壊れゆく境界線
雪村と付き合い始めてから、大学で過ごす時間は氷雨にとって未知の体験の連続だった。
以前は、人と目を合わせることすら避けて生きてきた。
それが今は——
大学一の人気教師と恋人関係にある。
それだけで、世界はまるで色を変えたようだった。
---
その日の二限が終わったあと、廊下には学生たちの声が響いていた。
氷雨は教室前の掲示板の前で立ち止まり、手元のスケジュールを確認していた。
ふと、少し離れた場所から騒がしい声が聞こえた。
「雪村先生〜!この前の授業の質問なんですけど〜!」
「先生!こっち向いてください!」
「今度レポート見てもらえませんか?」
その声の方へ自然と視線が吸い寄せられた。
そこには、女学生たちに囲まれている雪村律の姿。
笑顔。
優しい声。
どこか余裕のある大人の表情。
そして、氷雨は胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。
(……やっぱり、先生は……人気なんだ)
わかっていたこと。
頭では理解している。
でも——胸はうまく納得してくれない。
氷雨は手にしていたスケジュール帳をぎゅっと抱きしめる癖が出ていた。
その瞬間。
雪村が氷雨の存在に気づいた。
ほんの短い視線の交差。それだけで空気が変わった。
雪村の笑顔が、すっと静かなものに変わる。
「——ごめんね。続きは授業後に。」
淡々と、しかし迷いのない声で女子たちに区切りをつけると、雪村はその場から離れ、一直線に氷雨の元へ歩いてきた。
その歩幅は早すぎず遅すぎず、しかし迷いが一切ない。
「……氷雨さん」
名前を呼ぶ声は、彼が他人に向ける柔らかい声とは違った。
深くて、甘くて、所有を含んだ声。
氷雨は胸がドキリと跳ねる。
「先生……」
「待たせた?」
「い、いえ……そんな……」
雪村は氷雨の耳元に顔を寄せ、小さく、けれど確かに囁いた。
「——氷雨さん以外と話しても、つまらないよ。」
その一言で、氷雨の心臓は爆発しそうなほどに熱くなる。
表情に出ないよう必死なのを、耳まで赤く染まっているのを雪村は見逃さなかった。
「かわいい」
さらりと言う。
(……ずるい……ほんとに)
胸の奥で小さく嫉妬が深呼吸して消えていく。
雪村は氷雨の手をさりげなく取ろうとしたが、廊下の視線に気づき、
代わりに氷雨の袖をそっと指先でつまんだ。
ふたりだけが知る距離感。
氷雨はその小さな接触だけで、心の奥まで満たされていくのを感じていた。
しかし——
背後から、刺すような視線。
先ほど雪村を囲んでいた女子学生たちが、信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。
嫉妬、好奇心、敵意。
その視線に気づいた氷雨の身体が小さく硬くなる。
雪村はそれを感じ取ったのか、ほんの僅かに氷雨の袖を引き、囁くように言った。
「——大丈夫。僕がいる。」
その声は落ち着いていて静かなのに、どこか所有欲の色が滲んでいた。
氷雨の胸の奥に、甘くて、少し苦い幸福が広がる。
(……そうだ。私はもう、一人じゃない)
そう思った瞬間、周囲の視線なんてどうでもよくなった。
ふたりだけの世界が、確かに存在していた。
一方、廊下に残された女子学生たちの中で、ひとりだけ表情を変えなかった子がいた。
——図書館で、氷雨に冷たい視線を向けたあの女子学生。
彼女は雪村と氷雨の距離が自然すぎたことにすぐ気づいた。
「……またあの子?」
その声は小さく、それでいて棘があった。
嫉妬と警戒が混ざった目で、氷雨が歩き去る背中をじっと睨み続けた。
---
研究室に着くと、氷雨は緊張のせいか落ち着きなく視線を彷徨わせていた。
ここに来るのは何度目かのはずなのに——
立場が変わるだけで世界は別物になる。
雪村はそんな氷雨の異変に気づいて、静かに笑みを浮かべる。
そしてソファの隣に座り、そっと氷雨の手を握った。
「そんなに緊張しないで?
僕たち、もう恋人同士なんだから」
その言葉に、氷雨の心臓が跳ねる。
「……はい……」
声は小さく、表情は真っ赤。
その反応があまりにも可愛くて、雪村の指が氷雨の手の甲をゆっくり撫でた。
その仕草だけで、氷雨の胸は甘い熱で満たされていく。
指先が触れ合う。
肩が寄り添う。
呼吸が重なり、
どこか夢のような静かな時間が流れる。
世界には二人しかいない。
そんな錯覚すら生まれるほど穏やかで甘い空気——
――だったのに。
コン、コン。
突然、研究室のドアがノックされた。
「……っ!」
氷雨は肩をびくりと跳ねさせ、持っていたコーヒーカップを落としそうになる。
雪村は小さく息を吐き、氷雨の耳元に囁いた。
「……ごめんね。
少しだけ隠れてて?」
声は優しいのに、裏に確かな警戒があった。
氷雨は頷き、小さく身を縮めながら、研究室奥——ベッド横の棚の影へと身を潜めた。
心臓がうるさいほど鳴っている。
隠れた直後、ドア越しに声が届いた。
「雪村先生〜!あのぉ、今ちょっといいですかぁ?」
聞き覚えのある声だった。
(……え……)
氷雨の目がわずかに見開く。
雪村は穏やかな声色へと一瞬で戻した。
「はい、今開けるね」
その声は、恋人に向ける甘い声ではなく——
“誰にでも優しい大学の先生”の声。
カチャ、と鍵が開く音。
ドアが開く。
氷雨は影からほんの少しだけ顔を覗かせた。
やっぱり——あの女子学生だった。
彼女は無邪気な笑みを浮かべながらも、その目は研究室の内側を鋭く観察していた。
(……やっぱりこの子……雪村先生のこと……)
胸の奥が、じわりと重く苦しくなる。
女子学生は嬉しそうに話し始める。
「先生、この前のレポートのことで質問があって……
あ、今日のネクタイすごく似合ってますね!」
雪村は微笑んだが、どこか機械的だった。
(……早く終われ)
その空気を感じ取った氷雨は、手をギュッと握りしめる癖が出た。
女子学生の声は続く。
「それで……今日、このあとお時間って——」
そこで女子学生の言葉が止まった。
理由は、雪村の表情。
一瞬だけ。
一瞬だけだが——
冷たい。氷のように。
「……その質問なら、メールで送ってくれたら確認するよ。
今日はもう時間がなくてね」
「え……あ、あぁ!……はい……」
女子学生の笑顔が崩れる。
雪村は穏やかな微笑を残したまま、静かに言った。
「また授業の時にね」
扉が閉まる。
研究室にはふたたび静寂が戻った。
その瞬間、雪村の表情が一変する。
柔らかい笑顔が消え、代わりに氷雨に向けられる甘く深い視線だけが残った。
「……氷雨さん、もう出てきていいよ」
声の温度が違う。
独占欲と安心と甘さが全部溶け合った声。
氷雨はゆっくりと姿を現しながら、胸を押さえた。
(……雪村先生……私……)
自分が嫉妬したことも、
隠されたことも、
先生が迷いなく自分を優先したことも——
全部、嬉しかった。
そして気づく。
自分ももう普通じゃない。
---
研究室のドアが閉まる音が、廊下に薄く響いた。
女子学生——美咲は、その場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと握った拳の爪が自分の掌に食い込む感覚を確かめていた。
(……やっぱり。いた。)
あのとき。
扉が開いた瞬間。
雪村の視線の先ではない。
雪村の声色でもない。
部屋の空気そのものが違っていた。
雪村の研究室の空気ではなかった。
初めて見た、静かだけど熱を孕んだ空間。
そして——
棚の影、わずかに布が揺れた。
普通なら見逃す程度の違和感。
でも美咲は見逃さなかった。
(前にも見た。あの子。)
図書館で、雪村と会話していたあの子。
地味で、存在感が薄くて、どこにでもいるような女。
けれど、雪村が声をかけていた。
優しい笑みで。
——いや。
優しい笑みにしか見えなかった。
そのときは。
今日、ようやく気づいた。
雪村が浮かべる笑顔には種類があることを。
講義中の笑顔。
質問対応しているときの笑顔。
学生にでも社会人にでも通る、距離感のある微笑。
そして——
図書館で見せたあの笑顔。
愛しい人に向ける笑顔。
美咲の胸に重く沈むものがあった。
(なんで……なんであんな子なの?)
自分は違う。
恋愛感情なんてじゃなく、ちゃんと考えてきた。
雪村は落ち着いていて、知的で、優しくて——
未来を考えられる相手だと、思っていた。
でも。
選ばれたのは、自分じゃない。
あんな、気配すら薄い子。
美咲の喉が熱くなる。
「……意味わかんない」
声に出した瞬間、胸の奥がじりじりと燃えた。
雪村があの子を見つめたときの目。
そこには、学生に向ける視線ではなかった。
(恋人……いや……もっと。
依存……執着……そういうもの。)
普通じゃなかった。
でも、それならなおさら。
「……なら、奪える。」
呟いた声に、迷いはなかった。
雪村は優しい。
断れない。
距離を詰められると弱いタイプ。
そして——氷雨は。
あの子は、弱い。
自分の言葉ひとつで崩れそうな、儚い存在。
(壊すのは簡単。)
美咲の唇がゆっくりと笑みに変わった。
「雪村先生は、私のものになる。
あの子なんて、すぐに手放される。」
ヒールの音を響かせ、廊下を歩き出す。
すでに計画は頭の中に組み上がっていた。
簡単なこと。
あの子から信頼を奪い、雪村を不安定にさせればいい。
愛は強いが——
不安はもっと強い。
そして人間は、孤独に弱い。
喉の奥から甘く冷たい声が零れた。
「——すぐに終わらせてあげる。」
---
翌日。
昼休みの中庭は春の風が柔らかくて、学生たちの話し声が心地よく混ざっていた。
氷雨は人の少ないベンチに座り、膝の上で本を胸元に抱きながらページをめくっていた。
ほんの少し緩んだ口元は、最近の彼女の変化を物語っていた。
——恋人ができた人間の表情だった。
そんな氷雨の横へ、影が落ちた。
「ねぇ。」
氷雨が顔を上げると、そこに立っていたのは——あの女子学生だった。
氷雨の空気が一瞬で強張る。
しかし彼女は柔らかく笑い、距離を取りながら隣に座った。
「びっくりした?ごめんね。
氷雨ちゃん、だよね?」
名前で呼ばれ、氷雨は小さく息を呑んだ。
「……は、い……」
女子学生は優しく頷き、まるで昔からの知り合いのような口調で話す。
「この前、図書館で会ったよね?
話したかったんだけど……怖がられちゃったかなって」
「えっと、こ、怖くない、です……」
慌てて否定する氷雨の顔がほんのり赤くなると、彼女は満足げに微笑んだ。
「ホントに?よかった……!
氷雨ちゃんって、可愛いね。
……すごく守ってあげたくなるタイプ。」
(——守る?)
氷雨は意味が掴めず瞬きをしたが、女子学生は続けた。
「ね、もしよかったら……私たち、友達になれない?」
その言葉は氷雨の胸の奥に刺さった。
友達。
ずっと欲しくて、でも長い間避けてきた響き。
氷雨はそっと本を抱きしめながら、小さな声で答えた。
「……い、いいんですか……?私なんかと……」
「もちろん。
だって氷雨ちゃん、可愛いんだもん」
氷雨は初めて、ほんの少しだけ笑った。
「……じゃあ……お願いします」
「うん。よろしくね、氷雨ちゃん」
---
それから数日。
女子学生は自然に氷雨のそばに現れるようになった。
話しかけてくれる。
笑ってくれる。
お菓子をくれる。
氷雨は、初めて「誰かに必要とされている感覚」を知った。
だから——笑顔が増えた。
だが、その様子を、雪村は遠くから静かに見ていた。
校舎の影から。
廊下の角から。
ガラス越しから。
静かに立ち、無表情のまま。
(……邪魔だ。あの女子学生。)
視線は冷たい。
だが怒りではない。
もっと静かで、もっと深い感情。
排除対象を観察する獣の目。
氷雨は嬉しそうに話している。
無防備に笑っている。
(氷雨さん……どうしてそんな簡単に、他人に心を開くの。
前まではそんなんじゃなかったのに。)
胸の底でじりじりとした熱が広がる。
氷雨の隣に座る女子学生を見るたび、雪村の中の何かがゆっくり、確実に磨り減っていく。
(……あの女子学生。
近づく理由はひとつ。)
俺に近づくためだ。
そしてもうひとつ。
氷雨さんを利用するためだ。
雪村は目を細めた。
(いいよ。好きなだけ近づけばいい。
氷雨さんと仲良くする振りをして、信頼を得ればいい。)
そして——
(奪えると思った瞬間、地獄を見せてあげる。)
氷雨がふと笑った。
その笑顔は柔らかくて、愛しくて、その隣に座る女子学生が邪魔に見えて仕方がなかった。
雪村はポケットの中で、氷雨の写真フォルダをそっと開く。
画面には——氷雨の微笑みが並んでいた。
膨れ上がる独占欲を押し込めながら、雪村は小さく呟いた。
「……氷雨さん。」
声は甘く、深く、溺れるようで——
だがその裏には確かな決意があった。
(大丈夫。全部僕が守る。
君の心も、世界も、未来も——選択肢すら。)
雪村の目が静かに笑った。
氷雨には自分だけでいい。
他はいらない。
そう確信しながら、
雪村は影からふたりを見続けた。
---
数日後。
昼過ぎのキャンパスは穏やかで、風がゆっくり木々を揺らしていた。
講義棟横の小さなベンチ。
そこに並んで座った氷雨と美咲は、コンビニのスイーツを開けていた。
「氷雨ちゃん、これ食べてみて。めっちゃ美味しいんだよ。」
美咲が差し出したプリンを、氷雨は恐る恐る受け取る。
「……え、あの……いいんですか?」
「いいのいいの!友達におすすめ共有するの、当たり前でしょ?」
(……友達……。)
その響きに胸がじんわり温かくなる。
氷雨は小さくスプーンですくい、そっと口に運んだ。
――ぷるん。
口の中に優しい甘さが広がる。
「……美味しい……」
思わず零れた声に、美咲は嬉しそうに目を細めた。
「でしょ?氷雨ちゃん、甘いのあんま食べないイメージだけど……なんか似合うなぁって思って。」
「に、似合う……?」
氷雨は言葉の意味を理解するまで数秒かかった。
甘いものと自分が結びつくことなんて、今まで一度も無かった。
(……こんなふうに言ってくれる人……初めてだ。)
俯いたまま、氷雨はそっと手元のプリンを見つめた。
しばらく話をして、笑って、また食べて。
たわいない時間が、氷雨には眩しかった。
気づけば太陽が傾き、芝生には長い影が落ち始めていた。
ふと、美咲がこちらを向く。
「ね、氷雨ちゃん。」
「……はい?」
美咲は少しだけ言うのを迷うように視線を落としたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「……私ね、氷雨ちゃんと話してると落ち着くんだ。
最初は無口な子かなって思ったけど……実はすごく優しい。」
氷雨の目が丸くなる。
誰かにそう言われたことなんて、なかった。
胸がぎゅっと熱くなって、声が震える。
「……私……」
言葉が喉で詰まり、ゆっくりと外へ出る。
「美咲ちゃんは……私の……
……初めての、友達……です。」
自分で言った瞬間、頬があっという間に赤く染まる。
美咲は驚いたあと、ゆっくりと、柔らかく笑った。
その微笑みは春みたいに優しくて、涙が出るほど温かかった。
「ほんとに?……ふふっ。
嬉しい……氷雨ちゃん、友達になってくれてありがとう。」
美咲はそっと氷雨の手を握る。
ぎゅ、と。
(……あたたかい。)
氷雨は小さく微笑んだ。
「こちらこそ……ありがとう……美咲ちゃん。」
夕日がふたりを包む。
氷雨の世界に、初めて「自分以外の人」が入ってきた瞬間だった。
胸の奥が、じんわりと温かい。
こんな感覚、いつぶりだろう。
いや――そんなもの、知らなかったのかもしれない。
そんな柔らかい空気の中、美咲がふと視線を落とし、小さな声で言った。
「……ねぇ、友達としてひとつだけ、聞いてもいいかな?」
氷雨はびくっと肩を揺らす。
「……な、なんでしょう……?」
返事は震えていた。
質問の内容を聞く前から、胸の奥がざわついている。
美咲は一拍置いて、ストレートに切り込んだ。
「氷雨ちゃんってさ……
もしかして、雪村先生と付き合ってたりする?」
空気が止まった。
鳥の声も、風の音も、世界が遠のくみたいに。
氷雨は瞬きを忘れ、言葉を探す。
否定した方がいいのか。
肯定するべきなのか。
何が正解なのか分からず、口が開いては閉じる。
そんな氷雨の様子に、美咲は柔らかく笑った。
「いいの。
氷雨ちゃん、優しいから気を使ってくれてるんでしょ?」
氷雨は息を呑む。
美咲は続けた。
「でも、もう隠さなくていいよ。」
その声音は、優しいのにどこか鋭い。
「氷雨ちゃんも分かってると思うけど……
私も、雪村先生のことが好きだったの。」
氷雨は反射的に視線を落とす。
胸がじくりと痛む。
美咲は空を見上げ、小さく息を吐いた。
「だからね、雪村先生と仲良くしてる氷雨ちゃんを見た時……最初は嫉妬した。」
淡々と語る声。
でも感情は確かにあった。
「でもね……
雪村先生を振り向かせた子ってどんな子なんだろう?って思って。
最初はね、興味本位で声をかけたの。」
氷雨の胸がきゅっとなる。
(……そう、だったんだ……)
美咲は氷雨の横顔を覗き込むように微笑んだ。
「でも、こうして氷雨ちゃんと話してみて、納得した。」
氷雨の肩がぴくりと揺れる。
「こんなに可愛くて、繊細で……
優しい子なら、そりゃ先生も落ちるよ。」
ゆっくり、ゆっくり、言葉を噛みしめるように続けた。
「私じゃ敵わないなぁって。」
「そ、そんな……!私、別に……!」
氷雨は慌てて首を振る。
否定したいのか、受け止めたいのか、自分でもわからない。
美咲はそんな氷雨を見て、くすっと優しく笑った。
「いいの。
私、もう雪村先生のことは完全に諦めたから。」
氷雨の目が驚きに見開かれる。
「むしろね……
今は氷雨ちゃんの恋を、全力で応援したいの。」
美咲は手を伸ばし、そっと氷雨の手を握る。
「友達として。」
その言葉に、氷雨は胸がいっぱいになってしまった。
「……美咲ちゃん……ありがとう……」
そう言った声は震えていて、目には涙がにじんでいた。
美咲は慌てたように笑いながら肩を軽く叩く。
「ちょ、泣かないでってば!
友達なんだから当然なんだよ?」
ふたりは顔を見合わせ、ふふっと笑った。
穏やかで、温かくて、幸せな時間。
――しかし。
その光景を、少し離れた建物の影から見つめる視線が再びあった。
無表情。
だが、瞳の奥では何かが静かに燃えている。
雪村は、動くことなく、ただ見つめていた。
氷雨の笑顔。
その笑顔を作った“他人”。
胸の奥で、何かが鈍く軋む。
――氷雨の世界に入っていい人間は、
本来、たったひとりだけのはずなのに。
雪村の視線は、美咲へと静かに移った。
そして、声にならない独り言が沈むように落ちた。
「……邪魔だ。」
---
その日、研究室のソファに座る氷雨は、どこか落ち着きなく、それでも嬉しさを隠しきれない表情をしていた。
雪村はそんな彼女を見て、目元を細める。
「氷雨さん、なんだか最近ご機嫌だね。」
指摘されて、氷雨はびくっとして頬を赤く染める。
「あ……えっと……その……
実は……お友達ができたんです……。
人生で、初めての……」
もじもじと膝の上で指を絡めながら言う姿に、雪村の胸に温度が広がる。
(……可愛い。)
表に出すのは、驚いた演技だけ。
「え、本当に?すごいじゃない。」
氷雨はぱっと顔を明るくし、小さく息を吸うと、
「美咲ちゃんって言うんですけど……」
と、嬉しそうに話し始めた。
好きな飲み物の話。
授業帰りに少しだけ一緒に歩いたこと。
笑ったタイミングが同じで驚いたこと。
それは決して大げさな出来事ではないのに――
氷雨の声はずっと弾んでいた。
雪村は微笑んだまま聞き続ける。
「氷雨さんの笑顔が見れて、僕も嬉しいよ。
その子、氷雨さんのことを大切にしてくれてるんだね。」
その言葉に、氷雨はこくりと照れたように頷いた。
―――その瞬間。
コンコン。
ドアを叩く音が、空気を断ち切った。
氷雨が肩を跳ねさせる。
雪村は一瞬だけ眉を寄せると、柔らかい声で言った。
「氷雨さん、ごめんね。
また少しだけ隠れててもらえる?」
氷雨は慣れた動作で、研究室奥の棚とベッドの影へ滑り込む。
雪村はドアへ歩き、指先だけでノブを回す。
「今開けます。」
ゆっくりと扉が開いた。
そこに立っていたのは――美咲だった。
氷雨の喉が、思わず鳴る。
美咲は静かに部屋へ入り、以前見せた笑顔とは違う、真剣で張り詰めた表情をしていた。
雪村は穏やかに、いつもの“先生の声”で尋ねる。
「……今日はどうしたの?」
その瞬間――美咲が雪村に抱きついた。
氷雨の心臓が止まりそうになる。
雪村は反応しない。
腕も動かさない。
抱き返さない。
ただ、微動だにせず立っていた。
美咲は雪村の胸に顔を埋めたまま、震える声で言う。
「……雪村先生。好きです。」
氷雨は息を止める。
美咲の声は続く。
「雪村先生……氷雨ちゃんと付き合ってるんですよね?
……私、知ってます。」
沈黙。
美咲の声は次第に冷たくなる。
「……なんであんな子なんですか?」
氷雨の指先が揺れる。
心臓が嫌な音を立てる。
続けざまに、美咲は言葉を投げつけた。
「地味で、暗くて、表情なくて……何考えてるか分からなくて。
不気味じゃないですか?
雪村先生と釣り合わないですよ。
あんな子よりも……私を選んでください。」
ひとつ、息を吐き出す音。
それが――雪村の拒絶の合図だった。
彼はゆっくり、美咲の腕を振りほどく。
淡々とした声で言う。
「……こんなことしている子とは、僕は付き合えないかな。」
そう言って、スマホの画面を美咲へ向けた。
写っているのは――夜の街でスーツ姿の男に腕を絡める美咲。
美咲の顔から血の気が引く。
「な、なんで……これ……」
雪村の声は優しいようで、氷のように冷たい。
「これ以上、僕と氷雨さんに近づくなら……この写真、学校に提出しようかと思ってるけど。
それでもいい?」
美咲は震えながら一歩後ろへ下がる。
「せ、先生が……学生に脅し……?」
雪村はふっと笑った。
その笑顔は――優しさの仮面を脱ぎ捨てた、闇。
「うん。そうだよ。」
美咲は恐怖に目を見開き、悟る。
この人は、普通じゃない。
「……す、すみません……もう二度と近づきません。
だから……そのことは誰にも言わないでください……」
雪村は満足げに頷く。
「うん。その判断は賢い。ありがとう。」
美咲が逃げるようにドアへ向かう。
しかし――雪村が呼び止めた。
「あぁ、最後にひとつ。」
美咲は怯えた目で振り返る。
雪村は微笑む。
その笑顔は、美咲ではなく――隠れている氷雨に向けられたものだった。
「僕はね、氷雨さんに“釣り合うかどうか”なんて考えてない。
僕には、氷雨さん以外見えてないんだ。
だから――勘違い、しないで。」
美咲は震えながら深く頭を下げ、研究室を出ていった。
扉が閉まる音が響く。
室内に残った静けさは、甘さでも安心でもなく――
独占と執着が混ざった、湿度の高い空気。
雪村はゆっくりと、隠れている氷雨へ向かう。
そして小さく囁いた。
「……出ておいで、氷雨さん。」
その声は優しいのに――逃げられない鎖のように甘く絡みついた。
扉が閉じてから十秒ほど、氷雨は動けなかった。
息の仕方すら忘れたように微かに震え、拳を握りしめ、伏せた視線のまま。
そして――
ぽたり。
涙が、床に落ちた。
それをきっかけに堰が切れたように、氷雨はしゃくり上げながら泣き出す。
「……っ、なんで……っ……
私なんか……友達なんて、できるわけ、ないのに……」
掠れた声は、過去の自分を責めるようで。
「信じて……勝手に嬉しくなって……
一人で、舞い上がって……
……バカみたい……。」
涙は止まらず、頬を伝って落ち続けた。
雪村はゆっくりと、氷雨に歩み寄る。
逃げる隙も、選択肢も与えない距離まで。
そして、そっと腕を回し――氷雨を抱きしめた。
温かく、でも逃げられないように、しっかりと。
氷雨の体がびくっと震える。
雪村は耳元で低く囁いた。
「……そんなこと、ないよ。」
氷雨は苦しそうに声を震わせる。
「……でも……っ、私は……嫌われて、当たり前で……いらない存在で……」
その言葉を遮るように、雪村は氷雨の背をゆっくり撫でた。
優しいのに、支配するような仕草。
「違う。」
たった一言が、重かった。
氷雨の呼吸が止まる。
雪村は続ける。
「氷雨さんは、誰よりも綺麗で、優しくて……誰かに傷つけられていいような存在じゃない。」
氷雨は顔を埋めたまま、涙を止められない。
そんな彼女に、雪村はさらに深く言葉を落とす。
「ねぇ、氷雨さん。」
耳元に触れるほどの距離。
「世界中の誰かじゃなくていい。
君は――僕だけ信じてればいい。」
氷雨の手が、ぎゅっと雪村のシャツを掴む。
苦しそうなのに、縋るように。
雪村の声は甘く、静かで、それなのに逃がさない。
「友達なんて、無理して作らなくていい。
理解されなくていい。
……僕が全部わかってる。」
氷雨の呼吸が乱れながら、ぽつりと零れる。
「……雪村先生……
私……こわい……」
その涙の意味が、悲しみか、依存か、もう分からなかった。
雪村は微笑む。
氷雨が見えなくていい表情で。
柔らかく、それでいて狂気じみた確信の声。
「大丈夫。
氷雨さんは一人じゃない。」
氷雨の肩にそっと額を寄せながら、囁く。
「僕がいる。
僕だけが、氷雨さんの味方だよ。」
その瞬間――
氷雨は静かに息を吐き、崩れるように雪村の胸に体重を預けた。
拒絶も疑いも、すべて手放すように。
涙を落としながら、小さく震える声で告げる。
「……私、もう、雪村先生以外……信じられません……」
雪村の目が細くゆっくりと笑う。
それは、目的を達成した者だけが浮かべる表情だった。
「……いい子だよ、氷雨さん。」
そう言って、彼は氷雨をさらに強く抱き寄せた。
まるで、逃げられないことを確認するように。




