第10話 偶発
その日は、最初から静かすぎた。
朝の一覧に並ぶ数値は、すべて基準値の内側に収まっている。
滞留時間、移動経路、接触距離。
どれも、制度が想定した「安全な形」だった。
私は違和感を覚えながらも、処理を進める。
違和感は、記録対象ではない。
午前の途中、校内の一角で小さな事故が起きた。
階段の踊り場。
誰かが足を踏み外し、手すりにぶつかった。
音は大きくなかった。
周囲にいた生徒は三人。
誰も叫ばず、誰も走らなかった。
私は現場にいなかった。
だが、数分後にはログが届く。
――移動記録:通常
――高度変化:一段
――接触記録:手すり
――他者接触:なし
――負傷判定:軽微
――申告:なし
自動取得の情報だけが、整然と並んでいる。
誰も申告していない。
本人も、周囲も。
保健室の利用記録はない。
救急要請もない。
制度上、事故は成立している。
だが、事件ではない。
私は処理欄を開く。
選択肢は一つしか表示されていない。
――問題なし
迷いは生じないはずだった。
基準値を超えていない。
規定外の行動もない。
私は確認済みを押す。
ログは、通常処理として保存された。
昼休み、委員会室の空気が少しだけ重くなる。
誰かが、さっきの出来事を知っている。
「転んだって」
「大丈夫らしい」
「申告、してないよね」
確認ではなく、共有だ。
答えは、すでに分かっている。
誰も制度を責めない。
誰も掲示板の名前を出さない。
だが、沈黙の理由は共有されている。
午後、同じ場所を通る生徒が、わずかに距離を取る。
立ち止まらない。
速度も変えない。
ただ、足元を見る時間が増えた。
――移動記録:通常
――滞留:なし
――申告:なし
事故の影響は、数値には現れない。
だが、行動には残る。
放課後、掲示板を確認すると、すでに書き込みが増えていた。
「階段の件、知ってる?」
「申告なかったけど問題なし」
「これぐらいなら平気」
事実だけが並ぶ。
評価はない。
だが、読み手は結論を受け取る。
申告しなくても、処理は進む。
事故が起きても、事件にはならない。
私は端末を閉じる。
制度の外の言葉は、記録しない。
その日の最後、保留フォルダを確認する。
新規は、ゼロ。
例外も、付いていない。
完璧な一日だと、制度は判断する。
帰り際、昼に転んだ生徒を見かけた。
歩き方は普通だ。
少しだけ、手すりから距離を取っている。
私は声をかけない。
制度上、必要がない。
彼とすれ違う距離は、基準値以内。
接触はない。
それでも、その場に何かが残っている気がした。
事故は処理された。
記録も残っている。
だが、「何も起きなかった」という扱いが、
別の形で沈殿していく。
偶発は、解決されない。
事件にならなかっただけだ。
私は、その差を、どこにも記録しないまま、
委員会室の灯りを消した。
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