君がいない日
朝の空気は澄んでいて、大学の廊下にはまだ静かな気配が漂っていた。
キャンパスに差し込む冬の光は弱く、それでも窓ガラスに反射しながら冷たい白を落としている。
カップに入れたばかりの珈琲から、ふわりと湯気が立つ。
湯気の向こう──いつものように研究室の椅子に座り、氷雨がそっと本を開く光景が、脳裏に自然と浮かぶ。
今日も彼女が来てくれる。
その当たり前が、雪村にとってどれほど心を落ち着かせる儀式となっているのか、本人はきっと知らない。
……しかし。
待っても、待っても、氷雨は来なかった。
雪村も、最初の数時間は笑っていた。
「……今日は珍しく寝坊かな? 可愛いな。」
そう呟きながら書類を整理し、メールを返す。
何も変わらない日常のふりをしながら。
しかし、授業が始まる時間になり、雪村がいつも通り氷雨が出ている授業をこっそり見に行くも、氷雨は教室に現れなかった。
その瞬間、胸の奥に冷たい滴が落ちた気がした。
たった一席空いただけの教室。
けれど、雪村にとっては世界の一部が欠けたように感じた。
授業が終わると、雪村は無意識のうちに学生たちへ歩み寄っていた。
「ちょっといいかな? 少し聞きたいんだけど……氷雨 静さん、今日は来ていないのかな。」
話しかけられた男子学生たちの顔には驚きが走る。
雪村は普段、必要以外の会話をしない人間として有名らしい。
その中の一人が言う。
「氷雨さん? あー……いましたね、そんな人。今日は見てないので、多分休みだと思います。」
「休み。」
その単語だけが頭の中で反響する。
休んでいるのに──自分に何も言わない?
胸の内側がざわめき始めた。
雪村の知らない場所で、雪村の知らない時間を過ごしている。
たったそれだけのことが、雪村にとってはひどく不安だった。
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研究室へ戻ると、雪村はすぐにスマホを開いた。
氷雨との間で合意の上で共有している位置情報。
ぎゅ、とスマホを握り込んで位置を確認する。
……画面に映った場所は、氷雨の家でも大学でもなかった。
知らない住所。知らない一軒家。
心臓が跳ねた。
LINEを送る。既読はつかない。
電話をかける。呼び出し音だけが虚しく響く。
胸の奥がざわつきを超え、冷たい焦りへ変わる。
平静を装って研究室の荷物をまとめると、職員室に寄り、
「急用ができたため、本日は早退します。」
とだけ告げた。
廊下を歩きながら、胸が締め付けられる。
氷雨さんはどうして僕に言わなかった?
どうしてひとりでどこかへ行った?
……僕から離れようとしている?
その考えが頭に浮かんだ瞬間──全身の血が冷えた。
車のドアを閉め、エンジンをかける手が震える。
運転しながら、呼吸が乱れていく。
もし……僕じゃなくてもいいと思ったのなら?
僕以外の人間に心を開いたのなら?
そうなったら──僕は?
その時、唐突に別の声が蘇った。
――ひやりと冷たい女の声。
『律は私の息子なんだから、完璧じゃないと困るの。
どうして言われた通りにできないの?
そんな子、いらない。』
喉の奥が締め付けられ、視界が揺れる。
……落ち着け。
氷雨は違う。
氷雨は自分を拒まない。
あの子だけは。
何度も何度も心の中で唱え、深く深呼吸した。
やがてカーナビの示す場所に着き、エンジンを切る。
見上げた先、小さな一軒家。
その玄関先に、氷雨が立っていた。
そして隣には……一人の男。
その景色を見た瞬間、思考が止まった。
音も、色も消えた。
ただ、氷雨が──自分以外の人間と笑っている。
その事実だけが胸を刺す。
気づけば車から降りていた。
靴がアスファルトを踏む音に気づいたのか、氷雨が振り返る。
驚いた顔。
走ってくる。
「ゆ、雪村先生……!?どうしてここに……」
声を聞いた途端、胸の奥に溜め込んでいたものが溢れそうになる。
「……氷雨さんは……僕のこと……嫌いになったの?」
自分でも信じられないくらい、掠れた弱い声だった。
氷雨は瞬きをし、言葉を探しているようだった。
その時、家の中から明るい声が響く。
「静ちゃーん!今日は本当にありがとう!」
赤ん坊を抱いた女性が笑顔で姿を現した。
その後ろに、先ほどの男性がいる。
事情が掴めず固まる雪村に、氷雨が慌てたように言った。
「あ……雪村先生。この方は私が施設にいた頃お世話になった田中さんと、その旦那さん……それから、赤ちゃんです。」
そして氷雨は恥ずかしそうに視線を落とし、続けた。
「田中さん……この人が、私の恋人の……雪村先生です。」
その言葉が胸に落ちた瞬間、世界の色がゆっくり戻ってくる。
雪村はしばらく呆然としていたが、咄嗟に我に返り田中夫婦へ向き直る。
「……初めまして。雪村律です。
氷雨さんとお付き合いさせていただいています。」
女性は目を細め、優しく笑った。
「静ちゃんにこんな素敵な恋人ができるなんて……本当に嬉しいわ。
雪村先生、静ちゃんを幸せにしてあげてくださいね。」
雪村はゆっくり頷き、微笑む。
「……はい。必ず。」
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田中夫婦と別れ、二人は車まで戻る。
雪村が助手席のドアを開けてくれたので、氷雨は遠慮がちになりながらもそのまま助手席に座った。
雪村が運転席に座ったのを確認してから、氷雨が「あの、雪村先生」と口を開こうとした、その瞬間だった。
雪村は、氷雨を腕の中に抱き寄せた。
強く、離れないように。
確かめるように。
腕の中で動揺する氷雨に、雪村の声が震えながら落ちる。
「……よかった……氷雨さんが……どこにも行ってなくて……
僕を置いていったんじゃなくて……
本当に……よかった……」
氷雨は驚いた。
自分よりも遥かに大人だと思っていた雪村が、子どものように小さく震えている。
その瞬間、氷雨は思ってしまった。
(あぁ、雪村先生も……私がいないとダメなんだ)
氷雨はそっと雪村の背に触れ、そして優しくさする。
「……ごめんなさい。今朝、突然田中さんから連絡が来て……少しだけ顔を出すつもりだったから、雪村先生に言うほどのことじゃないと思って……でも……言うべきでした。」
その声は雪のように静かで、優しかった。
雪村は抱きしめた腕に力が入る。
そして氷雨が、そっと囁く。
「私はいなくなりません。どこにも行きません。
……私は、雪村先生だけのものです。」
その一言は、雪村の奥底に刺さり、そしてゆっくりと溶かしていった。
ふたりはしばらく抱き合ったまま動かなかった。
温度が伝わり合う。
鼓動が重なる。
やがて雪村が低く、穏やかに言った。
「……帰ろう、氷雨さん」
夜風が静かに吹き抜けた。
その中で、ふたりは確かに──互いを必要としていた。




