第4話 基準値以内
朝の委員会室は、消毒液の匂いが残っていた。
誰かが早く来て、机を拭いたらしい。端末の画面には、昨夜の自動更新ログが並んでいる。
私は席に着き、一覧をスクロールした。
表示されるのは、すべて通常処理の記録だ。
――行動記録:教室間移動
――滞留時間:二分
――申告:あり
――接触記録:三件
――距離:基準値以内
どれも、問題はない。
基準値という言葉は便利だ。
それが示されている限り、判断は不要になる。
数値の内側に収まっていれば、安全だと扱われる。
私は一件ずつ、確認済みを押していく。
手の動きは止まらない。
迷う要素がないからだ。
途中、昨日の未確定ログを思い出した。
一覧には、もちろん残っていない。
消えた、というより、最初から存在しなかったような並びになっている。
記録が残らないこと自体が、異常として扱われない。
隣の席に座った同級生が、画面を覗き込む。
「今日は少ないね」
「朝だから」
「そうか」
会話はそれで終わる。
互いに、処理の邪魔をしない距離を保つ。
午前の作業が一段落した頃、制度関連の通知が届いた。
全体連絡だ。
――基準値の再確認について
――当月より、一部項目の判定基準を微調整します。
私は通知を開いた。
変更点はわずかだった。
滞留時間の許容範囲が、三分延長されている。
理由は書かれていない。
根拠がないわけではないのだろう。
だが、ここには示されない。
数値が変わる。
それだけで、昨日まで曖昧だった行動が、今日からは問題なしになる。
私は、更新内容を確認済みにした。
昼休み、委員会室に人が増える。
それぞれが端末に向かい、黙って作業を続ける。
誰かが、ふと口を開いた。
「基準値、変わったね」
それに対して、否定も肯定も返らない。
ただ、画面を見る視線が一斉に下がる。
変わったのは数値だけだ。
だが、その影響は均等ではない。
私は、更新後のログを確認する。
昨日までなら、保留に回していたかもしれない記録が、今日は基準値以内として処理されている。
判断はしていない。
だが、結果は変わっている。
午後、提出された自己申告の中に、詳細すぎるものがあった。
移動経路、接触相手、会話の有無まで、すべて書かれている。
数値は、すべて基準値以内だ。
私は、申告内容を読み終え、処理欄を見る。
選択肢は、ひとつしか表示されない。
問題なし。
私は、確認済みを押した。
申告が過剰かどうかは、判定項目に含まれていない。
制度は、量を評価しない。
基準を超えたかどうかだけを見る。
放課後、委員会室に残ったのは数人だけだった。
外は暗くなり始めている。
私は、今日処理したログを振り返る。
どれも、基準値以内だ。
それでも、未確定ログのようなものが、完全になくなったわけではない。
ただ、見えにくくなっただけだ。
数値の内側に押し込められ、
判断されないまま、処理されていく。
端末を閉じると、画面はすぐに暗転した。
何も残らない。
制度は、基準値以内を好む。
そこでは、誰も責任を取らなくていい。
私は部屋を出る前、もう一度、空になった一覧を見た。
未確定も、例外も表示されていない。
正常だ。
少なくとも、制度上は。
廊下の照明が自動で点灯する。
その明るさも、きっとどこかで基準値が決められている。
私は、その範囲の中を歩いて帰った。
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