおうかと?」

「だめなんですか?」

「……キャスハート公爵家の紋章が見えんのか」


男の放つ凄まじい威圧感に、リサは思わず一歩身を引いた。


「乗合馬車などと一緒にするな。無礼者」


リサの喉が張りついた。

とんでもない間違いをしたらしい。


「ごめんなさい。次を待ちます」


お辞儀をして退散しようとしたその時、鈴を転がすような涼やかな声が降ってきた。


「別にいいじゃない」


スッとガラス窓が下ろされ、そこから少女が顔を覗かせた。


年頃はリサと同じぐらい。

淡い金髪に、仕立ての良い青いドレス。

だが何より目を引くのは、その瞳だった。

宝石のように美しい青色なのに、不思議と猛獣を思わせる。


彼女は頬杖をついたままリサを眺めた。


「あなた、中央まで行きたいの?」


リサは頷いた。


「なら、乗せてあげる」

「お嬢様!」


従者らしき男が慌てて口を挟む。


「素性も知れぬ者を――」

「だって退屈なのよ、この道中は」


“お嬢様”は首を振ると、気にした様子もなく、リサの手元へ視線を落とした。

正確には、麻袋から覗いているオレンジへ。


「でも、条件があるわ」

「条件?」

「そのオレンジを一つ頂戴」


リサは自分の抱えた麻袋を見下ろした。

お嬢様は真顔だった。


「一つでいいんですか?」

「二つでもいいけど」

「じゃあ、一つで」


お嬢様がくすっ、と吹き出した。


「交渉下手ね」


リサが首を傾げると、お嬢様はさらに笑った。


「気に入ったわ」


少し迷った。

だけど結局麻袋から一番大きなオレンジを取り出して、窓越しに差し出した。


「どうぞ」


汚れ一つない白手袋の右手が、果実へ向かってしなやかに伸びる。


「駄目です」


従者の男がオレンジをリサの手から奪い取った。


「毒が仕込まれているかもしれません」

「そうかもね」


お嬢様は笑いながら、男の手からオレンジを奪い返そうとした。しかし彼女の手は空を切った。男は、お嬢様の手が届かない高さに果物を掲げていた。


お嬢様は唇を尖らせた。


「私を飢え死にさせたいのね」

「駄目です」


また言った。


「そのうち、市場で鳴いてる鶏まで敵に見えてくるんじゃない?」

「可能性は否定できません」

「あなたねぇ……」


「あの……」


二人のやり取りに、リサは耐えきれずに口を挟んだ。


「食べないのなら、返してもらえませんか?」


男はリサを見つめた。

お嬢様は一瞬、きょとんとした。


だが、すぐにその端正な顔を綻ばせると、白手袋をはめた指先でそっと口元を覆い、くつくつと笑い始めた。


「――いいわ」


心の底から楽しげな声だった。


「ルカ。そのオレンジは、あなたが気の済むまで虐めたらいい」


お嬢様は涼やかな笑みを残したまま扉を開け、自ら隣の席をぽんぽんと叩いた。


「あなた、お名前は?」

「リサです」

「私はエリトーラ。さ、乗ってちょうだい」


リサは、馬車の傍らに立つルカへ視線を向けた。彼はまるで彫刻のように冷ややかな目で、じっとこちらを睨みつけている。本当に乗っていいのだろうか。今にも剣を抜かれるのではないかと心臓が跳ねた。


「……失礼します」


おずおずとステップに足をかけ、中に滑り込む。


馬車の内部は広かった。厚手の絨毯が敷かれ、腰掛けたクッションは不自然なほど柔らかい。リサの泥のついた旅装束は、そこではひどく汚れて見えた。彼女が身を縮めて座ると、正面に座ったルカが言った。


「正気の沙汰ではありませんね」

「人生は、すべて退屈な余興よ」


隣に座るエリトーラが、ふっと艶やかな笑みを浮かべた。

その笑みを見て、リサは確信した。この二人、ただの貴族と従者ではない。


「敵は常に我々の想像を越えてきます」


そう答えると、ルカはどこからか取り出した銀の針をオレンジに刺し始めた。

エリトーラは彼の手元をじっと見ていた。その目は呆れたようでもあり、同時に、熱心に針を動かす彼の横顔をどこか楽しんでいるようでもあった。


彼女は小さく息を吐いた。


「気を悪くしないで」とエリトーラは言った。「彼は仕事熱心なだけだから」

「……オレンジに、毒が入っているから?」


リサは自分のお腹をさすった。

既に二個食べてしまっている。


エリトーラはリサの手元を見て、目を細めた。


「そんなに怯えなくてもいいわよ。多分」

「多分?」

「冗談よ」


彼女は微笑んで、形の良い顎を引いた。


「そんな顔をしなくても、中央に行けばもっと甘いものがあるわ。うちの料理人に作らせてあげましょうか?」

「また勝手なことを」


ルカが溜息をついたが、エリトーラは気にせず楽しそうに言葉を続ける。


「ポプキンってご存知?」

「いいえ」とリサは言った。「聞いたことがないです」

「中央で今、一番流行っているお菓子よ」


リサは身を乗り出した。


「サクサクのパイ生地の中に、甘く煮詰めた木の実と、クリームが詰まっているの。たくさんね」


リサは生唾を飲み込んだ。


「ええ、とても美味しいわ」とエリトーラ。「もちろん、ルカが最初に一口食べて、一時間待ってからじゃないと私は触らせてもらえないけれど」


車内が静かになった。

馬が蹄で地面を引っかく音が聞こえた。


「どうして?」

「狙われているから」

「誰に?」

「さあね」


エリトーラは肩をすくめた。


「お父様は敵を作る天才なのよ」

「お嬢様、そのような物言いは――」

「事実でしょう」


声に嘲りの刃があった。


「じゃあ……本当に毒を?」


エリトーラは青い瞳をリサに向けた。


「四歳の時にね。飼い猫が死んだの」

「え?」

「私が食べるはずだったスープを、ほんの少し舐めただけなのにね」


天気の話でもしているみたいな喋り方だった。


「それが最初の事件。その次は六歳の時の誘拐犯、その次は十歳の時の夜襲、それから……ああ、心配しないで。犯人はみんな、この手で殺してやったから」


『殺してやった』

あまりにも現実味のない言葉だった。

けれど、冗談のようには聞こえなかった。


目の前の美しい少女から飛び出した、その生々しく暴力的な響きが、リサの頭の中でぐるぐると空回りする。何か返事をしようにも、正しい言葉が見つからなかった。村の誰も、公爵令嬢にどんな相槌を打つべきか教えてはくれなかった。


沈黙が怖い。


視線を従者の男性に泳がせると、彼は聞こえなかった振りを決め込むように俯き、手元のオレンジに黙々と針を刺し続けていた。その横顔は、どこか居心地が悪そうだ。


お悔やみを言うべきか、それとも凄いと褒めるべきなのか。

どちらも違う気がした。


それでも、何か言わなければならなかった。

何でもいい。

何か言わないと。


「呪文で?」


それが最悪の選択だと気づいたのは、口に出した瞬間だった。


馬車の中の空気が、一変した。


ルカが手を止め、顔を上げた。

エリトーラの青い瞳が、じっとリサを見つめていた。


「そうよ」


馬車の外から御者の声がした。


「そろそろ出発します」

「承知した」とルカが短く声を返す。


パチィン!と外で激しく鞭が鳴る音が響き、馬車が滑らかに動き出した。


「……リサ」


エリトーラは、ゆっくりと微笑んだ。


「貴女のことを聞いてもいい?」

「えっと、答えられる範囲なら」

「何をしに中央へ行くの?」

「その、人に会うため」

「誰?」

「言えない」

「唱え手なの?その人と貴女は」

「えっと……」


どうしよう、答えられない。

嘘をつくべきか――それとも。

リサが窮している間も、エリトーラは優雅な笑みを崩さなかった。


「リサ。貴女をこの馬車に乗せた理由を教えてあげる」


エリトーラはリサの後ろの背もたれに肘を預け、横からその顔を覗き込んできた。

至近距離にある青い瞳が、じっとこちらを見つめている。


「私の半分が『お友だちになれたらいいな』と思ったから」


がたん、と馬車が揺れた。石畳の道を外れ、馬車が加速していく。

その振動に合わせるように、正面のルカが静かに銀の針を懐へと仕舞い込んだ。


「――そして、もう半分は『刺客だったらいいな』って思ったからなの」


リサの背筋を、すうっと冷たいものが駆け抜けた。

密室の中で、彼女の言葉だけが逃げ場を塞ぐように響いた。


ガタガタ、と馬車が今までとは違う揺れ方をし始めた。


「……妙です」


ルカの目はリサではなく、完全に窓の外の景色へと向けられていた。


「中央への経路を外れています。それに、この速度は――」


彼の言葉が終わるより早く、馬車がぐらりと大きく傾いた。

急な旋回。車輪が悲鳴を上げ、リサの身体が座席の端へと投げ出される。


「おい!」


ルカが腰の細身の剣を引き抜きながら窓から身を乗り出し、御者台に向けて声を張り上げた。


「何をしている!」


返ってきたのは、獣のような鋭い口笛の音だった。

続いて、パチィィンと空気を引き裂くような鞭の音が響く。


馬がいななき、馬車が弾かれたように加速した。


「な、なにが起きてるの……!?」


リサは座席の端にしがみついた。

窓の外の景色が恐ろしい速度で後ろへ流れていく。

エリトーラだけは揺れる車内でも姿勢を崩さず、冷たい顔のままだった。


「これが私の人生よ」


「お嬢様……!」


ルカが叫んだ。


「心配しないで」とエリトーラは言った。「行って」


拒絶を許さない声だった。

ルカは座席を蹴り、窓枠に足をかけた。

ガラス窓を開くと、凄まじい風圧が車内に吹き込む。

だが彼は信じられない身軽さで、暴走する馬車の前方へと飛び移っていった。


数秒後、誰かの悲鳴が聞こえた。


窓の外を、石畳の上へと転がり落ちていく御者の姿が流れていく。


「すごい……」とリサは呟いた。


エリトーラは笑い、乱れた髪を指先で払った。手綱がルカの手に渡ったのだろう。激しい縦揺れがわずかに収まり始める。リサは手すりからようやく力を抜いた。


だが、それも束の間だった。


リサの頭の中で、無数の冷たい指先がなぞるような感覚が走った。


世界から音が消える。

肌の産毛が逆立つような、異常なまでの危険信号が五感を突き刺す。


呪文が、来る。


「危ない!」


リサは喉を引き裂くような悲鳴を上げた。

目に見えない巨大な質量が、真横から馬車を容赦なく殴りつけた。


凄まじい密度の「念動力」だった。


黒塗りの重厚な車体が、まるでおもちゃのようにあっけなく宙に浮き上がる。

そして、激しく横転した。


視界が回転し、天地がひっくり返る。

耳をつんざく馬の悲鳴。背中と肩に凄まじい衝撃が走り、遅れて、ガラスが派手に割れる音と、木材がへし折れる音が響いた。


視界が霞む。

自分が横倒しになった馬車の壁に叩きつけられているのだと気付くまでに、数秒かかった。

埃っぽく、血の匂いが混じった空気が肺に飛び込んでくる。


リサは激しくせき込んだ。

全身が痛んだが、骨は折れていないようだった。


「エリ、トーラ……?」

「痛ったぁ……」


すぐ近くから、不満げな、けれどもしっかりとした声が聞こえた。

視界の霞を払うように瞬きを繰り返すと、煤と埃で汚れた淡い金髪が見えた。


エリトーラはドレスの裾を乱暴に引き裂いて膝を出すと、額の血を手の甲で無造作に拭った。


「ルカ?」


返事はない。


「ルカ、聞こえてる!?」


返事はない。


エリトーラの手が、引き裂いたドレスの裾を強く握りしめる。指関節が白く浮き上がった。それはほんの数秒のことで、彼女はすぐに手を離し、何事もなかったかのように顎を引いた。


呻きながらリサは身を起こした。


「とにかく、外の様子を……」


じっとしていてもどうにもならない。


リサは横倒しになった車体の、頭上にある窓へと手をかけた。

外を覗こうと顔を寄せた、その瞬間だった。


ヒュッ、と鋭い風切り音がした。

慌てて顔を引っ込めると、激しい金属音が響いた。


リサの顔があった数センチ横に、太い鉄の矢が深々と突き刺さっていた。

凄まじい威力で矢羽が震え、熱い風が頬をかすめた。


「あなた、死にたいの?」


エリトーラはそれだけを言い、小さく息を吐いた。


「ご、ごめん」

「どうして謝るの?」


彼女は視線を外し、引き裂いたドレスの膝を床につき、低く身をかがめたまま、冷徹な青い瞳で突き刺さった矢を見つめた。


「クロスボウね。それも、軍用のかなり威力が高いやつ」


彼女は両手を覆う手袋を外した。


煤で汚れた車内の中で、雪のように白い肌が顕になる。

その美しい指先から、バチッ、と青白い火花が散った。


やっぱり、そうだった。


「稲妻使いなんだね」


エリトーラは冷ややかにリサを見つめ返した。


その青い瞳の奥に、鋭利な光が灯る。

リサがただの田舎娘ではないという疑念が、確信に変わったようだった。


倒れた馬車をじわじわと取り囲む、不穏な足音が聞こえ出す。


「詳しいのね」


だがお嬢様は外の敵など眼中にないと言わんばかりに、リサを冷徹に探っていた。


「馬車がひっくり返る前に『危ない』って叫んだのは、どうして?」


リサは生唾を飲み込み、横倒しになった座席に背中を押し付けた。


「まるで、知っていたみたいだったけど」

「えっと、その……」

「あと五秒」


エリトーラの指先が、リサの鎖骨のあたりにそっと触れた。

驚くほど冷たかった。

そこから皮膚へと伝わる微弱な痺れが、リサの喉を凍りつかせる。


「合理的な説明ができないのなら、先に貴女を黒焦げにするから」


至近距離で見つめる青い瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。


このお嬢様は、本当にやる。

納得できなければ、本気で自分を消し炭にする。


リサはそれを本能で悟った。

――もう、隠し通せない。


ここで死ぬくらいなら、すべてを打ち明け、その判断は彼女の慈悲に委ねるしかない。リサは目を見開いて、小さく息を吐き出し、エリトーラの瞳をまっすぐに見つめ返した。


「私はメイヘムなの」


その瞬間、リサの襟元を焦がしていた青白い火花が、ぷつりと掻き消えた。


エリトーラが凍りついた。


リサの鎖骨に触れていた彼女の指先が、わずかに浮き上がり、そのまま空中で止まった。瞳の奥の光が消える。先ほどまでの笑みが完全に削ぎ落ちていた。リサを凝視したまま、石のように動かなくなった。


狭い車内を支配したのは、重く、平坦な沈黙だった。

外からは、ざりっ、ざりっと、砂利を踏みしめて近づいてくる靴の音が聞こえている。


それなのに、エリトーラは微動だにしなかった。

彼女の唇が、ほんの少しだけ開いた。


「……いま、なんて?」


地を傷つけるような低い声が、形の良い唇から漏れた。


メイヘム。

全ての唱え手たちの悪夢。


エリトーラの白い喉が、小さく上下した。さっきまで指先で跳ねていた青白い電撃は、形跡さえ残っていない。オゾンの匂いだけが、狭い車内に虚しく漂っていた。


「あなた、自分が何を言っているのか――」


そこまで口にした瞬間だった。


リサの頭蓋骨の内側に、無数の冷たい指先が直接ねじ込まれた。世界が白く弾ける。耳の奥ではなく、脳の芯を冷たい刃で直接抉られるような感覚だった。何の容赦もない、ただ巨大なだけの呪いの気配。


「――っ、動かないで!」


リサは考えるより先に、エリトーラの細い手首を掴み、その身体を力任せに引き寄せた。直後、頭上の車体を、目に見えない巨大な「槌」が踏みつぶすような衝撃音が轟く。


黒塗りの頑丈な車体が、中央からへし折れた。

バキバキと木材が砕け散る音が炸裂する。二人がいた場所の数センチ上が紙のようにひしゃげ、ひび割れた天井から、外の光が容赦なく差し込んできた。


埃混じりの突風が、エリトーラの淡い金髪を乱す。彼女は自分の身体の下敷きになったリサを、底の知れない目で見つめた。


「……離して。じっとしていても、次は完全に潰されるだけよ」


エリトーラはリサの手首を振り払おうとした。

剥き出しの指先が、再びかすかな青い光を帯び始める。


外へ出て、元凶を直接焼き尽くす。

公爵令嬢の選択肢は、常にそれしかないようだった。


「だめ、出ちゃだめ!」


リサはなおもその手首をきつく掴み、必死に首を振った。


「外に出たら、さっきの矢に狙われる!」

「じゃあ、ここで大人しく圧死しろと言うの?」

「まだ、次のは来ない」


リサは頭蓋骨の奥にあるあの冷たい感覚に、必死に意識を集中させた。


「あの念動使いは、まだ次の呪文を練っている。さっき大きなのを落としたから」


矢継ぎ早なリサの言葉を、エリトーラは冷たい顔をしたまま聞き終えた。

その青い瞳には明らかな躊躇が混じっている。


幼い頃から命を狙われ続けてきたエリトーラにとって、「メイヘム」だと告白した少女の言葉を鵜呑みにすることなど、自ら死行きの馬車に飛び乗るようなものなのだ。


だが、敵の呪文は完成に近づいている。

頭蓋骨の奥の冷たい指先が、じわじわと力を強め始めていた。


リサは掴んでいたエリトーラの手首を、そっと離した。


「私を信用できるわけないよね」


リサはひしゃげた車体の隙間から、外の様子を窺うように膝を立てた。

全身の骨が軋むように痛んだが、もう迷っている時間はなかった。


「だから、私が先に出る」


リサは振り返らず、ただ背後のお嬢様へ向けて声を絞り出した。


「……だけど、少しでも信じてくれるなら。合図をするから、空に向かって強い光を放ってほしい。一瞬だけ。目くらましでいい」


エリトーラは何も言わなかった。

リサはそれ以上、彼女を振り返らなかった。


横倒しになった窓の縁に足をかける。

心臓が痛いほどに跳ね上がっている。


「いくよ」


依然として、エリトーラは何も答えない。


「三」


床に落ちていた、彼女の煤汚れた白い手袋が目に留まった。


「二」


リサの超感覚が、すぐ近くで急速に膨れ上がる不気味な質量を捉えた。


「一」


靴の底で、ひしゃげた窓枠の鉄を強く踏みしめる。

死の恐怖をすべて吐き出すように、リサは思いきり喉を開いた。


「いま!」


エリトーラが鋭い高音の詠唱を響かせた。


世界が、真っ白に染まった。

爆音すら遅れて聞こえるほどの、圧倒的な光の質量。


それは、空へ向かう光ではなかった。

公爵令嬢はリサの要求に、より苛烈な方法で応えたのだ。


位置も分からぬ敵の包囲網を力任せにぶち抜く、凶暴な一撃だった。


馬車のあらゆる隙間から噴き出した青白い稲光が、朝の薄暗い街道を、網膜を焼き切らんばかりの純白で満たしていく。


合図とともに閉じた瞼の裏側が、真っ赤に燃え上がるように痛んだ。


外から、重なる悲鳴が聞こえた。


視界を奪われた刺客たちの動揺を突くように、リサは馬車の残骸から石畳へと飛び出した。


クロスボウの引き金を引く音が響く。


頭を低くして地面を駆けた瞬間、風切り音が肉を裂いた。

一本の矢が頬をかすめ、もう一本が首筋を浅く切り裂く。

見えてはいない。盲目的に引いただけだ。


だが鮮血が飛び散り、激痛が走った。


それでもリサは足を止めなかった。

流れる血が、顎を伝って地面に滴り落ちる。

呼吸をするたびに、喉の傷口がじりじりと熱かった。


頭蓋骨の奥では、あの冷たい感触がまだ消えていない。

内側にねじ込まれた無数の指先が、今度は不気味な速さで頭蓋の裏を這い回り、這いずるごとに冷たさが鋭く増していく。あと数秒で、あの巨大な質量が、今度は剥き出しの自分たちの真上に振り下ろされる。


リサは街道の脇、茂みの奥に「それ」を見た。


衣服の擦れる音も、呼吸の気配もない。ただ、そこにある空気の密度だけが、異常に膨れ上がっている。大岩の影に、黒い外套の男が、両手を宙に突き出したまま静止していた。


念動使いだった。


男はエリトーラの閃光を喰らい、頭を激しく振らせながらも、見えないままで呪文を練り続けていた。その指先から、歪んだ力場がリサへと向き直る。


来る。


リサは地面を強く蹴り、黒い外套の男めがけて、一直線に身体を投げ出した。

速度は緩めない。能力が届く最短の距離まで一気に踏み込み、迫り来る不可視の質量に向けて右手を伸ばした。


男の魔力と、リサの指先が接触する。

頭蓋骨を内側からノミで叩き割られるような激痛が走る。


そして、世界の法則が裏返った。

鈍い轟音と共に、念動使いは自らの呪文に押し潰された。


「隊長!?」

「怯むな、撃て!」


視界を取り戻した狙撃手たちが、慌ててリサにクロスボウを向け直す。

その引き金が引かれるより早く、馬車の残骸が内側から激しく爆ぜた。


エリトーラだった。


青白い電光をまとった公爵令嬢が、戦場へと躍り出る。

ドレスの裾をひるがえし、彼女は両の指先を敵へ向けた。


一瞬の出来事だった。

彼女が指先を振るうたび、世界が白く焼き切れた。

敵を一撃で滅ぼす殺戮の稲光。

一人、また一人と次々に刺客たちが崩れ落ちる。

圧倒的な蹂躙だった。


最後に残った一人が、クロスボウを捨てた。

そして、なりふり構わず背を向けて逃げ出した。


その背中を、エリトーラは容赦なく撃ち抜いた。


ドサリ、と重い塊が石畳に倒れ込む。

激しい雷鳴の余韻を残して、街道は急激に静まり返った。


立ち上る黒煙。そして、鼻を突く肉の焦げる嫌な臭い。


煤と血に汚れ、ドレスを引き裂いた姿のまま、エリトーラは物言わぬ死体の山の中で無言で立ち尽くしていた。その横顔には、勝利の歓喜も、襲撃された怒りもない。


ただ平坦な、退屈そうな冷徹さだけがそこにあった。


――生き残った。

リサの中で張り詰めていた最後の糸が切れた。


視界の端から、どろりとした黒い闇が侵食していく。


何年ぶりかも分からない。あの「裏返す」感覚の代償が、今になって、凄まじい質量となって肉体にのしかかってきた。頭蓋骨の奥の痛みが、今度は脳そのものをじりじりと焼き溶かしていく。


膝の力が完全に抜けた。


倒れゆく視界のなかで、エリトーラがこちらを振り返るのが見えた。


「――!」


お嬢様の声が、遠い水底の音のように遠ざかっていった。

リサの意識は、そこで完全に途切れた。



次に意識が浮上したとき、リサは自分が驚くほど柔らかなものに包まれていることに気づいた。


いつも身に着けているゴワゴワとした旅装束ではない。肌に吸い付くような、上質で清潔な綿の寝衣を着せられている。泥に汚れていたはずの身体も、すっかり綺麗に拭われているようだった。


体を動かそうとした瞬間、頭蓋骨の芯を直接太い針で突かれたような、割れるような激痛が走った。


思わず小さく呻き声を上げる。

視界を覆っていた霞がゆっくりと晴れていく。


天井を見上げれば、故郷の村では見たこともないほど精緻な彫刻が施された木目と、きらびやかなシャンデリアが目に飛び込んできた。自分が横たわっているのは、絹のように滑らかなシーツが敷かれた、馬車よりも何倍も広い豪華なベッドの上だった。


「あ、お目覚めになられましたか!」


枕元で、聞き慣れない若い女性の声がした。

見上げると、整ったメイド服を着た召使いの女が、信じられないものを見るような目でリサを見つめていた。


「お嬢様をお呼びしてまいります。そのまま、どうか動かないで!」


女は弾かれたように踵を返すと、部屋の重厚な扉を開けてパタパタと廊下を走っていった。

取り残された部屋には、再び静寂が訪れる。


リサは痛む頭を押さえながら、ゆっくりと上半身を起こした。

体中に包帯が巻かれていた。

クロスボウの矢にかすめられた首筋と頬には、冷やりとする薬膏が塗られている。


しばらくしてから、部屋の扉が開いた。

入ってきたのは、エリトーラだった。


仕立ての違う、青いドレスを着ている。

その額には、白い清潔な布当てが貼られていた。

彼女は純白の磁器の皿を抱えていた。

その上には、新しく剥かれた瑞々しいオレンジが綺麗に並べられている。


公爵令嬢はベッドの脇へと歩み寄り、その皿をサイドテーブルへと置いた。

部屋に、柑橘の爽やかな香りが微かに広がる。


「ここは……?」


掠れた声で尋ねるリサに、エリトーラは小さく肩をすくめた。


「私の家よ。もう誰も手を出せないわ」

「ルカさんは……?」

「生きてる。頭を打って、気を失っていたけれどね。命に別状はないわ」

「よかった」


エリトーラはベッドの端に腰掛け、窓から差し込む午後の光に目を細めた。

しばらく、彼女は何も言わなかった。


「私一人でも勝てた戦いだった」


ようやく、それだけを口にした。


リサは黙り込んだ。余計な一言で空気を悪くするのは、もうこりごりだった。

エリトーラはすっと視線を落とし、リサの顔を覗き込む。


「まだ、あなたの正体は誰にも伝えていないの」


リサは返事の代わりに、シーツをきゅっと握りしめた。


「……人を殺したのは、初めて?」


不意の問いに、心臓がどくりと跳ね上がった。

そして、ただゆっくりと首を横に振った。


閉じた瞼の裏に、六歳の頃の記憶が蘇る。


故郷の村にやってきた、傲慢な旅の唱え手。

面白半分に火の粉を散らし、逃げ惑う村人たちを見て大笑いしていた少年。

その光景を見た瞬間、リサの胸の奥で、経験したことのない熱い何かが爆発した。


『やめて!』


叫んで飛び出した瞬間、少年の放った業火は、見えない壁に衝突したようにグニャリと裏返った。そのまま少年自身の肉体へと猛烈な勢いで逆流していく。悲鳴を上げて炎に包まれる姿と、あのときの熱風が、今でも肌に焼き付いて離れない。


「リサ?」


エリトーラの声が、リサを現実に引き戻した。

お嬢様はそれ以上、過去を暴くような言葉を重ねることはしなかった。


「責めているわけじゃないの」


ガラス越しに公爵邸の庭園を眺めるその横顔には、言いようのない儚さが宿っている。美しくも、どこか刺々しい。


「奪わなければ奪われる。私たちは、そういう世界に生きているのだから」


エリトーラは立ち上がると、サイドテーブルの皿に視線を落とした。


「けれど、あなたのその力――中央の唱え手たちが知れば、とても厄介なことになるわね」


リサは身を強張らせた。

エリトーラはふっと肩の力を抜いた。


「……匿ってあげましょうか」


驚いて顔を上げたリサに、エリトーラは不敵に、けれど微かに微笑んだ。


「キャスハート家は報いるのよ。仇には仇を。そして――恩には、恩をもってね」


それだけを言い残すと、彼女はドレスの裾を軽やかに翻し、部屋を出ていった。

重厚な扉が静かに閉まり、部屋には再び穏やかな静寂が戻る。


リサはベッドの上でしばらく皿を見つめていた。

それから、包帯の巻かれた手を伸ばし、オレンジの果肉を一つ口に運ぶ。


噛みしめた瞬間、強い甘みと酸味が口いっぱいに広がった。

市場で買ったあのオレンジは、きっと馬車の事故で潰れてしまったはずだ。

それなのに、あの市場で買ったものと全く同じ、瑞々しい風味だった。


あの苛烈なお嬢様が、わざわざ用意して剥いてくれたのだろうか。


そんなわけがない、と思いつつも、リサはもう一口放り込んだ。


喉の奥を通り抜けていく爽やかな甘酸っぱさが、疲弊しきった身体の隅々へ、

じんわりと、優しく染み渡っていった。

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