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好きの確信

あの出来事から、氷雨の世界は、日に日に狭くなっていった。

以前なら歩いていた図書館、食堂、キャンパスの中庭。

そこに行く理由はもう無かった。

人と目が合うことが怖い。

声をかけられるのも怖い。


でも――


扉に貼られた小さなプレート。


『雪村研究室』


その文字を見ると、胸の奥が少し温かくなる。

氷雨はそっとノックもせず扉を開けた。

もうそれが当たり前になっていた。

机に向かっていた風間は、すぐに顔を上げる。

いつもの優しい目で。


「おかえり、氷雨さん。」


その声だけで、氷雨は息を吐く。

緊張がほどけていく。

研究室にだけ流れる空気。

静かで安心できる、自分だけ許される世界。

席に座ると、雪村は淹れたてのコーヒーを差し出した。

氷雨は両手で包み込むようにカップを持ち、一口だけ飲む。


——それでも、今日は味が少し違う気がした。


ほんの少しだけ苦く感じた。

それはきっとコーヒーではなく、

氷雨の心の味だった。

雪村はしばらく見守るように氷雨を眺めていたが、やがて静かに声をかけた。


「氷雨さん。」


氷雨の肩が、わずかに揺れる。


「……はい。」

「最近、少し悩んでる?」


氷雨は思わず息を呑んだ。

視線を落として、指先をきゅっと握る。

すぐに答えない氷雨を責めることなく、雪村はただ、待った。

氷雨の中で整理しないまま積もっていた感情。

言葉にするにはまだ早すぎる棘。

だから氷雨は、小さくかぶりを振った。


「……大丈夫、です。」


それは拒絶ではなく、隠すための言葉。

雪村は一瞬だけ目を細めた。

けれどすぐ、優しい笑みに戻る。


「そっか。

無理に言わなくていいよ。」


その言葉が、嬉しいのか、苦しいのか、氷雨本人にも分からなかった。

沈黙が落ちる。

その空気をやわらかく破るように、雪村が口を開いた。


「あぁ、そうだ、氷雨さん。」


氷雨は顔をあげる。

雪村の目はまっすぐで、どこか特別な何かを伝えようとしているように見えた。


「今度の日曜日って、空いてる?」


氷雨は一瞬きょとんとして、ゆっくり答える。


「……空いてますけど……どうしてですか?」


雪村は珍しく、ほんの少し照れたように笑った。

その笑顔に、氷雨の胸がきゅっと締め付けられる。


「もし、氷雨さんさえよかったら――」


そして、


「僕とデートしてほしいなって思って。」


その言葉は、驚くほど静かに、でも確かに氷雨の心に落ちた。

氷雨はカップを持つ手をぎゅっと握る。

心臓が早鐘を打ち、息が詰まる。


「……デー、ト……?」


小さな声で繰り返すのが精一杯だった。

雪村は氷雨の返事を急かさず、ただ見つめる。


「外が怖くてもいい。

人の視線が嫌でもいい。

……僕と一緒なら、少しは安心できるんじゃないかな、って。」


氷雨はゆっくり息を吸い、震える声で答えた。


「……はい。

……雪村先生となら……大丈夫、だと思います。」


雪村の表情が柔らかくほころぶ。


「ありがとう。嬉しいよ、氷雨さん。

じゃあ――日曜日、迎えに行くね。」


氷雨は小さく頷いた。

胸の奥の苦い感情は消えなかった。

でも、雪村の笑顔がそれを覆い隠すように優しく満たしていく。

外の世界への不安と、雪村と出かける嬉しさと、一方であの日から説明できない胸のざわつき。

氷雨自身、まだその感情の名前に気づいていなかった。



---



その夜、氷雨の部屋には滅多に見ることのない光景が広がっていた。

ベッドの上、床、椅子。

持っている服という服がすべて引っ張り出され、無秩序に散らばっている。


白いワンピース。

落ち着いたグレーのカーディガン。

淡い青色のブラウス。

黒のシンプルなワンピース。


普段ならどれを着ても同じだと思っていた。

だけど――日曜日は違う。


(……雪村先生は……どんな服、好きなんだろう。)


服を一枚手に取るたび、胸の奥がきゅっと苦しくなる。

嬉しいのに、こわい。

楽しみなのに、息が詰まりそう。

鏡の前に立って服を当ててみる。

だけどすぐに肩を落とす。


(似合わない……。)


鏡の中の自分は、特別でも可愛いわけでもない。

ただの地味で、存在感の薄い女の子。

それを見れば見るほど、不安が増える。

床に座り込んで膝を抱えた時、ふと頭をよぎる。


(……こういう時、友達がいたら……

相談したり、一緒に選んでもらえたり……するのかな。)


ぽつ、と心の奥で浮かんだその考えは、ほんの一瞬だけ温かかった。

だけど――同じ速さで冷たくなる。

氷雨の表情が曇る。


(……でも。

もう……雪村先生以外の人は……信用できない。)


そう思った瞬間、胸が痛くなる。

寂しいのか、安堵なのか。

自分でも分からなかった。

部屋に散らばった服たちが、まるで氷雨の答えの見つからない気持ちを映すようだった。

やがて、ため息をひとつ。

スマートフォンを手に取り、検索画面を開く。


「デート 服 地味」

「年上男性 服装 大学生」

「初デート 何着ればいい」

「30代男性 好きな服 女性」

「黒ワンピース 印象」


スクロールしても、似たような言葉ばかり。

氷雨は唇を噛み、揺れる心を抱えたままスマホを胸に抱きしめる。


(……日曜日。

雪村先生、楽しんでくれるかな。)


不安と期待が混ざったまま、氷雨は散らかった服の中にうずくまり、ゆっくり目を閉じた。

夜は静かだった。

だけど、心だけが落ち着かないまま流れていく。

そして――その日から土曜日まで、氷雨の検索履歴は同じ言葉で埋まっていくことになる。


「デート 何を着る」


まるで呪文のように。

迷いの証のように。

それだけ氷雨にとって、その一日は特別だった。



---



日曜日の朝。

氷雨は鏡の前で、小さく深呼吸をした。


(……大丈夫。

変じゃない……はず……。)


昨日まで悩みに悩んで決めた、真っ白なシンプルなワンピース。

襟元には細いリボン、袖はふわっとしたシフォン素材。

控えめで、自分らしくて、でも——ほんの少し背伸びした服。

髪はゆるく巻いて、ほとんど誰にも見せたことのない仕上がり。


(雪村先生、喜んでくれるといいな……。)


胸の前で指先をぎゅっと握ったそのタイミングで——


ピンポーン。


心臓が跳ねる。


「っ……!」


慌てて足元を確認して、コートを掴んで、髪を整えて——

息が乱れたままドアへ向かう。


(ま、待たせちゃダメ……!)


ガチャッ。

ドアを開けた瞬間、

空気が、ふたりの間だけ時間が止まったように静まった。

雪村は少し驚いた表情のまま、氷雨を見つめていた。

目線は動かない。

まるで一瞬で言葉を失ったように。

氷雨は不安になり、小さな声でつぶやく。


「……変、ですか……?」


その声でようやく雪村の意識が戻ったように瞬き、ゆっくり首を振った。


「……ううん。」


声がかすかに震えていた。


「全然変じゃない。

むしろ……その、ちょっとごめん……」


氷雨はきょとんと雪村を見る。

雪村は耳まで赤くして視線を逸らすように手で口元を覆いながら、小さく息を吐いた。


「……可愛すぎて……脳の処理が追いつかない。」


静かな声なのに、必死さが伝わる言い方だった。

氷雨は目を丸くする。


(……雪村先生って……

こんなふうに照れるんだ……。)


胸がじわりと温かくなっていく。

雪村はまだ少し照れたまま氷雨へと視線を戻し、ゆっくり近づいた。


「本当に綺麗だよ、氷雨さん。」


そう言って、コートの肩の位置を優しく整えてくれる。

触れる手は丁寧で、でも少し名残惜しいように指先が止まる。

氷雨はうつむきながら、小さな声で返した。


「……ありがとう、ございます。」


雪村は柔らかく笑い、そっと手を差し出す。


「行こっか。

——僕たちの、初めてのデート。」


氷雨は一瞬迷ったように雪村の手を見つめる。

そして、ゆっくり、指を絡めた。

手を繋いだ瞬間——

氷雨の鼓動が自分でも驚くほど跳ねた。

雪村の手は温かくて、包み込むようで、安心できた。


「大丈夫?」


雪村は氷雨の歩幅に合わせながら笑う。

氷雨は小さく頷いて、ぽつりと答えた。


「……はい。

雪村先生となら、大丈夫です。」


その言葉に、雪村の表情がほんの少し柔らかく崩れる。


「……嬉しいな。」


そして、ふたりはゆっくり歩き出した。

まだぎこちない恋人同士の距離で。

でも、その距離が確かに縮まっていると感じながら。



---



水族館の中は、外の世界とは全く違う空気が流れていた。

薄暗くて、静かで、青い光がゆらゆら漂っている。

ガラス越しに見える魚たちが、ゆっくりと水の中を泳いでいた。

氷雨は入った瞬間、まるで息を飲むように足を止めた。


「……わぁ……」


その小さな声に、雪村の胸が優しく揺れる。

普段、氷雨はほとんど感情を表に出さない。

笑うことも、驚くことも、戸惑うことすら、抑えてしまう。

だから今の氷雨の声は、雪村にとって特別だった。


「水族館、来るの初めて?」


雪村が隣で尋ねると、氷雨はこくんと頷いた。


「……はい。一緒に行く人がいなかったので……でも実は、ずっと行ってみたかったんです。」


その瞳には、無垢な驚きと少しの子どもっぽい好奇心が混ざっていた。

歩きながら、氷雨は何度も立ち止まって水槽を眺める。

雪村は急かさない。

むしろ、その姿を眺めていることが心地よかった。

——氷雨が楽しんでいる。

それだけで、十分だった。

やがて、ふたりは大きなクラゲのドームの前に立つ。

ゆらゆらと漂う淡い光。

透き通った身体。

幻想的な空間。

氷雨はガラスにそっと手を添えて、小さな声で呟いた。


「……きれい。」


その声は、祈るように優しかった。

雪村は横目で氷雨を見つめる。

柔らかい表情、少し上向きの視線——心の鎧が外れている。

氷雨は、クラゲから目を離さないままぽつりと言った。


「こんなふうに……たくさんの仲間と一緒にいられたら……

寂しくないんでしょうね。」


それはクラゲに向けた言葉。

でも、もっと深い意味が透けていた。

孤独だった日々。

閉じ込められた心。

自分だけ世界から切り離されたような感覚。

雪村はゆっくり息を吸い、穏やかに口を開いた。


「……そう思う時もあるかもしれないけどね。」


氷雨が少しだけ顔を向ける。

雪村は氷雨の目をまっすぐ見て、続けた。


「でも――“たくさん”じゃなくていいんだよ。

誰よりも理解してくれるたったひとりがそばにいれば。

それだけで、寂しさなんて消えてしまう。」


それはまるで、クラゲではなく、氷雨ではなく、ふたりを見て言っている言葉だった。

氷雨の胸が強く鳴る。


(……ひとりでいい……?

その“ひとり”が……雪村先生なら……。)


言葉にはできなかったけれど、氷雨の指がすこしだけ震えていた。

その瞬間——館内にアナウンスが響く。


『まもなくイルカショーが始まります。観覧席へお越しください。』


雪村は氷雨の横で小さく笑った。


「氷雨さん。」


と呼んで、自然に手を差し出す。


「行こっか。」


その言い方があまりにも優しくて、氷雨は少し頬を染めながらゆっくりその手を握った。

指先が触れた瞬間、胸があたたかくなる。

氷雨は小さな声で返す。


「……はい。」


雪村は握った手をそっと引いて歩き出す。

氷雨はその背中を見つめながら、静かに微笑んだ。


——世界は怖い。

でも、隣に雪村先生がいるなら。


氷雨の足取りは、今までより少しだけ軽くなっていた。



---



――水族館を出て、夜風がひんやりと肌に触れる。

街灯のオレンジ色が、2人の影を長く伸ばしていた。

氷雨は歩きながら、繋いだ手に意識が全部持っていかれているようで、いまだにぎこちない。

でも、離れようとはしなかった。

雪村はそんな氷雨を見ながら、イルカではなくずっと彼女の表情ばかり追ってしまった自分に苦笑していた。


「……楽しかった?」


その問いに、氷雨は少し驚いたあと、ふわっと笑う。

笑う癖は控えめで、けれど柔らかい。


「……はい。すごく。

こんなに楽しいって、初めてでした。」


そう言う声は、本当に嬉しそうで。

雪村の胸の奥がじんわり熱くなる。

氷雨は少し俯き、言葉を選ぶように続けた。


「……雪村先生は、色んな“初めて”をくれますね。」


その声音は、照れて、でも嬉しさが隠しきれなくて。

雪村は自然と手を強く握り返していた。

――そして。

氷雨は、何か決心したように深く息を吸った。


「……雪村先生。」

「うん?」

「私……ずっと……もやもやしていることがあって。」


その瞳が揺れている。

怯えているようで、でも逃げていない。

雪村はその姿だけで愛おしくなり、

声のトーンを落として優しく促した。


「話して。大丈夫。氷雨さんの言葉なら、全部聞くよ。」


氷雨はぎゅっと繋いだ手を握りしめたまま、

絞り出すように言った。


「……この前……雪村先生が……美咲ちゃんに、何か写真を……見せてましたよね。」


雪村の表情がぴくりと動く。

氷雨は、勇気を振り絞るように続ける。


「……あれって。

雪村先生が……調べたんですか? 美咲ちゃんのこと。」


夜の空気が止まったようだった。

雪村はしばらく黙り、氷雨を見る。

誤魔化しでも怒りでもなく――驚き。

そして、氷雨はさらに続ける。


「雪村先生、私に……その、一目惚れした時……私のこと調べたんですよね。

……それを、美咲ちゃんにも……したんですか?」


声が震えている。

でも、消え入りそうなほど弱くはなく、

まっすぐ雪村を見ていた。

雪村は、ふっ……と息を吐き、目元を下げた。

その表情は驚きではなく――どこか嬉しそうで。

そして、わざとゆっくり問い返す。


「――氷雨さん。

もしかして……嫉妬、してくれてるの?」


その言葉に、氷雨の顔が一瞬で真っ赤になった。

耳まで、首まで。

まるで湯気が見えそうなくらい。


「……っ、ち……違……ッ」


否定しようとした声も震えていて、説得力ゼロだった。

雪村は一歩、氷雨に近づく。

手はまだ繋いだまま、親指でそっと氷雨の手の甲をなぞりながら、

低く、優しい声で囁く。


「そんな顔で否定したら、余計可愛いよ。」


氷雨は言葉を失って固まる。

雪村の瞳は、ゆっくり氷雨を捕らえたまま離さない。


「嬉しいよ。氷雨さんが……僕だけを見て、僕だけを考えて、僕だけに嫉妬してくれるなんて。」


氷雨の心臓が跳ねる。

息が苦しくなるほど胸がぎゅっと締めつけられる。

雪村はそっと氷雨の頬に触れる。

その手つきは驚くほど優しく、

まるで壊れ物に触れるみたいだった。


「……ごめんね。」


静かで、落ち着いた声。

でも、その奥には必死な熱が滲んでいる。


「嫌な気持ちにさせちゃって。

でも、信じてほしい。僕は――」


氷雨の瞳をまっすぐ見つめながら続ける。


「ずっと、氷雨さんのことしか考えてないよ。」


次の瞬間、氷雨は息をのみ――

雪村の唇がそっと重なった。

それは激しいものじゃなく、触れるだけの、確かめるようなキス。

でも、それだけで氷雨の心臓は痛いほど跳ねた。

唇が離れると、氷雨の顔は真っ赤になっていて、声は震えているのに、どこか嬉しそうだった。


「……ゆ、雪村先生……」

「ん?」


氷雨は勇気を振り絞るみたいに目を逸らし、そのまま、小さく呟いた。


「……大好き、です。」


雪村の瞳が大きく開く。

さっきまで落ち着いた大人の表情だったのに、今はまるで不意打ちを食らった子どものよう。


「……氷雨さん」


数秒の沈黙。

そして――雪村は真顔のまま言った。


「今の、もう一回言って?録音したい。」

「――っ!?む、無理です!恥ずかしいので嫌です!」


氷雨はブンブン首を振る。

その反応がまた可愛い。


「お願い……」


今度は完全に甘ったれる声。

年下みたいな、拗ねたみたいなトーン。

氷雨は呆気にとられ、ぽつりと漏らす。


「……雪村先生、なんか子どもみたい。」


その言葉に雪村は少しむっとした顔をする――が、

氷雨のくすりと漏れた笑い声を聞いた瞬間、その表情は一瞬で緩んだ。

楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに――

まるで世界を手に入れたみたいな表情で。

氷雨はその顔を見て、改めて理解した。


――もう、自分は雪村から離れられない。


そしてそれが怖いどころか、

むしろ安心で、心地よかった。

ふたりの影は、寄り添うようにひとつになりながら――

夜道をゆっくり歩き続けた。

まるで、世界には自分たちしか存在しないみたいに。

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