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朝の光が、病院の白い廊下を真っ直ぐに貫いていた。


(りく)は、いつもより早く律の病室へと足を運んでいた。今日はいよいよ拘置所への移送日だ。病院という仮初めの場所から、本格的な”矯正”の場へと彼を送り出す。それは陸にとって、彼を救うための”本当の始まり”だった。


(……この間は言い過ぎたかもしれない。だが、あれが僕の覚悟だ)


陸は手に持った書類を整え、ドアをノックした。

返事はない。陸は静かにドアを開け、部屋に入った。


「おはよう、(りつ)くん。……よく眠れたかな」


ベッドの上には、布団がこんもりと盛り上がっていた。律は背を向け、深く潜り込んで眠っているように

見える。

以前、陸がブラインドを開けた時のまま、眩しい朝日がその背中に降り注いでいた。


だが、陸は数歩歩み寄ったところで、奇妙な違和感に足を止めた。

あまりに静かすぎる。

律という青年が放つ、あの鋭利な殺気──そこに”存在している”という皮膚を刺すような気配が、微塵も感じられない。


「……律くん?」

陸は、意を決して布団の端を掴み、一気にめくり上げた。

「──ッ!?」


そこにあったのは、律ではなかった。

周辺の空き病室から、数日にわたって少しずつかき集めたのであろう予備の枕と、何枚も重ねられたシーツ。

それが驚くほど精巧に形を整えられ、まるで青年がそこで丸まって眠っているかのような”人形”として横たわっていた。


陸は、人形の頭部に当たる部分に置かれた、一枚のメモに気づいた。

そこには、殴り書きのような、だが迷いのない筆致で一行だけ記されていた。


”あんたの理解なんて、この程度だ”


陸は、窓際に目を向けた。


三階。負傷していたはずの身体。だが、律はこの数日間、陸の前では”弱った子供”を完璧に演じながら、裏では驚異的な回復力で脱出の準備を進めていたのだ。

手錠は、ベッドの柵に虚しくぶら下がっている。鍵を壊した形跡はない。点滴の針でも使ったのか。


「……あはは、そうか」


陸は、無意識のうちに握りしめていたシーツの感触に、震えるような乾いた笑い声を漏らした。

悔しさではない。自分の掲げた”理解”という名の善意が、律にとっては単なる”利用しやすい隙”でしかなかったことを突きつけられた衝撃。


律は、陸の光を拒絶するために、陸の信じる”子供の弱さ”さえも武器にして、夜の闇へと再び滑り落ちていった。


一方で、街外れの雑踏の中。

律は、深く被ったパーカーのフードの下で、冷めた瞳を前方に向けた。

左腕の痛みは、もうほとんどない。


(……救ってやる、だったっけな)


律は、朝日に照らされる街を背にして、地下鉄の階段へと消えていった。

ミナがどこにいるのか、これからどう生きるのか、まだ何も分からない。もう会うこともないだろう。

今の自分を突き動かしているのは、あの眩しい光への、底知れない嫌悪と執着だけだった。


あれから、半年が過ぎた。

季節は巡り、凍てつく雨の夜は遠い記憶へと追いやられようとしていた。

しかし、あの夜に流れた血の匂いと、自分を”理解する”と言い放った男の瞳だけは、律の脳裏にこびりついて離れない。


律は今、地方都市の片隅にある古びたアパートの一室にいた。

偽造された身分証、最低限の着替え、そしてあの日から片時も離さず持っているナイフ。

鏡の前に立ち、律は自分の左腕を眺めた。

バールで砕かれ、弾丸が掠めた場所には、赤黒い引きつれた傷跡が醜く残っている。だが、指先はもう、驚くほど正確に動く。


『……治ったな』


律は短く呟き、袖をまくって傷を隠した。

この半年間、律は徹底して気配を消した。

ミナが保護された施設も、陸の動向も、あえて調べようとはしなかった。


執着は隙を生む。

陸のような”正義の怪物”から逃げ続けるには、自分自身も感情を削ぎ落とした透明な存在になる必要があった。


一方で。

警視庁の一角にある陸のデスクは、相変わらず”佐藤律”の資料で埋め尽くされていた。

同僚たちは、すでに解決の見込みがない未解決事件として関心を失いかけていたが、陸だけは違った。

彼の時計は、あの脱獄の朝から止まったままだ。


「陸さん、またその資料ですか? もう半年ですよ。

野垂れ死んでるって説が濃厚ですって」

後輩の刑事が呆れたように声をかける。

陸は視線を書類から外さず、静かに、だが確信に満ちた声で答えた。


「いや、彼は生きているよ。……彼は、僕が彼を捕まえるのを待っているんだ。自分の闇が、僕の光に届かないことを証明するためにね」

陸の瞳には、以前のような”迷える子供を救う”という優しさだけではない、もっと狂気的なまでの”執着”が宿っていた。


理解する。彼を正しい場所に連れ戻す。

その目的は変わっていない。

しかし、その手段は、もはや法の枠組みを静かに超えようとしていた。


その夜。

律は、潜伏先の近くにある公園のベンチに座っていた。

街灯の下、幸せそうに笑いながら通り過ぎる親子連れ。律はそれを、ガラス越しの展示物を見るような、冷めた目で見つめる。


(……正しい世界、か)


ふと、背後に気配を感じた。

逃亡生活で研ぎ澄まされた律の直感が、全身の毛を逆立てる。

振り返るよりも早く、律はナイフに手をかけ、影へと滑り込んだ。


「……相変わらず、勘が良いね」


暗闇の中から響いたのは、忘れもしない、あの澄んだ、そして酷く残酷な”善意まみれ”の声。

陸だった。半年間の沈黙を破り、男は再び、律の聖域へと足を踏み入れてきたのだ。


『……どうやってここを』

「言っただろう、律くん。君のことなら、もう分かっていると。……君がどんな場所を好み、どんな風に身を隠すか。半年かけて、君の”孤独の形”をトレースさせてもらったよ」


陸は、一歩も近づかずに微笑んだ。

その距離。その視線。

律は悟った。この男は、もう自分を”捕まえる”ことだけを目的にはしていない。自分を”飼い慣らす”ための、終わりのない檻を作ろうとしているのだ。


『……消えろって言ったはずだ、刑事さん』

「無理な相談だ。……さあ、第2ラウンドを始めようか」


半年間の静寂が、音を立てて崩れ去る。


傷の癒えた”獣”と、執着という名の光を纏った”狩人”。

再会の夜、二人の間に落ちる影は、再び血の色を帯び始めていた。

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