二人で帰る場所
帰りの電車は、朝とは違って少し揺れが穏やかに感じた。
氷雨と雪村は並んで座り、繋いだ手は互いの温度を確かめるようにそっと絡まっていた。
景色をぼんやりと眺めていた雪村が、ふと息を漏らした。
「……さて、これからどうしたものかなぁ」
独り言のような声だった。
天井をじっと見つめ、眉間に小さな皺を寄せている。
(……お母さんに知られてる場所に帰るのは、やっぱり無理だよね)
氷雨は横目でそっと雪村を見つめた。
雪村の心の痛みも迷いも、今はまだ消えていない。
――そんな場所に帰らせたくない。
胸がぎゅっと締め付けられて、氷雨は決心するように唾を飲み込んだ。
「……あ、あのっ!雪村先生!」
繋いだ手に、氷雨の力がぎゅっとこもる。
雪村は驚いたように顔を向けた。
「よかったら、なんですけど……」
言葉が喉に引っかかりながらも、氷雨は勇気を振り絞る。
「……私の家に、来ませんか?」
雪村の瞳が、ぱちりと大きく開いた。
氷雨は慌てて視線を落とし、しどろもどろに続ける。
「ほら、私の家って狭いし……嫌だったら全然……」
「ううん。狭さとかはどうでもいいよ」
雪村の声はすぐに返ってきた。
けれど、その目はまっすぐ氷雨を捉えて、問いかける。
「氷雨さんは、いいの?」
氷雨はぎゅっと唇を結び、
それから、真っ赤になった顔で上目遣いに言った。
「……ダメだったら、こんなこと言わない、です」
その言葉に――雪村は喉の奥が熱くなるのを感じた。
今すぐ抱きしめたかった。
だけど車内には人がいる。
だからこそ、代わりにそっと指先で氷雨の手を撫でた。
「……ありがとう、氷雨さん。
それじゃあ……お言葉に甘えようかな」
氷雨の顔がぱぁっと明るくなる。
「ふふっ……雪村先生と同棲だ……」
小さく呟いた声が、ほんのり弾んでいて。
雪村の顔は一瞬で真っ赤になった。
そっと目をそらし、小さく呟く。
「……氷雨さん、これ以上可愛いことするのやめて」
「え?」
「我慢するの、そろそろ限界だから……」
その低い声に、氷雨は驚いて目を見開く。
そして――くすりと微笑んだ。
「……雪村先生、可愛い」
「ほら、また……」
雪村は顔を覆い、諦めたようにため息を吐いた。
けれど、その横顔は
触れたくなるほど、幸せそうに見えた。
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朝帰りなんて、初めてだった。
しかも、好きな人と一緒にだなんて。
まだふわふわと夢見心地のまま、氷雨は自宅の玄関前に立ち、手にした鍵をそっと差し込んで回す。
「ど、どうぞ……」
扉が開いた瞬間、少し緊張しながら後ろにいる雪村を振り返って促すと、彼は小さく一礼しながら「お邪魔します」と優しい声で答え、玄関をくぐった。
氷雨も続くように中へ入り、ふと見慣れた部屋に目を向ける。
たった一日空けただけなのに、まるで数日ぶりに帰ってきたような、不思議な懐かしさがあった。
「て、適当に座ってください! あ、ベッドとかっ……!」
慌ててそう言うと、氷雨はベッドのシーツを手早くさっさと整え始める。
雪村はその様子を微笑ましく見つめて、クスッと笑った。
「ありがとう。
……なんだか、初めて氷雨さんの部屋に来たときのこと思い出すなぁ」
「……あ。で、ですね……」
そう返した氷雨の頭に、あの夜の記憶がふとよみがえる。
胸がきゅっと締めつけられるような、甘くて、切なくて、苦しい夜だった。
その夜、二人はこのベッドで触れ合い、朝になって――雪村の、あの執着とも言える強い想いを聞いた。
そして、それを受け入れて、自分も彼を好きだと伝えた。
それが、すべての始まりだった。
思い出した瞬間、氷雨の頬がぱっと赤く染まった。
気まずそうに視線をそらす氷雨の表情を見て、雪村もまた、少しだけ視線を落としながら静かに言葉をこぼす。
「……今思うと、本当にどうかしてたよね。」
「……そう、かもしれません。
で、でも……!」
氷雨は言いかけて、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
自分の想いをまっすぐ伝えたくて、気持ちを込めて続ける。
「……あのことがあったから、私たち、今こうやって……ちゃんと向き合えたんだと思います」
「……うん、そうだね」
雪村は優しく微笑んだ。
氷雨の言葉を、心の奥でしっかりと受け止めたように。
まるで、氷雨の存在そのものに感謝するように、穏やかな眼差しで彼女を見つめていた。
「……あっ!」
突然、何かを思い出したように氷雨が手を叩く。
恥ずかしさをごまかすように、目を逸らしながらそそくさと立ち上がった。
「コーヒーいれますね!」
そう言って足早にキッチンへ向かう氷雨の背中を、雪村はベッドの上から微笑ましそうに見つめていた。
慌てたときの仕草や、照れ隠しの動きひとつひとつが愛おしくて、見ているだけで胸があたたかくなる。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んで、部屋に柔らかな明るさが広がっていた。
今日は月曜日。
疲れが身体に残っているが、二人とも大学へ行かなくてはならない日だった。
氷雨は講義の準備を手早く進めていた。
机の上でノートを開いて、真剣な表情でスケジュールを確認している。
一方、雪村はというと、ベッドに仰向けのまま、ごろんと寝転がって微動だにしない。
毛布も掛けず、ただ天井を見つめながら、ぼんやりと時間をやり過ごしていた。
「……雪村先生? 遅刻しちゃいますよ?」
氷雨が声をかけても、彼はぴくりとも動かない。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……ねぇ、氷雨さん」
「は、はい?」
不意に呼ばれて、氷雨は準備の手を止めた。
「学校サボったこと、ある?」
思いがけない問いだった。
氷雨は「え……」と声を漏らし、少し考える。
小学校では、クラスの中でひどく浮いていた。
無視され、陰口を言われ、それでも彼女は毎日通い続けた。
友達のいない中学、孤独だった高校――氷雨は、体調不良を除けば一度も学校を休んだことはなかった。
「……ないです」
少しだけ戸惑いながらも、正直にそう答える。
すると雪村は、横目で氷雨を見て、猫のような目を細めて笑った。
「じゃあさ、一緒にサボっちゃおっか」
「えっ……?」
その言葉が、思いがけなさすぎて、氷雨は素っ頓狂な声を出してしまう。
けれど、すぐに気づいた。
それは、ちっとも悪い響きじゃなかった。
むしろ、心のどこかが、ふわりと浮かぶような気さえした。
「……雪村先生って、悪い子ですね」
「ははは、一度やってみたかったんだよね、サボりってやつ」
雪村はまるで子どものように楽しそうに笑っていた。
その無邪気さに、氷雨は思わず肩の力が抜ける。
「……もう、仕方ないなぁ」
そう呟いて、氷雨は机の上に置いていたカバンを、ぽすんとベッドの上に放り投げた。
まるで、目の前の彼に巻き込まれるのも悪くない――そんな気持ちを込めて。
朝の光が少しだけ眩しく感じた。
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氷雨は榊に、雪村は上司にそれぞれ連絡を入れ、今日は休みをもらうことにした。
すべてが落ち着いた頃、2人は並んで1人用のベッドに仰向けで横になる。
当然ながら、狭い。
肩と肩が触れ合い、腕もぴったりくっついて、互いの体温がじんわり伝わってくる。
どちらともなく息を潜め、天井を見つめる時間が流れる。
「……このあと、どうしますか?」
氷雨がぽつりとつぶやく。
「……どうしようか」
雪村が同じように答えた。
言葉は少なくても、不思議と居心地のいい沈黙だった。
ふいに雪村が手を伸ばし、氷雨の手にそっと触れる。
氷雨は驚かない。
それは、彼女も同じことを望んでいたからだ。
重ねられた指先を、雪村がゆっくりと辿るようになぞり、恋人繋ぎに変える。
氷雨も、ぎゅっと握り返した。
「……雪村先生」
小さく名前を呼びながら、氷雨が雪村の方へ顔を向ける。
雪村もその声に導かれるように顔を向けた、その瞬間だった。
ふわりと温かな感触が唇に触れる。
氷雨が、自らキスをしたのだ。
雪村は思わず目を見開く。
でも、氷雨のまっすぐな瞳を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……好きです、大好きです」
氷雨の瞳には、迷いのない感情が宿っていた。
「氷雨、さん」
雪村はそっと氷雨の頬に手を添えると、今度は自分からキスを返した。
ちゅ、と小さな音を立てる、短いキス。
唇が離れると、氷雨がぷくっと頬を膨らませた。
「……短い、です」
「ふふ、氷雨さんはワガママだね」
「雪村先生はいじわるです……」
くすくすと笑い合う2人。
そんな空気が、たまらなく愛おしかった。
「ごめんね、冗談だよ」
雪村はふわりと笑うと、再び氷雨にキスをした。
今度は、長くて深い、想いを重ねるキス。
唇を重ねながら、2人はそっと腕を回し合い、抱きしめ合った。
やがて体を寄せ合いながら、静かにベッドへと沈んでいく。
――窓から差し込む柔らかな陽の光が、寄り添う2人を優しく包んでいた。
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氷雨が目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。
ぼんやりした頭のまま、雪村の腕の中でもぞりと動いて時計を見る。
時刻は18時――お昼をすっ飛ばして眠ってしまったようだ。
ぐぅ、と腹の虫が文句を言う。
その音に気づいたのか、雪村が穏やかな声で言った。
「……なにか作ろうか」
「わっ……起きてたんですか?」
「だいぶ前から。氷雨さんの寝顔、眺めてた」
なにそれ、と反論したいのに、頬が熱くなるだけで言葉にならない。
雪村はそんな氷雨の反応を見て、少し誇らしげに笑った。
「冷蔵庫、見ていい?」
「えっ、あ、その……」
止める間もなく扉が開かれる。
次の瞬間、沈黙。そして――
「……氷雨さん」
低い声。少しの怒気。
「はい……」
「これは、何?」
「ごはん……です……」
「ゼリー飲料と栄養ドリンクと……ブラックコーヒー?」
「朝は……時間がもったいなくて……
でも!お昼はちゃんと食べてます!購買のパン!」
「どのくらい?」
「い……一個……です……」
雪村は深く、深くため息をついた。
「……薄々気づいてたけど、ここまでとは」
「で、でも今こうして元気ですし……」
「今は、ね」
雪村は氷雨の前にしゃがみ込み、真剣な目で言った。
「……氷雨さん。僕と、一緒に住もう」
「ぇ」
状況が理解できず、口が半開きのまま固まる。
「理由の一番は、僕が氷雨さんと一緒にいたいから。
二番目は……氷雨さんの食生活だ。
ちゃんと食べてほしい。長く生きてほしい。
僕の作るご飯を、一緒の時間を、大事にしてほしい」
ゆっくり、確かに紡がれる言葉。
そのどれもが、氷雨の胸にあたたかく沈んでいく。
氷雨は唇を噛みながら、視線を彷徨わせ――
やがて意を決したように顔を上げた。
「……私、本当は食べるのが好きです」
「いい。いっぱい食べて。その分、僕が作るから」
「ひ、引きませんか……?」
「引かないよ。むしろ嬉しい」
涙が出そうになるほど、やさしい声音だった。
そして、ぎゅっと握られた拳のまま、氷雨は小さく頷く。
「……で、では……その……よろしくお願いします……っ」
「……うん。ありがとう」
雪村は氷雨の頭を、そっと撫でた。
くすぐったいのに、泣きたくなるほどあたたかい。
「後で一緒に不動産サイトでも見ようか。
とりあえず、今はスーパーへ行こう」
「わ、私も行きます!」
「ふふ、分かった。寒いから、上着ちゃんと着てね」
「はい!」
氷雨は慌ててパーカーを掴む。
靴を履きながら、胸の奥がぽかぽかしているのを感じていた。
――一緒に住む。
――同じものを食べる。
――同じ時間を過ごす。
まだ実感はないけれど、
この扉の先には、確かに未来が待っている。
並んで玄関を出ると、夜風が頬を撫でた。
手袋越しに触れた指先が、そっと絡まる。
誰も知らない二人の部屋。
でも、これからここに「日常」と呼べるものが増えていく。
氷雨の胸は、期待で少しだけ苦しくなった。
二人の暮らしが、静かに幕を開けた。




