13
雨音さえ遠のくような、張り詰めた静寂。
陸が構える銃口と、律が突き出す血塗れの刃。
その間に流れるのは、もはや言葉で埋めることのできない巨大な溝だった。
「……律くん。君は、自分が何をしているのか分かっているのか」
陸の声は、震えを隠しきれていなかった。
刑事として、幾多の凶悪犯と対峙してきた。
だが、目の前の青年から感じるものは、既知の”悪”とは決定的に違っていた。
そこにあるのは、社会への反抗でも、自己中心的な欲望でもない。
この世界そのものを拒絶し、自分という存在を焼き尽くそうとする、純粋な”虚無”だ。
『分かってるさ。……あんたが守りたい”平和な世界”にとって、俺が邪魔だってことくらい』
律は一歩、また一歩と、銃口に向かって歩を進めた。
左腕の傷口から溢れる血が、足元の泥水を黒く染める。
「止まれ! 撃ちたくない……撃たせないでくれ、律くん!」
『撃てばいい。……あんたのその指一本で、この”間違い”は全部片付くんだ。楽になれるぞ、お互いにな』
律の瞳に宿る、死を恐れぬ光。
陸の指がトリガーの上で凍りつく。刑事としての義務が”撃て”と命じ、人間としての良心が”救え”と叫ぶ。
その矛盾が、陸の身体を内側から引き裂こうとしていた。
その時。
警察の制止を振り切り、一人の少女がこの地獄の舞台へと乱入した。
「逃げて、律くん!!」
ミナだった。彼女を抑えていた署員の制止を潜り抜け、彼女は雨の中を駆けてきた。
彼女の叫びが、張り詰めた緊張の糸を無慈悲に断ち切った。
『ミナ、来るな!』
律が初めて顔を歪め、叫んだ。
その隙を、倒れていた男の一人が見逃さなかった。
男は最後の力を振り絞り、足元に落ちていた拳銃を手に取ると、
律ではなく、最も無防備なミナへと銃口を向けた。
「……この、ガキどもがぁっ!!」
乾いた銃声が、夜の闇を切り裂いた。
「──え」
陸の視界がスローモーションになる。
弾丸は律でも、陸でもなく、ミナの細い身体を貫こうとしていた。
だが、その弾道を遮ったのは、誰よりも早く動いた律の身体だった。
肉を削る鈍い衝撃。
律の身体が、操り糸を切られた人形のように崩れ落ちる。
「律くん!!」
「律くん!」
ミナと陸の叫びが重なる。
陸は反射的に男を撃ち抜き、無力化したが、その勝利に歓喜する余裕などなかった。
駆け寄る陸の腕の中で、律は泥にまみれ、浅い呼吸を繰り返していた。
『……は、はは……』
律の口端から、赤い泡が漏れる。
それでも、彼は笑っていた。
『……やっぱり、あんたは……何も、救えないんだな』
その言葉は、陸の心臓に、どんな弾丸よりも深く突き刺さった。
自分は正義だと信じていた。彼を救えると自惚れていた。
だが、結局自分にできたのは、彼を追い詰め、彼が命を賭して誰かを守る姿を特等席で眺めることだけだったのか。
律の意識が、ゆっくりと、深い闇へと沈んでいく。
遠ざかる意識の中で、律は最後に、ミナの温かい指先が自分の頬に触れたのを感じた。
(……ああ。これで、いい)
誰の持ち物でもない、自分だけの終わり。
律は満足げに、重い瞼を閉じた。
青年は一度、ここで”死”を迎える。
”佐藤律”という犯罪者としてではなく、世界を拒絶した”ヴィラン”としての再生のために。




