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散歩の条件

作者: 壮月彩
掲載日:2026/06/04

 この世界では、散歩で暮らせる。


 歩けばポイントが貯まり、そのポイントで衣食住を整えることができる。

 俺は金はないが、毎日よく歩く。だから生活には困っていない。


「今日も四万歩ぐらいだな」


 日が沈みかけた頃、散歩ウォッチで歩数を確認する。

 一日平均四万ポイントあれば、今の住まいは維持できる。


 世の中には一日八時間働く人もいれば、八時間散歩する人もいる。

 俺は後者だ。


 腕時計形の散歩ウォッチ。心拍数や歩数を測って散歩ポイントを計算してくれる。

 ただ歩けばいいわけではない。散歩と認められるのは、心拍数が過度に上がらず、心の安らぎを得ていると判断された歩行だけだ。


 通勤や通学は、たいてい散歩にならない。

 仕事や授業のことを考えていれば、安らぎとは言えないからだ。


 逆に、何も考えずに、あるいは気持ちよく何かを考えながら歩いていれば、それは立派な散歩になる。


 この制度は、散歩をすることで健康寿命を延ばし、医療費も減らせる。

 そういう理屈で始まったらしい。


 もっとも、制度の成り立ちについては別の噂もある。

 国民の心拍数を管理して、反旗を翻すような面倒ごとを起こさないようにしている、なんて。

 冗談みたいな話だが、わざわざ否定するほどでもない。


 俺にとって大事なのは理屈じゃない。

 歩けば暮らせる。その事実だけだ。


 住んでいるのは高層マンションの上層階だ。

 セキュリティは堅く、共用部は毎日掃除される。エントランスには香りの薄い花が活けてあり、エレベーターの鏡には指紋一つ残っていない。


 金ではなく、平均散歩ポイントでここに住んでいると言うと、だいたいの人間は少し変な顔をする。

 だが、その顔を見るのは嫌いじゃない。


 働かずに、ここで暮らす。

 健康で、静かで、清潔で、誰にも邪魔されない。


 この生活は、かなり気に入っていた。


「晩飯でも買いに行くか」


 俺はスーパーに向かった。

 散歩中に、のんびり夕食を考えていた。今夜はハーブチキンと豆と海藻のサラダ、雑穀米、それに具だくさんのスープ。あと、ビール。


 ビールは健康に悪いと言われているが、国が認めた健康ビールというものがあり、それなら問題ないとされている。

 もちろん、それも今日の散歩ポイントで払える。


 ちなみに住居ランクに使われるのは一日ごとの残高ではなく、平均ポイントだ。

 買い物で使ったからといって、すぐに部屋を追い出されることはない。


 食材を散歩ウォッチで支払いを済ませ、帰路につく。

 その途中、めったに鳴らないスマホが震えた。


 画面には、母の文字。


 出る気にはなれなかった。

 どうせまた、結婚はどうなのとか、そういう話だろう。


 俺はこの生活に満足している。

 恋人も結婚も、いらない。


 子どもなんかできたらどうする。育児をしながら高い散歩ポイントを維持するのは難しい。

 生活の質を落とすなんて、考えたくもなかった。


 母からの着信をそのままジャージのポケットに押し込み、俺は帰宅した。


 帰宅したら汗を流し、風呂上がりに健康ビールを開ける。

 それを飲みながら夕食を作る。


 夕食を終えて、テレビをつけたままひと息ついていると、テーブルの上のスマホがまた震えた。


 母かと思い無視しようと思ったが、一応画面をみる。今度は旧友からだった。

 旧友といっても、最近ほとんど連絡を取っていない。彼には家庭があるし、俺とは生き方がまるで違う。


 少し迷ったが、出ることにした。

 気まぐれだった。


《よお、元気かー?》


「ああ、元気だよ」


《相変わらず散歩ポイントためてんの?》


「それが楽だからな」


 なんでもない会話だった。

 一人暮らしで、散歩仲間なんてものもいない俺にとって、こんなふうに誰かと気軽に話すのは久しぶりだった。


《相変わらずだな~》


「そっちは? 子ども、いくつになったんだっけ」


《五歳だよ。女の子。最近プリンセスが好きらしくてさ、毎日プリンセスごっこ》


 コワモテの見た目をした旧友がそんな遊びをしているのを想像して、思わず吹き出した。


《笑いすぎじゃね? でさ、なんとなんと二人目が産まれました~!》


「まじで? すげぇな、子孫繁栄じゃん」


《いや言い方! まずおめでとうとかあるだろ》


「頑張ったのは奥さんだろ。奥さんに言うわ」


《それはそうなんだけどさ! 俺も大黒柱として頑張ってんだよ~》


 言いながら、きっと片手には缶ビールを持っている。健康ビールじゃないやつを。

 そんな姿が容易に想像できた。


《で、今回なんだけど、引っ越し手伝ってほしくてさ。二人目産まれたら、まじで今の部屋狭くて》


 正直、面倒だと思った。

 内容によっては丸一日つぶれるかもしれない。そうなれば散歩ができない。ポイントが貯まらない。


 散歩ポイントで今の住まいを維持するのに、どれだけ歩いてきたか。

 ここまで積み上げてきたものを、引っ越しの手伝いなんかで削りたくなかった。


「うん、いいよ。いつ?」


 そう思ったのに、口からは了承が出た。

 旧友だからだ。少ない縁だった。切るほどではない、と思った。


 一日くらい歩けなくても、平均はすぐには崩れない。

 大丈夫だ。たぶん。


 引っ越しの日取りを聞き、少しだけ雑談してから通話を切った。

 気づけば二十二時を回っている。理想の入眠時間を過ぎていた。


「今日だけ、な」


 誰にともなく呟く。

 きっと旧友はこのあと、寝室で眠る子供の寝顔を頭の隅に置きつつ、奥さんと晩酌でもするのだろう。


 そういう道もある。

 けれど、俺は俺でいるために、今の道を選んだのだ。


 そして、引っ越しの日になった。


 お祝いは散歩ポイントで買った。

 何がいいかわからなかったから、カタログギフトにした。


 旧友は笑顔で受け取ってくれた。

 以前はもっと筋肉質だった身体も、仕事と育児で鍛えられなくなったのか、ずいぶん緩んで見えた。


 それを見て、俺は少し安心してしまった。

 自分を正当化したのだ。やはり俺は、散歩で自分らしく生きている方がいいのだと。


 荷物を軽トラに詰め込み、引っ越し先へ向かう。


「いやー、まじで来てくれて助かったわ。今の時期、引っ越し代高くってさ~」


「子どももいるし、大変だよな」


 表面では、するすると心にもないことが言えた。

 金がないから俺に頼ってきたのか、と、考えないではいられなかった。


「いつも散歩どんくらいしてんの?」


「八時間ぐらい」


「ふっ、まじかよ。めっちゃしてんじゃん!」


 笑いまじりに言われ、俺は静かに拳を握った。

 俺がどんな生活をしようが、構わないだろう。


「散歩のおかげで仕事しなくていいし、高層マンションにも住める。衣食住に困らないなんて、これ以上いいことないだろ」


 わざと軽く言った。

 余裕があるように見せたかった。


 旧友はそれを聞いて、上がっていた口角を少しだけゆるめた。


「まあ、そうだな……。オムツ代で少ない散歩ポイントは消えるわ、腰は痛いわ、最悪だよ」


 言いながら、旧友は少しだけ視線を遠くへやった。

 笑ってはいるが、その目だけは、寝不足と疲れを知っている目だった。


「でもさ……。子どもの寝顔を見てると、なんか止まってられないって思うんだよ」


 今度は、はっきり笑った。

 さっきまでのくたびれた色が嘘みたいに消えていた。


 その声には妙な実感があった。

 綺麗事じゃないのに、聞いているこっちの方が黙らされる。


 そんな話をしているうちに、引っ越し先に着いた。

 さっきまでいた住宅街とは違う。

 たまに見かけるバス停の屋根が木でできていて、それだけで妙に遠くへ来た気がした。


「のどかな場所だな」


「だろ? 子ども育てるなら、やっぱ自然があった方がいいかなって。それに、国の方針で子育て世帯は田舎のリノベ古民家、土地込みで無料で譲渡されるってんだから最高だよな」


「……は?」


「知らねぇの? 少子化の進みが異常ってんで、国もようやく子育て世帯に手厚くし始めたんだよ」


 ニュースは見る。

 でも、子育て世帯向けの施策なんて、自分には関係ないと思っていたから、頭に入っていなかった。


「過疎化も進んでるし、田舎に若いの来てほしいっていうのもあるんだろうな」


 旧友の言葉が遠く聞こえた。

 意味だけが、妙にはっきり残った。


「子どもの人数によって米も配給されるんだぜ。月々の手当も入るし」


 旧友は嬉しそうに笑っている。

 その笑顔が、いやにまぶしかった。


 独身で散歩をして衣食住を整える俺と、仕事と育児をしながら国から補助を受ける旧友。

 どちらが得か。

 そんなふうに考えかけている自分に気づいて、急に気分が悪くなった。


 損得じゃないだろ、と心のどこかが言う。

 でも、じゃあ何なんだ、と別のどこかが返す。


 荷物を運び終える頃には、日が傾いていた。

 縁側の向こうで、子どもが声を上げて笑っている。旧友の妻が、その声に何か言い返す。

 それだけのことが、ひどく耳に残った。


「今日はほんと助かったわ」


 旧友が笑う。


「ああ」


 それしか言えなかった。


 帰り道、散歩ウォッチを確認する。

 今日はポイントがほとんど貯まっていない。


 けれど、それ以上に気になったのは、手首にぴたりと張りついたその感触だった。


 毎日つけているはずなのに、今日に限って妙にきつい。

 ラバーが汗を吸って、皮膚に吸いついている。

 ただ巻きついているだけじゃない。脈を、皮膚の内側から覗かれているみたいだった。


 外そうとして、やめる。


 部屋に戻る。

 風呂に入る。

 健康ビールを冷蔵庫から出す。

 いつも通りの流れを、いつも通りになぞる。


 全部、いつも通りのはずだった。


 それなのに、少しも落ち着かなかった。


 風呂上がりのビールはぬるく感じた。

 テレビをつけても音がうるさい。

 消すと、静かすぎる。


 散歩ウォッチの画面が、暗い部屋の中で薄く光っていた。


 俺はソファに座ったまま、それを見た。

 見ているだけで、なぜだか立ち上がれなかった。


 明日も歩けばいい。

 明後日も。

 今まで通り、また平均を積めばいい。


 そう考えるたび、胸の奥で何かがずれていく。


 ふいに、旧友の子どもの笑い声がよみがえった。

 縁側の向こうで跳ねる、小さな足音まで思い出す。


 俺は散歩ウォッチを外した。


 外して、テーブルの上に置く。


 それだけのことなのに、心臓がやけに速く打っていた。


 翌朝。

 いつものように散歩に出た。


 歩く。

 歩く。

 何も考えないようにして、歩く。


 けれど、三十分歩いても、散歩ウォッチの表示はゼロのままだった。


 故障かと思って立ち止まる。

 画面を見直す。


 そこには、小さくこう出ていた。


 【安らぎを検知できません】


 最初の三日は、誤差だと思った。

 そういう日もある。人間なんだから、コンディションがぶれることくらいある。


 四日目には、散歩コースを変えた。

 川沿い。並木道。公園の外周。

 音楽も流した。深呼吸もした。空も見た。


 五日目には、何も考えないようにすることだけを考えていた。

 それで心拍数が上がるのだから、笑えなかった。


 六日目、管理アプリから通知が来た。


 【平均散歩ポイント低下により、住居ランク見直し対象となりました】

 【猶予期間 30日】


 その文字を見た時、まず思ったのは、そんな馬鹿な、だった。

 次に思ったのは、三十日あれば戻せる、だった。


 戻せなかった。


 歩けば歩くほど焦る。

 焦れば焦るほど心拍数が上がる。

 画面には冷たく、同じ文言だけが出る。


 【安らぎを検知できません】


 高層マンションのエントランスを通る時、以前は少し誇らしかった。

 それがだんだん、居心地の悪い場所になっていった。


 住人たちは静かに、しかし確実に、すれ違いざまに俺を見る。

 散歩ウォッチの表示を見ているのではない。

 乱れた呼吸や、ぎこちない足取り、そこからにじむ焦りを見ているのだとわかった。


 猶予期間の最後の週は、眠れなかった。

 眠れば翌朝になる。翌朝になれば、また歩かなければならない。


 ある朝、とうとう通知が来た。


 【住居ランク降格が決定しました】

 【代替住居への移転手続きを開始してください】


 画面を閉じても、その文字は消えなかった。


 次の住まいは、今までよりずっと低いランクの集合住宅だった。

 廊下には古い臭いがこもり、壁は薄く、足音も咳払いも、隣人の生活まで全部聞こえた。


 静かじゃない。

 清潔でもない。

 誰にも邪魔されないわけでもない。


 それでも最初は、ここで立て直せると思った。

 まだ屋根がある。水も出る。寝る場所もある。

 歩いて戻せばいい。


 だが、ここに移ってからは、歩く前からもう落ち着かなかった。

 廊下の騒音。階下の怒鳴り声。いつ鳴るかわからない通知。

 散歩に出る時点で、心拍数はすでに基準を越えかけていた。


 ポイントは、ほとんど貯まらなかった。


 金はない。

 働いていない。

 働こうにも、今さら履歴書に書けることなど何もない。


 下位住居ですら維持できなくなるまで、そう時間はかからなかった。


 管理端末に最後の通知が届いた日、俺はしばらくそれを読めなかった。


 【住居提供条件を満たしていません】

 【退去手続きを行ってください】


 読み終えても、意味がうまく飲み込めなかった。


 いや、意味はわかっていた。

 ただ、その先の自分が想像できなかった。


 その日のうちに、俺は部屋を出た。

 荷物と呼べるほどのものは、もともと多くない。


 衣服と散歩用の靴、それに充電器をバッグに詰めた。

 部屋を見回したが、忘れ物はなさそうだった。


 扉を開けて外に出る。

 背後で閉まった音が、妙に大きく響いた。


 エントランス脇の返却端末に鍵を差し込む。

 乾いた電子音のあと、退去完了の文字が出た。


 あれほど求めていたはずの静けさだったのに、今となってはどこにも居場所はなかった。


 家は、もうない。


 それでも俺は歩いていた。

 他にできることを知らなかった。


 歩く。

 歩く。

 息が上がる。

 足が痛む。

 それでも歩く。


 安らぎなんて、あるわけがなかった。

 安らぎのない、必死の形相の歩行だった。

 それでも、歩くしかなかった。


 散歩ウォッチの画面が、ようやく切り替わる。


 【安らぎを検知できません】


 立ち止まったら終わる気がした。

 だから歩くしかなかった。


 けれどその歩行が、二度と、散歩と呼ばれることはなかった。

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