表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

君がいない日

朝の空気は澄んでいて、大学の廊下にはまだ静かな気配が漂っていた。

キャンパスに差し込む冬の光は弱く、それでも窓ガラスに反射しながら冷たい白を落としている。

カップに入れたばかりの珈琲から、ふわりと湯気が立つ。

湯気の向こう──いつものように研究室の椅子に座り、氷雨がそっと本を開く光景が、脳裏に自然と浮かぶ。

今日も彼女が来てくれる。

その当たり前が、雪村にとってどれほど心を落ち着かせる儀式となっているのか、本人はきっと知らない。


……しかし。


待っても、待っても、氷雨は来なかった。

雪村も、最初の数時間は笑っていた。


「……今日は珍しく寝坊かな? 可愛いな。」


そう呟きながら書類を整理し、メールを返す。

何も変わらない日常のふりをしながら。


しかし、授業が始まる時間になり、雪村がいつも通り氷雨が出ている授業をこっそり見に行くも、氷雨は教室に現れなかった。

その瞬間、胸の奥に冷たい滴が落ちた気がした。

たった一席空いただけの教室。

けれど、雪村にとっては世界の一部が欠けたように感じた。

授業が終わると、雪村は無意識のうちに学生たちへ歩み寄っていた。


「ちょっといいかな? 少し聞きたいんだけど……氷雨 静さん、今日は来ていないのかな。」


話しかけられた男子学生たちの顔には驚きが走る。

雪村は普段、必要以外の会話をしない人間として有名らしい。

その中の一人が言う。


「氷雨さん? あー……いましたね、そんな人。今日は見てないので、多分休みだと思います。」

「休み。」


その単語だけが頭の中で反響する。

休んでいるのに──自分に何も言わない?

胸の内側がざわめき始めた。

雪村の知らない場所で、雪村の知らない時間を過ごしている。

たったそれだけのことが、雪村にとってはひどく不安だった。



---



研究室へ戻ると、雪村はすぐにスマホを開いた。

氷雨との間で合意の上で共有している位置情報。

ぎゅ、とスマホを握り込んで位置を確認する。

……画面に映った場所は、氷雨の家でも大学でもなかった。

知らない住所。知らない一軒家。

心臓が跳ねた。

LINEを送る。既読はつかない。

電話をかける。呼び出し音だけが虚しく響く。

胸の奥がざわつきを超え、冷たい焦りへ変わる。

平静を装って研究室の荷物をまとめると、職員室に寄り、


「急用ができたため、本日は早退します。」


とだけ告げた。

廊下を歩きながら、胸が締め付けられる。


氷雨さんはどうして僕に言わなかった?

どうしてひとりでどこかへ行った?

……僕から離れようとしている?


その考えが頭に浮かんだ瞬間──全身の血が冷えた。

車のドアを閉め、エンジンをかける手が震える。

運転しながら、呼吸が乱れていく。


もし……僕じゃなくてもいいと思ったのなら?

僕以外の人間に心を開いたのなら?

そうなったら──僕は?


その時、唐突に別の声が蘇った。


――ひやりと冷たい女の声。


『律は私の息子なんだから、完璧じゃないと困るの。

どうして言われた通りにできないの?

そんな子、いらない。』


喉の奥が締め付けられ、視界が揺れる。


……落ち着け。

氷雨は違う。

氷雨は自分を拒まない。

あの子だけは。


何度も何度も心の中で唱え、深く深呼吸した。

やがてカーナビの示す場所に着き、エンジンを切る。

見上げた先、小さな一軒家。

その玄関先に、氷雨が立っていた。

そして隣には……一人の男。

その景色を見た瞬間、思考が止まった。

音も、色も消えた。

ただ、氷雨が──自分以外の人間と笑っている。

その事実だけが胸を刺す。

気づけば車から降りていた。

靴がアスファルトを踏む音に気づいたのか、氷雨が振り返る。

驚いた顔。

走ってくる。


「ゆ、雪村先生……!?どうしてここに……」


声を聞いた途端、胸の奥に溜め込んでいたものが溢れそうになる。


「……氷雨さんは……僕のこと……嫌いになったの?」


自分でも信じられないくらい、掠れた弱い声だった。

氷雨は瞬きをし、言葉を探しているようだった。

その時、家の中から明るい声が響く。


「静ちゃーん!今日は本当にありがとう!」


赤ん坊を抱いた女性が笑顔で姿を現した。

その後ろに、先ほどの男性がいる。

事情が掴めず固まる雪村に、氷雨が慌てたように言った。


「あ……雪村先生。この方は私が施設にいた頃お世話になった田中さんと、その旦那さん……それから、赤ちゃんです。」


そして氷雨は恥ずかしそうに視線を落とし、続けた。


「田中さん……この人が、私の恋人の……雪村先生です。」


その言葉が胸に落ちた瞬間、世界の色がゆっくり戻ってくる。

雪村はしばらく呆然としていたが、咄嗟に我に返り田中夫婦へ向き直る。


「……初めまして。雪村律です。

氷雨さんとお付き合いさせていただいています。」


女性は目を細め、優しく笑った。


「静ちゃんにこんな素敵な恋人ができるなんて……本当に嬉しいわ。

雪村先生、静ちゃんを幸せにしてあげてくださいね。」


雪村はゆっくり頷き、微笑む。


「……はい。必ず。」



---



田中夫婦と別れ、二人は車まで戻る。

雪村が助手席のドアを開けてくれたので、氷雨は遠慮がちになりながらもそのまま助手席に座った。

雪村が運転席に座ったのを確認してから、氷雨が「あの、雪村先生」と口を開こうとした、その瞬間だった。

雪村は、氷雨を腕の中に抱き寄せた。

強く、離れないように。

確かめるように。

腕の中で動揺する氷雨に、雪村の声が震えながら落ちる。


「……よかった……氷雨さんが……どこにも行ってなくて……

僕を置いていったんじゃなくて……

本当に……よかった……」


氷雨は驚いた。

自分よりも遥かに大人だと思っていた雪村が、子どものように小さく震えている。

その瞬間、氷雨は思ってしまった。


(あぁ、雪村先生も……私がいないとダメなんだ)


氷雨はそっと雪村の背に触れ、そして優しくさする。


「……ごめんなさい。今朝、突然田中さんから連絡が来て……少しだけ顔を出すつもりだったから、雪村先生に言うほどのことじゃないと思って……でも……言うべきでした。」


その声は雪のように静かで、優しかった。

雪村は抱きしめた腕に力が入る。

そして氷雨が、そっと囁く。


「私はいなくなりません。どこにも行きません。

……私は、雪村先生だけのものです。」


その一言は、雪村の奥底に刺さり、そしてゆっくりと溶かしていった。

ふたりはしばらく抱き合ったまま動かなかった。

温度が伝わり合う。

鼓動が重なる。

やがて雪村が低く、穏やかに言った。


「……帰ろう、氷雨さん」


夜風が静かに吹き抜けた。

その中で、ふたりは確かに──互いを必要としていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ