閉じた心に差し込む風
午後の授業が始まって数分。
静まり返った教室には、ノートをめくる音やペン先が走る音だけがかすかに響いていた。
氷雨は教科書を開いたまま、ただ俯いていた。
その日の講義は少し変則的だった。
大学の「現代文学研究」の授業。
担当の教授がいつもと違う柔らかい口調で、黒板の前に立ったまま言った。
「では今日は、少し趣向を変えて、皆さんにペアワークをしてもらいます。
グループで資料を読み込んで、それぞれの解釈を共有してください」
その一言が、教室の空気を一気にざわつかせた。
周囲の学生たちがざわざわと顔を見合わせ、席を立ったり、ひそひそと誰と組むかを相談し始める。
隣の席の学生同士がすぐに笑顔で目配せを交わし、自然と二人一組ができていく。
その流れのなかで、氷雨は動けずにいた。
誰とも視線を合わせないように、うつむいたままペンを握る手だけをぎゅっと強く握りしめていた。
心臓の音がうるさい。
冷や汗が、首筋を伝う。
誰かが声をかけてくれるわけもないとわかっていても、周りの視線が気になって仕方がなかった。
(また、こうなる……)
これまで何度も、こうして取り残された。
誰も責めることはできなかった。
ただ氷雨が、人と関わるのが苦手なだけだった。
話しかける勇気も、笑顔を向ける余裕もなかった。
だから、この教室のざわめきの中、自分だけがぽつんと置いていかれるのは、いつものことだった。
「……」
氷雨は誰にも気づかれないように、小さく息を吐いた。
教科書のページが、静かに風に揺れている。
「……なぁアンタ、まだ決まってない?」
不意に、耳元に低く落ち着いた声が届いた。
氷雨は、びくりと肩を揺らした。
まさか自分に声をかけてくる人がいるなんて思ってもいなかった。
ゆっくり顔を上げると、見知らぬ男子学生が自分の前に立っていた。
金色に染めた髪。
ピアスが光る耳。
シャツのボタンは少し緩めに留められていて、第一印象は――正直、「チャラそう」だった。
氷雨は思わず、視線を逸らした。
少し怖い、とさえ思ってしまった。
でも、その人は笑っていた。
にこりと、まるで太陽みたいな、あたたかくて軽やかな笑顔で。
「俺、まだ誰とも組んでなくてさ。よかったら、一緒にやんね?」
言葉はさらりとしていて、変に優しすぎるわけでも、馴れ馴れしすぎるわけでもなかった。
むしろ――自然だった。
どうして。
どうして、こんな人が私に。
氷雨は混乱したまま、小さく首を横に振りかけて――けれどそのとき、ふと彼の目が、まっすぐこちらを見ていることに気づいた。
怖くなんてなかった。
目は優しかった。
ただ、最初に見た見た目に、勝手に怖いと決めつけていたのは自分だ。
「……あの……」
声は小さく震えたけれど、それでも。
「……おねがい……します……」
「お、ありがと!じゃ、そこの席、使うわ」
彼はそう言って、自分の荷物を持って軽やかに移動していく。
氷雨はその背中を見送りながら、胸の奥にぽつんと灯った違和感に気づいていた。
“初対面なのに、あんなに自然に声をかけてくれるなんて”――そんな人、これまで誰もいなかった。
(この人、誰だろう……)
知らないまま、名前さえわからないまま。
だけどその存在は、不思議と心の奥に、小さな波紋を残していった。
---
男子学生と席についたものの、氷雨はノートを開いてうつむいたまま、目を合わせようとはしなかった。
気まずい沈黙が机の上に重く降りる。
「……なぁ、名前聞いていい? アンタの。」
突然の声に、氷雨はピクリと肩を揺らした。
やっぱりちょっと怖い。
けど、今さら他のペアに替わることもできない。
「……ひ、氷雨です。氷雨、静……」
ぎこちなく答えながらも、目線はまだノートの端。
氷雨が小さな声で名乗ると、彼は一瞬目を丸くしてから、ふっと口元を緩めた。
「へえ、氷雨。名前、なんかかっこいいな」
そう言って、彼は無造作に氷雨のほうを覗き込むようにして、ニッと笑った。
「んじゃ、“氷雨っち”だ。よろしく、氷雨っち」
「……え?」
氷雨はきょとんと目を見開いた。
今のは、名前……勝手に、変えた?
「な、なにそれ……」
「いや、呼びやすいし、そっちのが可愛くね?」
軽口のように聞こえるその言葉。
でも、ふざけてるようでいて、どこか柔らかい響きがあった。
氷雨はうまく返せず、ただ視線をそらす。
けれど、心のどこかにそのあだ名が、じんわり残った。
「あ、オレは榊悠生。
これからよろしく、相棒」
“相棒”なんて軽い言葉にまた警戒心が膨らむ。
けど、その言い方に悪意は感じられなかった。
榊はプリントを一枚引き寄せ、ざっと目を通してから言った。
「とりあえず、上から順番にやってけばいい?」
「……はい」
気づけば氷雨は、いつの間にか榊のことを“怖い”より“よく喋る人”として見始めていた。
まだ心は閉じたままだ。
でも、榊の距離感はそれ以上近づいてこようとしない。
その温度に、少しだけ不思議な居心地のよさを感じはじめていた。
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「では、今日のペアワークはここまで。発表は次回なので、各自準備を進めておいてください」
教授の言葉で、授業が締めくくられた。
氷雨はこっそり小さく息をつく。
どうにか無事にペアワークの時間を終えられたとはいえ、隣の榊に対する警戒心はまだ拭えていない。
とはいえ、発表の準備はしなくてはならない。
氷雨が椅子から立ち上がろうとした時、榊が自然な動作で声をかけた。
「なあ、氷雨っち。課題、放課後にちょっと図書館で一緒にやんない?」
「……え?」
「どうせ発表あるし、どっかで話し合わなきゃだろ。俺、空いてっからさ」
あまりにも気さくな言い方に戸惑いながらも、氷雨は小さく頷いた。
「はい」と答えかけた自分に、榊の言葉が重なる。
「はい、じゃなくて……おっけー、とか。
気楽に、な?」
「……おっけー……です」
榊は満足げに笑った。
放課後、二人は静かな図書館の片隅に座った。
課題用の資料を開きながら、氷雨は机の下でスマホを取り出す。
そっと画面を開き、雪村にLINEを送る。
『今日は授業の課題をするので、研究室行けないかもしれないです』
数分後、通知が鳴る。
『僕も今日は出張に行かなきゃいけなくなっちゃった。また夜に連絡するね。課題頑張って。』
その一文に、氷雨の頬がふわりと緩んだ。
文章の端々に、雪村らしい優しさがにじんでいる。
それだけで、心があたたかくなる気がした。
「……ふふ」
その小さな笑みに気づいたのか、榊がひょこっと横から覗き込んでくる。
「なに、好きな人?」
「っ……な、なんでもないですっ」
氷雨は慌ててスマホを伏せた。
榊は悪戯っぽくニヤリと笑う。
「ふーん?」
氷雨が視線を逸らしていると、榊が少し真面目なトーンで口を開いた。
「てかさ、氷雨っち、敬語やめない?」
「……え?」
思わず聞き返すと、榊は照れたように首をかきながら言った。
「俺、敬語使われんの苦手なんだよね。
距離置かれてるみたいで。
それに、今は俺たち“相棒”だし、さ」
氷雨は目を瞬かせる。
「相棒」なんて言葉、普段聞き慣れない。
でも、それがどこかこそばゆくて、少しだけくすぐったいような感覚を覚える。
「堅苦しいのはナシ!OK?」
「わ……わかりま……わかった……」
ぎこちないけれど、氷雨はなんとか言い直した。
榊はニッと笑い、満足げに頷いた。
「そうそう、それでいいんだよ、氷雨っち」
その笑顔は、どこまでも太陽のように明るかった。
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図書館の片隅、静かに時間が流れていた。
窓から差し込む夕陽が、二人の間のテーブルに長く影を落としている。
氷雨はプリントに視線を落としながら、榊の書いたメモにちらりと目をやる。
字は意外にもきれいで整っていて、どこか彼の印象とはギャップがあった。
「……字、綺麗」
思わず口に出してしまったその一言に、榊が一瞬ぽかんとしたあと、照れくさそうに笑った。
「お、氷雨っちから褒められた。やったな俺」
「べ、別に褒めたつもりじゃ……」
氷雨が慌てて言い訳を重ねると、榊は声を出して笑った。
「冗談冗談。……でもさ、なんか意外」
「え?」
「氷雨っち、俺のこと怖がってるかと思ってたからさ。
最初に話しかけたとき、めっちゃビクッてしてたし」
「……してない」
「いや、してた」
榊は笑いながら肩をすくめた。
「まあ、慣れてるけど。
俺、見た目だけで判断されること多いし。
チャラそうとか、適当そう、恋愛にだらしなさそう、とか」
氷雨は少しだけうつむいて、榊の言葉に頷いた。
たしかに、自分も第一印象でそう思っていたから。
「でもさ、それで警戒されんのって、正直ちょっとめんどくせーじゃん?」
そう言って榊は、少しだけ目を伏せた。
「……俺さ、アロマンティックなんだよね」
唐突に落とされた言葉に、氷雨は反応が遅れた。
榊は、氷雨の方を見ず、まるでどこか遠くを見ているような目で続ける。
「恋愛感情を持つことがない、ってやつ。
だからさ、別に誰かを好きになったこともないし、これからも多分……ないと思う」
静まり返った図書館の空気の中、彼の言葉だけが静かに響いた。
「でもやっぱ、誤解されやすくてさ。
誰かと仲良くしてるだけで『好きなんでしょ?』って言われたり……相手から勘違いされるのも……正直しんどい」
氷雨は、ゆっくりと彼の横顔を見つめた。
軽そうな雰囲気の奥に、こんな静かな孤独を抱えていたなんて――。
「……ごめんなさい」
小さく漏れた氷雨の言葉に、榊はようやく彼女の方を向く。
「ん?なんで謝んの?」
「私……榊くんのこと、勝手に……」
最後まで言葉にできなかったが、榊はそれで十分だったらしく、ふっと笑った。
「気にすんなって。慣れてるから。
てか、氷雨っちが謝ることじゃないし」
そう言って、榊はいつもの明るい調子に戻る。
「ほら、課題の続きやんぞー。発表でグダったら俺、氷雨っちに全部押しつけるからな?」
「……それは困る」
ぽつりと返した氷雨の声に、榊はまた、楽しげに笑った。
---
放課後。
空は茜色に染まりかけていて、肌寒い風が氷雨の服の袖を揺らした。
「なあ、氷雨っちの家ってこっち方面?」
校門を出たところで榊が何気なく尋ねる。
氷雨は少し戸惑いながら、こくんと小さくうなずいた。
「んじゃ、一緒に帰るか。送ってくよ、氷雨っち」
「えっ……でも……」
「でももへったくれもない。こんな時間に女の子が一人で歩くとか危ねーだろ。
ほら、行くぞ」
そう言って、前を歩き出す榊。
氷雨は数歩遅れてついていく。
隣に並ぶと、自然と歩幅を合わせてくれた。
しばらく無言で歩いたあと、氷雨がふと横目で榊を見る。
(……この人、意外と普通に歩くんだな。
もっと、チャラチャラしてるのかと思ってた……)
「……あの、」
「ん?」
「さっき、言ってた……“アロマンティック”って……その……」
氷雨の声は小さくて、風にさらわれそうだったけど、榊はしっかり聞き取っていた。
「うん、恋愛感情を抱かないタイプのやつ。
誰かに恋したこと、ないんだよな~多分これからも」
「……それって、寂しくないの?」
榊は少し笑って、ポケットに手を突っ込んだまま前を向いた。
「さあ。たまに“変わってる”とか“可哀想”とか言われるけど、別に困ってないし。
……でもまあ、友達とか仲間がいると楽しいってのは思う」
「……」
氷雨は自分の胸の奥が、ほんの少しちくっとするのを感じた。
「氷雨っちは? 恋愛とか、するタイプ?」
「わ、私……? そ、そういうのは……分かんない。
あ、いや、分かんない、じゃなくて……わたしは……」
榊はクスクスと笑った。
「ごめんごめん、なんか意地悪だったな。」
そうしてまた少し歩いたあと、榊がぽつりと言う。
「……でも氷雨っちが、今日、俺にちょっとだけ興味持ってくれたの、正直嬉しいわ」
氷雨は驚いて、榊の横顔を見つめた。
「……そっちこそ、なんで、私なんかに声かけたの?」
「んー? なんでだろ。なんか、“一人でいるのが普通になってる”感じがしたから……なんとなく、気になった」
「……」
(この人、やっぱり変な人だ)
でも、氷雨はその「変な人」の言葉に、なぜか心がふわりとあたたかくなるのを感じていた。
やがて、氷雨の家の前にたどり着いた。
「じゃ、またな、氷雨っち」
榊は軽く手を振って、笑った。
氷雨は一瞬迷ったあと、少しぎこちない動きで小さく手を振り返す。
榊の背中が遠ざかっていく。
その背を見つめながら、氷雨は小さく思った。
(……やっぱり、私……
友達が、ほしい)
初めて芽生えたその想いは、夕暮れの風とともに、胸の奥に静かに灯っていた。




