好きの答え合わせ
一目惚れ、だった。
雪村律の三十数年の人生で、そんな言葉が自分に当てはまる日が来るなど思っていなかった。
淡々とした日々だった。
職員会議、講義準備、レポート採点。
学生に笑顔で応えることも、もう「仕事の一環」として染みついていた。
喜びも、驚きも、もう胸に湧くことは少なかった。
生活は整っていたが、心は水に沈めた石のように静かだ。
そんな日常を破ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。
図書館の奥にある小さな読書スペース。
誰も寄りつかないその場所に、ぽつんと座る少女がいた。
雪村はただ本を借りに来ただけだった。
その“はず”だったのだ。
彼女は、雪が降る前の雲のように静かで、触れたら壊れてしまうような儚さを纏っていた。
本を閉じるとき、胸元でぎゅっと抱きしめる癖。
ページをめくる前に、ほんの一秒、目を閉じて息を整える癖。
誰にも邪魔されたくないと願っているのに、誰かに救われたいと願っているような後ろ姿。
——その全部が、一瞬で心を掴んだ。
(……なんだ、この感覚は)
自分でも驚くほどだった。
名前も知らない。
声も聞いたことがない。
表情だって、本に隠れてほとんど見えない。
それなのに、なぜか目が離せなかった。
彼女の指先の細さ、ページをめくる時の慎重な動き、まるで本に救われようとしているような、静かな必死さ。
その全てが、雪村の胸の奥の「何か」を揺らし続けた。
(……気になる)
初めてそう思った日の帰り道、雪村は自分の胸が熱いことに気付いた。
理由なんて分からない。
ただ、もうあの読書スペースを通りすぎることはできなかった。
そして、数日観察して、ようやく知れた一つの事実。
本の貸出票に書かれた名前。
——氷雨 静。
その名を初めて目にした時、雪村の心はひどく強く、静かに鳴り響いた。
(……氷雨さん)
名前を知った瞬間、まるで彼女をずっと知っていたかのような錯覚に陥った。
本を閉じるとき胸に抱く仕草。
ひどく小さな溜め息。
時折、雨雲のように曇る表情。
すべての理由を知りたくなった。
彼女の孤独も、
彼女の痛みも、
彼女が何を好きで、何を怖がるのかも。
ただ——
彼女のすべてを知りたかった。
それが、“恋”と呼ぶものだと気づくには、あと数日だけ必要だった。
---
氷雨 静——
名前を知ってしまった瞬間から、雪村の世界は静かに音を失った。
それまで退屈に満ちていた日常が、急に“色を取り戻した”ように見えた。
だがその鮮やかさの代わりに、雪村の中にはひどく歪んだ渇きが生まれ始めていた。
名前を知ったその日、雪村は帰り道で何度もその名前を口の中で転がした。
(氷雨……静……
きれいな名前だ……)
ただの学生一人の情報に、ここまで心が奪われるとは思ってもみなかった。
だが、“知りたい”と思った瞬間から、雪村の中で何かが音を立てて崩れていった。
講義棟の隅にある学生情報データベース。
本来、教員がアクセスできる範囲は限られている。
だが“注意深く見ていれば”、ひとつのファイルを目にすることくらいは難しくなかった。
氷雨 静
——両親を事故で喪失。
——養護施設での長期生活。
——親族との接触なし。
——奨学金使用。
——精神的負荷の可能性あり、と小さく付記。
その文面を見た瞬間、雪村の指先は震えた。
(……そんな過去を抱えて……こんなにも静かに本を読んでいたのか……?)
胸の奥から湧いたのは、同情ではない。
守りたいという感情でもなかった。
——もっと深く、ずっと暗い感情だった。
(……全部、知りたい)
氷雨という人間のひとつ残らず。
誰も知らない部分も、本人すら気づいていない部分も。
それから、雪村は氷雨が図書館で読む本の傾向をメモした。
借りる作家を調べ、その作品世界を全て読み込んだ。
(ミステリーが好き……
終盤の静かなどんでん返しのある作家をよく読んでいる……)
食堂や購買のチェックリストを確認し、氷雨がどんな飲み物を選ぶかをこっそり目撃した。
(ブラックコーヒー……
そんな細い身体で、こういう苦いものが好きなんだ……)
下校時間を把握し、どの寮の棟に帰っていくかを遠巻きに確認した。
(……この棟……
この階……この部屋……)
犯罪になるような行動は避けた。
でも、紙一重だった。
自分でもそれは分かっていた。
常識を装う仮面の裏で、雪村の執着だけが静かに膨らんでいった。
氷雨の歩幅、
図書館へ行く頻度、
読む速度、
ページをめくる癖、
ふと漏れる小さな溜息。
どれも、愛しさを増す材料でしかなかった。
(……話したい。
でも……逃げられるのは嫌だ……)
慎重に。少しずつ。
観察して、距離を測って、絶対に“嫌われないように”。
その執着は、雪村にとって自然な呼吸のようになっていた。
---
その日も氷雨は、本棚に囲まれた小さなスペースに座り、静かに本を読んでいた。
雪村は新刊のミステリーを手にして、ゆっくりと彼女の前に立った。
胸が痛いほど高鳴っていた。
——これは偶然ではない。
——だが自然に見せなければならない。
氷雨が顔を上げた瞬間、雪村は悟った。
(……可愛い……)
怯えた瞳。
驚いた顔。
肩をすくめる小さな仕草。
そして、胸に抱いていた本をぎゅっと持ち上げる癖。
それを見た瞬間、雪村の理性は、音もなく崩れた。
(……この子だ。
この子を……離したくない……)
ゆっくり呼吸を整え、いつも通りの“穏やかな先生の顔”を作り上げて、
「僕も借りようと思ってたんだ」
その一言を、完璧な優しさに包んで口にした。
だが内心は——
(やっと話せた……
やっと……やっとだ……
氷雨さん……俺の……氷雨さん)
喜びで震えていた。
氷雨が驚き、戸惑い、言葉に詰まるのを見ているだけで、胸が熱くなった。
彼女は自分を知らない。
当たり前だ。
でも——
自分は彼女のことを
“誰よりも知っている”。
その優越感は、静かな狂気と呼ぶしかなかった。
---
氷雨と初めて言葉を交わしたその日、雪村は帰り道にひとつの確信を得ていた。
——この子は、距離を詰めれば逃げない。
臆病で、人に慣れていない。
優しくされればすぐ赤くなる。
近づけば怯えるけど、拒絶はしない。
(……押しすぎれば壊れる。
でも、あの子は“逃げる力”が弱い。
だから——ゆっくり、丁寧に。
逃げ道を塞いでいけばいい)
雪村の中で優しさの仮面を被った策略が出来上がった。
すれ違うタイミングを計算して会話を増やす。
図書館で距離を詰め、気配を覚えさせる。
氾濫しない程度の優しさを与えて“安心”を植え付ける。
最終的に——研究室という閉じた場所へ誘導する。
完璧な計画だった。
……だが、“邪魔”が入った。
雪村は、氷雨の細い指がページをなぞる軌跡を視界の端でそっと追いながら、静かに本を閉じた。
(……今日も、ここに来てくれた)
胸がふわりと満たされる。
氷雨がこの席を選んでくれるというだけで、雪村にとっては計画の半分が成功したようなものだった。
氷雨がそっと本を持ち直し、控えめに座り直すたび、雪村は内心でひどく甘い感情を抱えていた。
——その瞬間、
「——あっ! 雪村先生!」
甲高い声が図書館全体に響いた。
雪村はわずかに目を細めた。
顔には出さない。
ただ、心の中で冷たく舌打ちする。
(……また、か)
女子学生が弾むような足取りで近づいてくる。
雪村の目には、彼女の笑顔は“ただの雑音”だった。
「こんにちは。どうかした?」
口元にはあくまで柔らかい笑み。
だが、その裏で雪村の意識は氷雨から離れない。
(氷雨さん、怯えていないだろうか……
こんな騒がしい子、嫌いだろうな)
女子学生が雪村に近づけば近づくほど、氷雨が小さく肩を縮こませているのが雪村の視界にあった。
その仕草だけで、雪村の胸がじくりと疼いた。
(……かわいそうに。
せっかく僕と静かに読んでいたのに)
女子学生は雪村以外の存在など見えていない。
「その子、誰ですか?」
次の瞬間、女子学生の目つきが変わった。
氷雨を突き刺すような視線。
雪村の指が、持っていた本をわずかに強く握る。
(やめろ)
声には出さない。
だが、内側で怒りが激しく泡立つ。
(その目で氷雨さんを見るな。
お前なんかに触れられるような存在じゃない)
だが氷雨は——その氷のような視線にたやすく傷ついてしまった。
「……すみません……今日は、失礼します……」
消え入りそうな声でそう言い、氷雨は立ち上がった。
一瞬、雪村の胸が大きく波打った。
(待って)
呼び止めたかった。
腕を掴みたかった。
行かないでと、縋るほどに。
でも——ここでそれをやれば、氷雨は壊れる。
だから、雪村は声を飲み込んだ。
ただ、氷雨が小さな身体で鞄を抱きしめるようにして逃げるように歩き去る姿を、何もできずに見送るしかなかった。
(……あの視線だけで、ここまで怯えるのか)
氷雨の背中が遠ざかる。
雪村の指先が僅かに震える。
胸の奥で、黒く重い愛情が静かに広がった。
(……大丈夫。全部、僕が守る。
氷雨さんを傷つける人間は——二度と近づけない)
氷雨が見えなくなるまで、
雪村は本を握る手の力を緩められないままだった。
---
だが、さらに雪村の計算を超える出来事が起きた。
それは、激しい雷鳴が研究室の窓ガラスを揺らしたとき。
氷雨が本を落とし、両耳を塞いで、その場に座り込んで震えた。
雪村の時間は、一瞬止まった。
(……え……?)
氷雨が、涙を浮かべて震えている。
必死に、息を詰めて、小さく小さく縮こまって。
(こんな弱い姿……見せるんだ)
胸の奥で、熱いものが弾けた。
「氷雨さん……?」
声は穏やかを保っていた。
だが、
——その瞬間の雪村の内心は狂気そのものだった。
(可愛い……怯えてる……
僕だけが知れる、こんな姿……
誰にも見せたことがない……
そんな顔、そんな震え……
全部僕のものにできる……)
雷鳴が轟くたび、氷雨の肩が震える。
そのたびに雪村の中の何かが甘く軋んだ。
(守りたい?違う。
“隠したい”。
この子の弱さを……僕だけの場所に閉じ込めたい)
けれど表情は一切変えない。
いつもの優しい先生の声で、静かに氷雨を抱きしめた。
「大丈夫……僕がいるよ、氷雨さん」
背中をなでる手は優しく。
でも内心は、欲で熱く濡れていた。
(もっと頼って……
もっと震えて……
僕じゃないとダメだって顔を……見せて……)
氷雨が過去を話し始める。
——両親が事故に遭った日
——クラスで酷いことをされた日
——どちらも“雷雨”だった
その言葉を聞いた瞬間、雪村の中で何かが決定的に歪んだ。
(……雷の日がトラウマ……
じゃあ……
雷の日は、僕が必要になる)
氷雨が涙を零しながら震えるその姿を見ながら、雪村の胸に去来したのは“保護欲”ではない。
(ねぇ氷雨さん……
君は今日、運命的に“僕のもの”になったんだよ)
外の雨が止む頃、
雪村の心は、もう元には戻っていなかった。
---
雷が止んだあと、雪村はしばらく氷雨の体を抱きしめたまま、その震えが完全におさまるのを待っていた。
氷雨の呼吸が落ち着き、微かに寝息へと変わっていく。
(……寝た?)
顔を覗き込むと、涙の跡がまだ頬に残っていた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(こんなに怯えるなんて……どれだけ辛い思いをしてきたんだろう)
抱きしめる腕に、思わず力が入った。
愛おしくて、守りたくて、壊れそうで——
このまま、連れて帰りたい……とふと思った。
ここから先の“正気”を保つ方が難しいほどだった。
だが、雪村はその誘惑を必死で押し殺した。
(ダメだ。今ここで僕の家に連れて行ったら……氷雨さんは僕を怖がる)
怖がらせたら——すべて終わる。
その事実だけが、雪村を人間に引き戻していた。
雪村はそっと氷雨をおんぶする。
その瞬間、背中に触れた体温に息が止まりそうになった。
(……ああ……氷雨さんの体温……)
思考が一瞬で甘く溶けていく。
肩越しにかかる柔らかい髪。
呼吸が首にかかるくすぐったさ。
(こんな……近くで……)
意識するとおかしくなるので、雪村は必死で視線を前に向けた。
氷雨の寮までの道は、当然知っていた。
何度も何度も下見に来ていたのだから。
ただ、実際に氷雨を背負って歩く日が来るとは……雪村自身、想像以上に冷静ではいられなかった。
寮の前に着く頃、背中で氷雨が小さく動いた。
「……あれ……私……?」
目を覚ましたのだ。
雪村はとっさに、いつもの優しげな“先生の声”を取り戻した。
「あ……よかった、ちょうど起きた。
氷雨さん、寝ちゃったから……家まで送り届けようと思って。
僕の家に連れて行ってもよかったけど、
さすがに女の子を男の部屋に入れるわけにはいかないからね」
本当は連れて行きたかった。
でも、それを言ったら終わりだった。
氷雨は自分がおんぶされていることに初めて気づいたらしく、慌てて雪村の背中から降りようとする。
「え! あ、ご、ごめんなさい! 私、重いですよね!?
い、今降りますから!」
(重いわけがない。むしろもっとずっと背負っていたい)
本音は喉の奥まで込み上げていたが、雪村は気づかぬふりをして柔らかく言う。
「気にしないで。
……と言いたいところだけど、氷雨さん。
鍵、あるかな? ドアを開けたくて」
氷雨は慌てて鞄を探り、鍵を取り出してドアを開ける。
カチャリと鍵が外れる音がした瞬間——
雪村の心臓が跳ねた。
(……この先に、氷雨さんの“生活”がある)
ただの部屋じゃない。
氷雨の息遣い。温度。匂い。
すべてが初めて触れる情報だ。
ドアが開いたあと、雪村はわざと一歩、後ろに下がった。
「それじゃあ、僕はこれで——」
わざとらしい“帰る素振り”。
本音とは真逆の行動。
でも、これも計算のうちだ。
(誘ってくれれば……入れる。
でも、氷雨さん自身の意思で言わせなければ意味がない)
その一瞬の静けさのあと、
「あ……あの!
よかったら、上がっていきませんか……?」
氷雨の声が震えながら呼び止める。
雪村は、心の中で静かに歓喜した。
(……やっぱり)
でも外側の顔は、あくまで“先生”を崩さない。
「……氷雨さん、
そんな簡単に男の人を部屋にあげちゃダメだよ」
「……雪村先生なら、私は大丈夫です」
俯きながら、小さな声で。
その言葉が胸に刺さる。
(大丈夫?
……僕が?
怖がらせるようなことを、どれだけ考えているかもしれないのに?)
それでも、氷雨の“信頼”が嬉しくて仕方がなかった。
氷雨が慌てて付け足した。
「あの、ほら……お礼がしたいので!」
雪村は、抑えきれない笑みが零れそうになるのを必死で形だけ抑えた。
「……じゃあ、少しだけお邪魔しようかな」
ついに——
氷雨の “内側” に足を踏み入れる瞬間だった。
---
氷雨の部屋に足を踏み入れた瞬間、雪村は思わず息を呑んだ。
シンプルな部屋。
飾り気のない本棚。
小さなベッド。
清潔な床。
どれも普通の学生の部屋なのに、雪村には“氷雨の匂い”が濃密に満ちている空間にしか見えなかった。
(……ここで眠って、ここで泣いて、ここで息をして……
僕が知らない氷雨さんの全部が、この空間に詰まってる)
胸の奥が熱くなる。
落ち着いているふりをするのがやっとだった。
氷雨はそわそわした様子で言った。
「えっと……狭くてごめんなさい。
とりあえず、ここに座っててください。
今、飲み物用意しますね」
ベッドを指さす小さな手。
緊張して震えている。
(……可愛い)
その一言で済ませるにはあまりにも破壊力が強すぎて、雪村は自分の中の理性の残量を瞬時に計算し直した。
——少ない。
それでも優しく微笑んで、ベッドに腰を下ろす。
氷雨がぎこちないおもてなしをしようと、不器用に飲み物を用意してくれるその一挙手一投足が、雪村には宝物のように見えた。
(どうしてこんなに……いちいち可愛いんだろう)
飲み物を受け取り、氷雨が立ち尽くしているのに気づく。
どうしたらいいか分からず、まるで“自分がここにいていいのか”不安がっているようだった。
雪村はそっと手を上げて、自分の隣をぽんぽんと叩く。
「……氷雨さん、おいで」
その声は自分でも驚くほど甘く、優しい。
氷雨は顔を赤くしながら、恐る恐るベッドの隣へ腰を下ろした。
距離は近すぎるほど近い。
肩が触れるか触れないか。
呼吸の温度が伝わる。
(まずい……近い……)
内心は爆発寸前。
でも“先生”の顔を保とうとして必死に押さえ込む。
「氷雨さんらしい部屋だね」
そう言うと、氷雨は俯いて、
「あ……えっと、すみません、何も無くて……」
と小さな声で答える。
(……謝る必要なんてどこにもないのに)
可愛くて、愛しくて、胸が痛くなる。
「確かにシンプルだけど……
でも、ここには氷雨さんがいる。
僕にとってはそれだけで十分素敵な部屋だよ」
その言葉に氷雨は耳まで赤くした。
雪村はその反応に、胸の奥で熱がふわりと膨らむのを感じた。
そして——氷雨がふと呟く。
「……誰かをこの部屋に入れたの、初めてです」
その瞬間、雪村の心臓が跳ねた。
(……知ってるよ。知ってるけど。
でも……その口から聞けるなんて)
「そうなの?」
“初耳”のふりをしながら、内心では歓喜が弾けていた。
氷雨は慌てたように続ける。
「ごめんね、初めて部屋に入れるのが大学の先生……
しかもこんなおじさんで」
珍しく雪村が自分を下げると、氷雨は慌てて言い返した。
「そんな、雪村先生は全然おじさんなんかじゃないです!
それに……」
「それに?」
続きを促すと、氷雨は顔を真っ赤にして、
「……私は初めてが雪村先生で、嬉しい、です」
と小さく零した。
雪村の中の何かが、一瞬で音を立てて崩れた。
(……まずい。だめだ。落ち着け……)
落ち着けるわけがなかった。
「氷雨さん。
そういうこと、簡単に男の人に言ったらダメだよ」
それは忠告ではなかった。
嫉妬だった。
氷雨は俯きながら弱々しく言う。
「前に、雪村先生言ってましたよね……
『誰にでも優しいわけじゃない』って……
私も……誰にでもこういうことを言うわけじゃ、ないです」
理性が軋む音がした。
雪村は少し間を置き、氷雨の名前を低く呼んだ。
「……氷雨さん」
氷雨は恥ずかしさで顔を向けられない。
雪村は手に持っていたコップをテーブルに置き、ゆっくりと氷雨の左手を両手で包んだ。
「……氷雨さん、こっち向いて?」
甘い、落とすための声。
氷雨は抵抗できず、ゆっくりと雪村の方へ顔を向けた。
真っ赤な顔。揺れる瞳。
言葉で言うより雄弁な“好き”がそこにあった。
雪村は、その顔を見つめながら問いかけた。
「……氷雨さん。
それって、どういう意味か分かって言ってる?」
氷雨は震える声で言う。
「……ごめんなさい……
私なんかが雪村先生のこと、好きになって……
でも……どうしようもなく、好きなんです」
その瞬間——
雪村の中で最後のブレーキが完膚なきまでに壊れた。
次の瞬間、氷雨が顔を上げた瞬間に、雪村は氷雨の唇を乱暴に奪っていた。
優しさなんてどこにもないキス。
欲と執着しかない。
氷雨が驚いても、受け入れてくれる。
それが嬉しくて、雪村は息が止まるほど深く深くキスをした。
(ああ……やっと……やっと触れられた……)
互いの息が混ざり合い、体温が重なる。
ベッドに沈む直前、雪村の脳裏にはただひとつだけだった。
(氷雨さんは……もう僕のものだ)
---
雪村の言葉が途切れたあと、部屋にはひどく静かな空気が落ちていた。
氷雨はベッドの上で、息をすることさえ忘れたように固まっていた。
(……そんな……私のこと……そんな風に……)
理解が追いつかない。
信じられない。
だけど——胸の奥が熱くなる。
雪村はゆっくりと氷雨から身体を離し、重たい瞳でじっと見つめた。
「……どう?
俺がどれだけ氷雨さんのことを愛してるか、伝わった?」
低く、震える声。
怒りではない。
必死の懇願だった。
「俺はね……氷雨さんが思ってるような、“優しい先生”じゃないんだよ」
その目はどこか自嘲していた。
“嫌われる覚悟”を込めたような表情だった。
氷雨は唇を震わせた。
逃げるべきなのかもしれない。
拒絶するべきなのかもしれない。
——だけど。
胸の奥に、温かい何かが広がった。
(……私のことを……こんなに……?
こんなにも……狂うほど……?)
そんな人間、生まれて初めてだった。
両親がいなくなって、施設で孤独だった子供時代。
誰かに必要とされたことなんてなかった。
優しい言葉は嘘だと思っていた。
好意は全部上辺だと思っていた。
でも——雪村は違った。
狂ってる。
執着してる。
常軌を逸している。
だけど、それが——氷雨の心の空白にぴったりと“はまった”。
ぽつりと、氷雨は呟いた。
「……嬉しい、です」
雪村の瞳がわずかに揺れた。
氷雨は続ける。
震えながら、でも確かに。
「こんなふうに……私のことを……
こんなにも思ってくれる人……初めてで……
変かもしれないけど……嬉しい、って……思ってしまったんです」
雪村の表情が、驚きから、安堵へ、
そして——狂おしいほどの愛に変わる。
氷雨は、自分でも気づいてしまった。
(……あぁ……私も……普通じゃないんだ)
人の優しさに飢えすぎていた。
誰かに必要とされたかった。
愛されたいと願いすぎていた。
だから、こんな異常な愛でも——
むしろ、心地よかった。
氷雨は涙をこぼしながら、雪村の胸にそっと触れた。
「……私……雪村先生と一緒にいたい。
雪村先生じゃなきゃ、嫌です……」
その瞬間、雪村は氷雨を強く抱きしめた。
まるで、壊れものを抱くように、でも絶対に離さないという強烈な圧で。
「……氷雨さん……氷雨さん……
俺から離れないで。
ずっと……そばにいて……」
「はい……離れません」
この瞬間、二人の“普通”は完全に壊れた。
もう誰にも戻せない。
優しい先生と孤独な少女——ではなく、
共依存と狂気で結びついた恋人同士へと変わった。




