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越えてはいけない距離

雪村が小さく「お邪魔します」と言いながら玄関を静かに跨いだ。

靴を脱いで入った氷雨の部屋は、驚くほどシンプルだった。

必要最低限の家具と、整えられたベッド。

本棚には数冊の本が並んでいるだけ。

趣味のものも、飾りもほとんどない。

生活の音があまりしない、穏やかで静かな空間。

氷雨は部屋を見られることに緊張しているのか、落ち着かない様子で指先をもじもじと動かした。


「えっと……狭くてごめんなさい。

とりあえず……ここに座っててください。

今、飲み物用意しますね」


そう言って、ベッドをそっと指さした。

ベッドに他人を座らせることへの恥ずかしさと、おもてなししないといけない焦りが混ざった声だった。

雪村はそんな氷雨を見て、ふわりと優しく笑った。


「ありがとう」


その声は、氷雨の緊張をそっと撫でるような温度をしていた。

雪村は促されるまま、ベッドに腰を下ろした。

氷雨はキッチンへ向かい、ぎこちない動きでコップを出して、冷蔵庫を開けては閉め、飲み物を用意する。

手元が震えているのが遠くからでも分かる。

慣れていないけれど、一生懸命“おもてなし”しようとしている。

その姿を見ながら、雪村は微笑ましそうに目を細めた。


「……頑張り屋さんだなぁ……」


思わずそんな言葉が胸に浮かぶ。

氷雨の部屋には、氷雨の気配がそのまま詰まっていた。

慎ましくて、まっすぐで、どこか胸が締めつけられるほど静かで。

そして何より、雪村は“この空間に自分がいる”ことが不思議で仕方なかった。

ベッドに座りながら、部屋全体を優しい目で眺めていると——

キッチンの方で氷雨が、そっと深呼吸するように息を整えた。

そして、両手でしっかりとコップを持ちながら戻ってくる。


「……お待たせしました。どうぞ……」


差し出す手は震えていた。

雪村はその震えを気づかないふりをしながら、いつものあたたかい笑みを向けた。


「ありがとう、氷雨さん」


その一言で、氷雨の肩の力がほんの少しだけ抜けた。

氷雨は、どう座ればいいのか分からず、雪村の前にコップを置いたあとも立ちっぱなしだった。

ぎこちない緊張が、体中からにじみ出ている。

それを見ていた雪村が、ベッドの横をそっと指先でぽんぽんと叩いた。


「……氷雨さん、おいで」


その声音は、普段の穏やかさよりも少し柔らかく、どこか甘い響きを帯びていた。

氷雨は肩をびくりと震わせたが、やがて小さく頷き、


「し、失礼します……」


と声を震わせながら、雪村の隣にそっと腰を下ろした。

……近い。

距離が近すぎる。

心臓が痛いほど鳴って、目線の置き場に困って泳ぎ続ける氷雨。

その様子を見て、雪村がふっと微笑んだ。


「氷雨さんらしい部屋だね」

「あ……えっと……すみません、何もなくて……」


氷雨が申し訳なさそうに言うと、雪村はゆっくり首を振った。


「確かにシンプルだけど……でも、ここには氷雨さんがいる。

僕にとっては、それだけで十分素敵な部屋だよ」


氷雨の耳まで赤く染まった。

沈黙を破るように、氷雨がぽつりと口を開く。


「……誰かを、この部屋に入れたの……初めてです」

「え、そうなの? あー……ごめんね、初めて部屋に入れるのが大学の先生……しかもこんな“おじさん”で」


らしくない、弱い声。

氷雨は慌てて顔を上げた。


「そ、そんな! 雪村先生は全然おじさんなんかじゃないです!

それに……」


言いかけて、急にハッと気づく。

口をつぐむ氷雨に、雪村は静かに促した。


「それに?」


氷雨は真っ赤な顔のまま、小さな声でしぼり出す。


「……私は……初めてが雪村先生で……嬉しい、です……」


雪村の目が、わずかに揺れた。


「氷雨さん。

そういうこと、簡単に男の人に言ったらダメだよ」


氷雨は唇を噛み、けれど珍しく言い返した。


「……前に、雪村先生言ってましたよね。

『誰にでも優しいわけじゃない』って……。

わ、私も……誰にでもこういうこと言うわけじゃ、ないです……」


真っ赤な横顔で、でも逃げずに言葉を紡ぐ。

雪村は一拍置いて、低く優しい声で名前を呼んだ。


「……氷雨さん」


氷雨は恥ずかしさで顔を向けられなかった。

すると雪村は、そっと自分のコップをテーブルに置き、氷雨の左手を両手で包み込むように握った。


「……氷雨さん、こっち向いて?」


甘い声。

拒めるわけがなかった。

氷雨はゆっくりと顔を上げた。

耳まで真っ赤なまま、雪村の瞳を見つめる。

雪村はその表情をじっと見て、低く囁く。


「……氷雨さん。

それって、どういう意味か分かって言ってる?」


氷雨はまた俯き、震える声で告げた。


「……ごめんなさい……

私なんかが雪村先生を……好きになって……でも……どうしようもなく……好きなんです……」


その瞬間だった。

雪村の中で、ずっと抑えていた“理性”という名のブレーキが、静かに崩れ落ちた。


「……氷雨さん」


先ほどまでとは違う、掠れた、余裕のない声。

氷雨が顔を上げた刹那——

雪村の唇が、氷雨の唇を強く奪った。

優しい雪村からは想像できないほど、熱くて、必死で、衝動のままのキス。

氷雨は驚いたが、すぐに目を閉じ、拒むどころか受け入れるように雪村のキスに応えた。

深く、ゆっくりと、呼吸を奪うように重なるキス。

ふたりは何度も唇を重ね、そのまま吸い寄せられるように——

ベッドへ、静かに沈んでいった。

そして、ふたりの距離はもう、元には戻れなかった。




---



氷雨が目を覚ましたのは、キッチンから聞こえる小さな調理音だった。

包丁の音、フライパンの優しい焼ける音、湯気の立つ匂い。

ぼんやりとした視界の中、氷雨はゆっくり身体を起こした。

その瞬間——

腰に走った鈍い痛みで、昨夜の出来事が一気に胸へ押し寄せた。


(……っ……そうだ……私……雪村先生と……)


顔が一瞬で真っ赤に染まる。

服はちゃんと着ている。

きっと雪村が着せてくれたのだろう。

けれど次に浮かんだのは、いつもの氷雨らしい、ひどく自分を下げる考えだった。


(……雪村先生、モテるし……きっと慣れてるんだよね……たくさんの女の子に優しくして……きっと……私もそのうちの一人……)


胸の奥に、薄い痛みが広がった。


(それでも……雪村先生なら……遊ばれても……いいや……)


そう諦めるように思ってしまった自分に、氷雨は気づかないふりをした。

やがて、雪村が朝食をテーブルに運びながら振り向いた。


「あ、氷雨さん。おはよう」


優しい笑み。

いつも通りの穏やかさ。

氷雨は心臓が跳ねるのを感じながら、ぎこちなく返した。


「お、おはようございます……」

「ごめんね。勝手にキッチン借りて、簡単に朝ごはん作っちゃった。

材料はさっき近くのコンビニで買ったものだけど」

「そ、そんな……わざわざ朝ごはん……作ってくれたんですか?」


驚く氷雨に、雪村は当たり前のように答えた。


「うん。当たり前だよ。

その……僕も”好きな子”に無理させちゃったし。

お詫びも兼ねて」


氷雨の動きがぴたりと止まる。

雪村は首を傾げた。


「……氷雨さん?」


丸い目がゆっくりと雪村を見上げた。


「今……“好きな子”って言いました?」


雪村は普通の調子で、


「え? うん……言ったけど……?」


と返す。


数秒の沈黙のあと——氷雨はぽん、と手を叩いた。


「あ……わかりました!」


そして、恥ずかしそうに笑いながら言った。


「雪村先生は……女の子全員にそうやって言うんですね。

これが……モテテクニックってやつ……ですよね?

ごめんなさい、私……そういうの疎くて……」


その瞬間だった。

雪村の表情から、すっと光が消えた。

肌の色が変わるわけでもないのに、空気が変わった。

氷雨は小さく息を呑む。


「え……雪村、先生……?」


覗き込んだ氷雨の瞳に映ったのは、昨日の優しさとは別人の、冷たく怒りを孕んだ視線だった。

雪村は深く、大きく息を吐く。

そして、低い声で言った。


「……氷雨さん。

それ、本気で言ってるの?」


“低い”。

“冷たい”。

聞いたことのない声。

氷雨は困惑したまま、


「えっ……と……?

だって……雪村先生、私以外の女の子とも……

その……昨日みたいなこと、してる……んですよね……?」


と恐る恐る尋ねた。

雪村の瞳が鋭く揺れた。


「……は?」


その一言で、氷雨はようやく理解した。


(……怒ってる……

本気で……雪村先生が……)


氷雨は慌てて言い直そうとした。


「あ、その、えっと、ご、ごめんなさ——」


その瞬間、雪村が距離を詰め、氷雨の唇を強く塞いだ。

昨日よりずっと強い。

衝動的で、抗う余地のない熱。

氷雨は息が苦しくて涙目になりながら、必死に震える声で、


「ま、まって……せんせ……まって……」


と訴える。

その声にようやく、雪村は氷雨から唇を離した。

見下ろす雪村の瞳には、優しさの光はひと欠片もなかった。


「氷雨さんさぁ……いい加減にしてよ」


低くて、押し殺した声音。

氷雨の目から涙がこぼれる。

雪村は苛立ったように髪を乱暴に掻き、息を浅く吐く。


「……氷雨さん。

今から全部教えてあげるよ。

なんで“俺”が氷雨さんに優しくしてきたのか」


“俺”……?

その一人称に、氷雨は全身が震えた。

これはもう、昨日までの穏やかな教師ではなかった。

氷雨の知らない——“雪村律”そのものだった。

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