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ほどけた鎖

教室の空気は少し緊張感を孕んでいた。

前のグループの発表が終わり、入れ替わるように前へと歩き出したのは、榊と氷雨のペアだった。

氷雨はプリントを胸元で抱えるように持ち、榊の一歩うしろをついていく。

壇上に立つその瞬間まで、心臓の鼓動がうるさいほど聞こえた。

けれど──隣に榊がいる。

それだけで、不思議と怖さが少しだけ薄れた。

榊がクラスを見渡し、笑みを浮かべて口を開く。


「じゃ、俺らの発表、始めます。

こちらの氷雨っちが調べてくれたこと、めちゃくちゃ面白かったから、ちゃんと伝えられるよう頑張ります!」


自然体のまま言葉を繋いでいく榊の横で、氷雨は自分のパートが来るまで、プリントに目を落としながら静かに頷いた。


「──で、ここが俺らが注目したポイントです!

はい、氷雨っち!」


そう促されるように、氷雨がゆっくり顔を上げた。

数秒の間ののち、小さく──けれどはっきりと話す。


「……そ、それと、えっと……同じテーマで比べた資料も……載せてあります……。」


たどたどしいながらも、最後まで言い切る氷雨。

その姿を見て、榊がすかさずにっこりと頷いた。


「ナイス、氷雨っち!」


その自然なフォローに、氷雨の頬が少しだけ赤く染まった。

発表はテンポよく進み、最後にはしっかりとまとめを伝えた榊が軽く一礼し、ふたり揃って席に戻る。


「ふたりとも、よく頑張ったね。

特にここ……確か、氷雨さんが調べたんだよね?」

「え、あ……はい、そうです。」

「うん、良くできてる……素晴らしいよ。」


教授のその言葉に、氷雨は驚いたように目を見開いた。

その隣で、榊が顔を輝かせる。


「お褒めの言葉、いただきました〜

やったな、氷雨っち!」


嬉しさを隠しきれないように笑う榊が、自然に手のひらを差し出した。


「ほら、ハイタッチ!」

「え……?」


氷雨は一瞬戸惑いながらも、恐る恐る手を上げる。

そのまま榊は氷雨の手のひらにそっと重ねるように叩く──ぱちん、と音がした。

その瞬間、手のひらに伝わる感触と、榊の満面の笑み。

胸の奥がふわっと、温かくなった。

ハイタッチなんて、生まれて初めてだった。

ただ手が触れただけなのに、心の中に灯るような感覚が、不思議だった。


(……あったかい)


氷雨は、そっと指先を握りしめたまま、微笑んだ。

ほんの少しだけ、口元がゆるんでいたことに──本人は気づいていなかった。



---



授業が終わるチャイムが鳴り響くと、教室の空気はふっと緩んだ。

片づけのざわめきの中で、氷雨が自分のプリントをまとめていると──榊がぱっと横に現れる。


「氷雨っち、大成功だな!」


振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた榊。

氷雨は少し驚いたように瞬きをして、けれどすぐに小さく「うん」と頷いた。

自分の胸の奥に、静かに温かい光が灯っていることに気づく。


「なー、氷雨っち。昼休み空いてる?」

「え?」

「よかったらなんだけどさ……俺の友達と会ってくんね?」


その一言に、氷雨の表情が一瞬こわばる。

プリントを抱えた手に、力が入る。


「いや実はさ、昨日ちょっと友達に氷雨っちの話したら、

“その子、会ってみたい!”って言い出してさ。」

「……」

「あ、もちろん、無理強いはしねぇし……女の子だけだから安心して?

うるさいけど、みんな良い奴。俺が保証する。」


そう言って、榊は頭をかきながら笑った。

けれど、氷雨の心の中では、別の声が響き始めていた。


(……ダメ。

知らない人。信用しちゃいけない。

信じたら、裏切られる……)


一度だけ信じた、“美咲”の名前が頭をよぎる。

手を取ってくれたかのように見せかけて、突き落としてきた“あの日”──

全部、全部、思い出したくない。


(裏切られるくらいなら、最初から誰にも期待しない方がいい……)


それはずっと、雪村先生が教えてくれた“守り方”だった。

他人を信じなければ、傷つかずにすむ。孤独に慣れれば、寂しさも消える。

信じていいのは、雪村先生だけ。


──けれど、今日。

榊と交わしたハイタッチの感触が、頭の中に蘇る。

あの時、胸の奥に灯った小さな温もり。

それが、まだ消えずに残っている。


(……でも)


氷雨はそっと顔を上げた。

目の前の榊は、気まずそうに目を逸らしながら、それでも何かを期待して待っている。


(榊くんのことなら……信じてみたい、って……思った)


震えそうな唇を、ぎゅっと噛んで──


「……行きたい」


氷雨は、はっきりとそう言った。

榊の目がぱっと見開かれ、次の瞬間、嬉しそうに笑う。


「マジ!? よっしゃー、氷雨っち最高!!」

「……う、うるさい」

「うわ、ごめんごめん。テンション上がっちまった。

じゃ、昼休みに食堂集合な。楽しみにしてっから!」


その言葉に、氷雨は少し照れながら、小さく頷いた。


(……怖い。

でも、やっぱり私は……

……友達が、ほしい)


心の奥に、小さな決意が芽吹いた瞬間だった。



---



昼休みのチャイムが鳴ると、学生たちが一斉に教室を出ていく。

氷雨は、自分の胸の内に重く沈む緊張を感じながらも、そっと食堂へと足を向けた。


(大丈夫、大丈夫……榊くんがいる……)


そう繰り返しながら、食堂の入り口で立ち止まったその時──


「氷雨っち!こっちこっち〜!」


手を大きく振る榊の声が、にぎやかな食堂の中でもはっきりと響いた。

振り返った学生たちの視線にびくりとしながらも、氷雨はその声に導かれるように歩き出す。

榊の座るテーブルには、すでに二人の女の子が座っていた。

明るく、親しげな笑顔。

けれど氷雨の足は、自然と止まり、視線を床へと落とした。


「紹介するな。こっち、氷雨静。俺の相棒!」


その言葉に、氷雨は震える声で──


「……ひ、氷雨静、です」


ぺこりと小さく頭を下げると、女の子たちは一拍の間を置いてから──


「……めっっっちゃ可愛くない?」

「うん、めちゃくちゃ可愛い」


その反応に、氷雨は驚いたように顔を上げる。


「え……?」


女の子たちは目をキラキラさせながら、氷雨をまっすぐ見つめていた。


「マスカラとか何使ってる?めっちゃまつ毛綺麗!」

「え、あ、あの……メイクは……あまりしてない、です……」

「うっそ!」

「素でそれ?マジで可愛いじゃん!」

「ねぇねぇ、今度一緒に出かけない?メイク用品買いに行こ!」

「それ賛成!氷雨っち、メイクしたら絶対もっと可愛くなる!だって元が良いもん!」


テンポよく飛び交う言葉に、氷雨は戸惑う。

視線が泳ぎ、どう返したらいいのかわからない。


「おいおい、勝手に話進めんなって。

氷雨っち困ってんじゃん」


榊の苦笑まじりのツッコミに、二人はハッとしたように口を手で押さえる。


「あ!ごめん!いきなり怖かったよね……」

「ごめんね……引かせちゃったかな……」


氷雨は、少しだけ間を置いて──けれど確かに、首を横に振った。


「い、いえ!びっくりは……しましたけど……う、嬉しいです。

あの……よかったら、メイク……教えてください」


その言葉に、女の子たちはぱっと笑顔を咲かせた。


「マジ!?逆にいいの!?嬉し〜!」

「それな!可愛い女の子にメイクできんの最高〜!」


再び盛り上がる声。

氷雨は戸惑いながらも、少しずつその笑顔にほぐれていく。

榊がふと、氷雨の隣に立って小声で言った。


「ごめん、騒がしいだろ?」


氷雨は、笑ってしまいそうになるくらい真剣な顔の榊を見て、小さく笑った。


「ううん……騒がしいのも、嫌いじゃない」


その言葉に、榊の表情もふっと和らぐ。


「そっか、ならよかった」

「てか、氷雨っち、ここ座りなよ!一緒にご飯食べよー!」

「氷雨っちは何食べるのー?」


一気に注がれる関心と質問。氷雨は戸惑いながらも、頬に少し赤みを差して──


「えっと……その……パン、買ってきたので……」


そう言いながら、席に着いた。

女の子たちは嬉しそうに身を乗り出し、次々と話しかけてくる。

氷雨はまだぎこちないながらも、ちゃんと会話に応じようとしていた。

榊は、その様子を少し離れた場所から眺めて──ふっと、優しい笑みを浮かべた。


(氷雨っち、いい感じじゃん)


賑やかな笑い声に包まれながら、氷雨の世界が少しずつ、色を取り戻していくようだった。



---



昼休みが終わり、チャイムが鳴り響く。

氷雨と榊は、食堂を出て並んで歩いていた。

外の廊下に続く渡り廊下は少し風が冷たかったけれど、氷雨の頬はまだほんのり赤く色づいていた。


「なー、氷雨っちさ、マジでアイツらと仲良くなれてよかったな〜。

あいつら、ちょっとテンション高ぇけど、悪いやつじゃねーし」

「うん……行ってよかった……楽しかった」

「だろ〜?……って、あっぶな。ほら、段差あるから気ぃつけて」

「……ありがとう、榊くん」


そんな他愛のない会話を交わしながら廊下を歩いていると──

その様子を、少し離れた階段の影からじっと見つめる視線があった。

雪村だった。

氷雨の笑顔。その隣で自然体に笑う榊。

二人の距離感が、あまりにも“普通の学生”に見えて──胸の奥が焼けるように痛んだ。

そして次の瞬間、彼は足早に廊下を歩き出し、二人に向かってきた。

氷雨が気づいた時には、すでに彼の手が氷雨の腕をぐっと掴んでいた。


「……え、雪村先生!?」

「……氷雨さん」


低く、押し殺すような声。


「あの子、誰?」

「え……えっと……友達です。最近、仲良くなった……」

「聞いてないんだけど」

「ほ、ホントに最近だったので……こ、この後言うつもりだったんですけど……」


氷雨の声はかすれ、怯えたように視線が泳いだ。

彼女の体が、わずかに震えているのが分かった。

そのとき、すぐ後ろから榊が口を開く。


「……あの」


雪村が顔を上げると、榊が氷雨の肩越しに、まっすぐ彼を見つめていた。


「氷雨っち、怖がってますけど」


その言葉に、雪村の顔が一瞬でこわばった。


「は……?」


氷雨を見る。

その目が──怯えている。


(……俺を、怖がってる?)


雪村の手が、ぶるりと震えた。

そのまま手を引くのを忘れていた自分に気づき、慌てて氷雨の腕から手を離す。


「……っ、ごめん、氷雨さん、俺……」

「い、いえ……大丈夫です……ちょっと、びっくりしただけで……」


氷雨は気を遣うように、首を横に振ったが、その声はかすれていた。

雪村はその姿を見つめ、何かを言いかけたが──言葉にならず、


「……本当に、ごめん」


それだけを残して、彼はその場から足早に去っていった。

氷雨はその背中を見つめて、何か言おうと口を開きかける。

けれど、声は出なかった。

榊が、そっと隣に寄る。


「……アイツ、雪村……だったっけ? 氷雨っち、大丈──」


その言葉を最後まで言い終える前に、氷雨の目からぽろりと涙がこぼれた。


「っ……え。ひ、氷雨っち、泣いてんの?マジ?」


榊はうろたえたようにきょろきょろしながらも、すぐに声のトーンを落とす。


「うわ、どうしよ……と、とりま座ろ?な?」


彼は慌てて近くのベンチへと氷雨をそっと誘導した。

氷雨は抵抗することもなく、ぽたぽたと涙をこぼしながら、静かにベンチに腰を下ろした。

風がふわりと通り抜ける。

誰もいない昼下がりの外廊下に、静かな涙の音が響いていた。



---



静まり返った研究室。

昼下がりの陽が差し込むはずの窓は、ブラインドで締め切られていた。

雪村は椅子に深く座り、震える手でスマートフォンを握りしめていた。

画面にはSNSの検索バー、そして──


「……榊悠生」


画面をスクロールする。

出てくるのは、明るく、誰とでも自然に笑う彼の姿ばかり。


「友達が多くて……明るくて……優しい……?」


ページを切り替える。

過去の投稿、タグ付けされた写真、部活の紹介ページ、成績表の噂まで──

調べれば調べるほど、見えてくるのは“完璧な光”。

どこを探しても、見つからない。

欠点が──どこにも、ない。


「っ……なんで……どうして……?」


カタリ、と椅子が鳴る。

彼の呼吸が乱れていた。


「氷雨さん……どうして、あんな奴と……」


モニターに映るのは、氷雨と榊が映る写真。

榊の隣で、少し困ったように笑っている氷雨。

その顔が、どこか幸せそうで──


「……っ、違う。あれは、本当の氷雨さんじゃない」


静かに、でも確実に、彼の中で何かが崩れていく。


「君は……あんな風に、誰とでも笑う子じゃない……」


机に置かれていたペンが震える彼の手で床に転がる。

彼はそれに気づかず、ただ低く、掠れた声で呟く。


「俺が……君のこと、一番理解してるのに……」


椅子から立ち上がる。

フラついた足で、ブラインドを指で少し開く。

差し込む光が眩しくて、思わず目を細めた。

そして、そのまま、まるで誰かにすがるように、誰にも届かない声で呟いた。


「……嫌だ……氷雨さん……俺以外のものにならないで……

俺を……一人にしないで……」


その声は、誰にも届かない。

けれど、それは確かに彼の心の奥底からこぼれ落ちた、幼い願いだった。



---



しばらくベンチに座って、氷雨はようやく落ち着きを取り戻していた。

手の中には、榊が自販機で買ってくれたホットコーヒー。

ほのかに温かくて、震えた心にじんわり染みていく。


「落ち着いた?」


榊が、少し距離をとりながら尋ねる。

氷雨はコーヒーを見つめたまま、小さく頷いた。


「……うん。あの、榊くん……ありがとう……」

「いや、俺は別に何も……それより、あの人……雪村?って、センセーだよな?

なんか、いっつも女子にモテモテの……」


少し軽く茶化すように言った榊の声に、氷雨は小さく口を開いた。


「……雪村先生は、私の、恋人なの」


その一言に、榊の表情が一瞬だけ止まった。


「……え、マジ? 氷雨っち、あのモテ男と付き合ってんの? すげーな!

……って、言える感じではなかったな。

なんか訳ありっぽかったけど……ケンカ中とか?」

「ううん、そういう訳じゃない。

ただ……ただ、雪村先生は多分、私が榊くんと仲良くしてるのが、面白くないんだと思う」

「……それは、俺が男だから?」


榊の言葉に、氷雨はすぐに首を横に振る。


「ううん……榊くんが男の子でも、女の子でも関係ないよ。

あの人は、私が自分以外と関係を持つこと自体が、嫌なんだと思う……」


榊は少しだけ目を細めた。

その瞳には、理解しがたいものへの苛立ちが滲んでいた。


「はぁ? なんだそれ……それって束縛ってやつじゃねぇの?」

「束縛……そんな可愛いものじゃないかも。

雪村先生は多分…………私に“執着”してる」

「執着……」


榊は「理解できない」と言わんばかりに、さらに顔を顰めた。

そして、続ける。


「氷雨っちは……どう思ってんの?」


不意に問われて、氷雨は黙った。

言葉を選ぶように、唇を少しだけ噛んだあと──


「……苦しいよ。

でも……それが嬉しい気持ちもある。

多分ね、私も、雪村先生に執着してるんだと思う。」


榊は静かに黙って聞いていた。

やがて氷雨はゆっくりと榊の方を向いて、言う。


「……あの、榊くん。

正直に言ってほしいんだけど……。

雪村先生と私って……おかしい?」


榊は少しだけ黙って、遠くを見た。

そして、ストレートに言った。


「…………うん。おかしい」


氷雨の表情は変わらない。

ただ、受け止めるように目を閉じた。


「俺は恋愛感情無いから詳しいことよく分かんねーけどさ……

誰かと付き合ってる友達の話を聞いてると、みんな幸せそうなんだよ。

『好きな人の好きなものを好きになりたい』って奴もいれば、

『好きな人の幸せが自分の幸せ』って言う奴もいる……。

でもさ、氷雨っちと雪村センセーは……多分そうじゃないだろ?

なんかさ……お互い、苦しそうに見える。」


氷雨はそれを聞いて、何故か安心した。

そして、呟くように「そっか、やっぱり、そうなんだ」と言う。


「……幸せ、なの。これでも。

幸せだと思ってる、はずなのに。

……前よりも世界が狭くなって、呼吸もまともにできなくなってる。

幸せって、これで合ってるのかなって……不安になることが多くなって……」

「まぁ……幸せの形なんて、人それぞれだと思うけどな。

でもさ……”苦しい幸せ”よりも、”苦しくない幸せ”の方がよくね?」


その言葉は、どこまでもまっすぐだった。

氷雨は少しだけ笑った。

微かに、けれど確かに。


「……うん。

榊くん、ありがとう」


コーヒー缶を丁寧に置いて、氷雨はゆっくり立ち上がった。


「私……ちゃんと雪村先生と話してみる」

「一人で大丈夫? 不安だったら全然俺も行くけど……」

「ううん、大丈夫。

私……ちゃんと私だけで、私の言葉で話してみたい」


榊は一瞬ためらったあと、肩をすくめて頷いた。


「……そっか。わかった。

なんかあったらすぐ連絡しろよ?」

「ありがとう、榊くん」


氷雨は歩き出す。

その背中に、榊は何も言わずに手を振った。



---



氷雨は研究室の前で、一度だけ深呼吸をした。

扉に貼られた『雪村研究室』のプレートが、いつもより重く見える。

ゆっくりとドアノブを回し、扉を開けた。


「……雪村先生」


呼びかける声が、少し震えていた。

雪村は机に向かっていた手を止め、ゆっくりと顔を上げる。

驚いたような素振りも、怒りも、問い詰めるような色もない。

ただ、いつも通りの優しい微笑み。


「……あぁ。おかえり、氷雨さん。」


柔らかい声。

穏やかな笑顔。

けれどそれは——あまりにも都合のいい“日常”の仮面。


「今、コーヒー淹れるね。」


すっと立ち上がり、作業台へ向かう雪村。

その背中を見つめながら、氷雨は拳を強く握った。


「……雪村先生。話が、あります。」


真剣な声。

今までにない響き。

その瞬間だけ、雪村の動きがピタリと止まる。

でもすぐに、何事もなかったかのように微笑んで、


「今日は、新しいコーヒーを見つけたからそれにしよっか。

氷雨さんの口に合うといいんだけど。」


まるで、氷雨の言葉を聞きたくないかのようだった。

話題を逸らし、いつもの優しさで心を縛ろうとする。

それでも氷雨は諦めない。


「雪村先生、聞いてください」


さらに強く、まっすぐ。

雪村は止まらない。

スプーンを手にしながら、微笑みを浮かべたまま。


「あ、そういえばね。

出張先で可愛いネコのキーホルダーを見つけたんだ。

氷雨さんに似合うと思って。」


それは優しさではない。

“現実を見せないための優しさ”だった。


「雪村先生」


氷雨は一語一語、確かめるように呼ぶ。


その声に——


カタン。


雪村の手から、スプーンが落ちた。

湯気が立ち上る研究室の静けさに、乾いた金属音が響く。

雪村の肩がわずかに震え、ゆっくりと振り返る。

その瞳だけが——

必死に笑顔を保とうとしているのに、

壊れそうなほど不安に揺れていた。


「ずっと聞きたかったんです。雪村先生。

どうして……どうして、私だったんですか?」


その問いに、雪村は小さく息をのんだ。

それは、この数ヶ月間、彼の胸の中にしまい込んできた秘密の扉を、氷雨が自ら開けようとしている証だった。


「……言ったよね。一目惚れだった、って」


雪村は、微笑みを保ったまま答える。

けれどその笑みは、どこか脆くて。

氷雨は、俯きかけた顔を上げて、言った。


「本当は違いますよね」


雪村の目が細くなった。

まるで、これ以上聞いてはいけないと警告するような表情だった。


「違う?」


氷雨は、ぐっと手を握りしめた。


「一目惚れなんかじゃない。

私じゃなきゃいけない理由があった……例えば……“私が孤独だったから”、とか」


その言葉が落ちた瞬間、雪村の全身がこわばった。

彼の視線が宙を彷徨い、言葉を探すように口がわずかに動く。

けれど、何も出てこない。

答えられない――その沈黙こそが、氷雨の言葉の正しさを物語っていた。

氷雨の声は静かだった。

でも、その一言は、刃物みたいに雪村の胸に突き刺さる。


「そう、なんですね?」


雪村の目が見開かれる。


「……そんなわけ、ない」


彼の声は震えていた。


「僕は……氷雨さんに一目惚れしたんだ。

氷雨さんの……綺麗な顔が、雰囲気が、癖が……全部、好きなんだ。

全部、本当なんだよ」


けれど、氷雨は静かに首を横に振った。


「嘘ですよね」


その言葉に、雪村は愕然とする。


「……どうして……そんなこと言うの?氷雨さん……。

氷雨さんは、僕のこと好きだよね?

だって、“僕だけのもの”って、そう言ってくれたよね?

僕のことを、裏切るの?」


彼の声音が不安定に揺れ始める。

理性が崩れ落ちる音が聞こえるかのようだった。


「あ、わかった……氷雨さん、あの子……榊くん、だっけ?あの子に何か吹き込まれたんだね?可哀想に……どうせあの子は氷雨さんの身体が目当てなんだよ。氷雨さん、あの子は危ない。だから、早く離れて、僕のところに――」


そこまで言いかけたときだった。

氷雨の視線が、雪村を射抜いた。


――冷たい。


初めて見る氷雨の“拒絶”の目。

その瞳に、雪村の心は凍りついた。

一瞬で、幼い頃、母親から向けられたあの無関心な視線がフラッシュバックする。

あの時と同じ、氷のような目。


「ひ、ひさめ、さ……」


震える声で呼ぶが、その続きを遮るように氷雨が言った。


「雪村先生……榊くんのことを悪く言うのだけは、やめてください」

「は……? 何言って……」

「榊くんは、いい人です」


はっきりとした言葉だった。

柔らかくも、拒絶を込めた声。


「氷雨さん……どうしたの?僕よりも、あんな奴のことを信用するって言うの……?」

「……ごめんなさい」


ぽつりと落ちたその一言に、雪村の世界が崩れ始める。


「なんで……」


耳鳴りがする。視界が歪む。


「雪村先生……」

「なんでなの、氷雨さん。僕は……僕はこんなにも君を愛してるのに」


掠れる声で、すがるように手を伸ばす。


「氷雨さん……氷雨さんは僕であり、僕は氷雨さんなんだよ?」


しかし、氷雨はその手を取らなかった。しっかりと前を見据えた目で、はっきりと告げる。


「……私は雪村先生じゃないし、雪村先生も私じゃないです」

「……」

「私は私、雪村先生は雪村先生なんですよ。

私の人生は私のもので、雪村先生のものじゃない……。」


その言葉に、雪村は動けなくなった。

凍りついたように、ただその場に立ち尽くしていた。

静まり返る研究室。

すると突然……「ガチャッ」とドアが開く音が響いた。


「律、いる?」


柔らかな女性の声。

その声に、雪村も氷雨もハッとして扉の方を向いた。

そこに立っていたのは、上品な服装に身を包んだ、年齢を重ねた女性だった。

氷雨には見覚えのない人。

けれど、雪村は明らかに動揺した様子で、ふらりと一歩、後ずさった。


「……お母さん」

「え……?」


氷雨の目がわずかに揺れる。

女性は、まるで再会を待ち望んでいたかのように、笑顔を浮かべて雪村のもとへ駆け寄った。


「律!よかった、ここにいたのね!あぁ、会いたかった!」


そう言って、迷いもなく雪村の体をぎゅっと抱きしめた。

けれど雪村は、その腕に何も返さなかった。ただ青ざめた顔で、身動きひとつせず立っていた。

しばらくして、ようやく女性は氷雨の存在に気づいたらしい。


「あら、ごめんなさい。お取り込み中だった?」


突然の出来事に、氷雨は何も言えず戸惑っていた。

そんな氷雨を見て、雪村がすぐに口を開く。


「……こちらは僕の教え子の、氷雨さんです」

「えっ……」


氷雨は驚きに目を見開いた。


(恋人って……紹介しないの?)


母親はというと、納得したように「あぁ!」と声を上げ、笑顔を向ける。


「教え子さん!いつも律がお世話になってます!」

「い、いえ……」

「律、すごい先生でしょう?昔からこうなのよ。何をやっても完璧で、テストなんてほとんど満点ばっかり!将来はきっと立派な人になるって、誰もがそう思ってたの!」


まるで待ってましたとばかりに、母親は氷雨に自慢話を始めた。

氷雨が「え、えっと……」と困惑していると、雪村は震える手を押さえながら、かすれた声で尋ねた。


「……お母さん、どうして……いきなり、ここに?」

「あ、そうだったわ!」


母親は思い出したように手を打つと、嬉しそうに続ける。


「実はね……ママ、孫が欲しくなって!」

「……っ」


雪村の顔から、血の気が引いていく。

氷雨は、黙ったままそのやり取りを見ていた。


「でもね、律はお仕事で忙しいから、なかなか出会いもないでしょ?だから……なんと!」


子どものようにはしゃぎながら、母親はバッグから一枚の写真を取り出す。


「律のお見合いが、決まりました〜!」


パァッと笑顔を浮かべて差し出したその写真には、知らない女性の姿が写っていた。

雪村は声を失い、ただ呆然と立ち尽くす。

氷雨は、そんな雪村を静かに見つめていた。

初めて見る、彼の“無力”な姿だった。



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