僕じゃないと嫌
玄関には、まだ朝の涼しさが残っていた。
雪村と氷雨は並んで靴を履いていて、榊はその姿を見つめながら、少し口を尖らせた。
「……ホントに帰っちゃうんすか?」
その言葉に、雪村が穏やかに笑って頷く。
「うん。このまま榊くんに迷惑かけるわけにもいかないしね。」
すると榊は、眉を寄せて悔しそうに言った。
「俺は別に、迷惑なんかじゃないっすけど……今日バイトなんで、車出せないのだけがマジで悔しいっす……ごめんなさい!」
「別に、電車で帰れるから大丈夫だよ。」
そう言いながら、雪村は靴ひもを結び終えた。
そのとき、隣で黙っていた氷雨が、ぽつりと声をこぼす。
「……でも、もう少しだけ、ここにいたいって思っちゃうな。
その……楽しかった、から。」
ほんの少しだけ、頬を染めて視線を落とす氷雨。
その言葉に、雪村と榊は顔を見合わせて、ふっと柔らかく笑った。
「おいおい氷雨っち〜!そんなこと言ったら、ますます帰したくなくなっちゃうじゃんか〜!」
明るく言いながら、榊は腕を広げて、ふたりを勢いよく抱きしめた。
「わっ……!」と小さな声を上げて驚く氷雨の肩を、雪村がそっと支える。
「榊くん、力強いよ……」
呆れたように言う雪村に、榊は悪びれもせずに笑う。
「雪村センセーも……なんかあったらすぐ連絡くださいよ?いつでもウチ来てもらっていいっすから!」
その言葉に、雪村は少し目を細めて、小さくため息をついた。
だけど、その顔はどこか嬉しそうで、口元にかすかな笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう、榊くん。」
言葉はそれだけだったけれど、しっかりと気持ちは伝わっていた。
「じゃあ、そろそろ行くね。本当にありがとう。今度お礼させてね。」
雪村が手を軽く振ると、氷雨も控えめに「榊くん、またね」と笑顔を見せた。
その様子に、榊は力強く手を振り返す。
「雪村センセー!お礼、楽しみにしてますからね!氷雨っちも、またなー!」
玄関の扉が閉まり、ふたりの背中が小さくなるまで、榊はずっと見送っていた。
家の中に残った温もりと笑い声だけが、ふんわりと余韻を残していた。
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電車の揺れが静かに身体を揺らす。
まだ朝も早く、車内にはちらほらとしか人がいない。
氷雨と雪村は、並んで座っていた。沈黙のまま、時間だけがゆっくりと流れていく。
ふと、氷雨が顔を上げて、窓の外に目をやる。
その視線の先に、懐かしい風景が映った。
海――
ふたりが、あの日別れる前に訪れた、あの海が見えたのだ。
「……あっ」
小さな声が漏れる。
隣でその声を聞いた雪村も、同じ方向に視線を向けた。
「……あぁ」
雪村の口から、静かに感嘆のような声が漏れる。
しばらく黙って海を見ていた雪村が、ぽつりと呟いた。
「……氷雨さん」
「は、はい」
「良かったら……少し寄り道していかない?」
突然の提案に、氷雨は目を見開く。
戸惑いながらも、ほんの少しだけ笑って、こくんと頷いた。
次の駅で電車が止まる。
扉が開く音に重なるように、雪村がすっと立ち上がった。
その背を追いかけるように、氷雨も立ち上がり――
ふたりは、静かに電車を降りた。
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海は、朝の光を静かに反射していた。
波の音だけが、風に溶けて耳に届く。
足元に寄せては返す白波に、氷雨はふと目を落とした。
風が冷たくて、少し身を縮める。
(榊くんから、上着を借りてくればよかった)
そんなことを思いながら、ふと横を見ると――
雪村は、海を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「氷雨さん……僕は、君に謝らなきゃいけない」
不意に告げられた言葉に、氷雨は目を見開く。
雪村の顔を見ようとするが、彼は目を合わせず、ただ前だけを見つめていた。
「……僕は、氷雨さんが前に言った通り、一目惚れしたわけじゃなかった」
波の音にかき消されそうな、静かな声。
「孤独な自分と氷雨さんを、勝手に重ねていただけだった。
氷雨さんを初めて見たとき――“僕と同じだ”って、思っちゃったんだ。」
氷雨は何も言わず、ただその声に耳を傾ける。
「だから……氷雨さんが僕を置いて、幸せになるのが許せなかった。
氷雨さんを縛って、孤独にしたのは、僕だ。」
少しだけ、雪村の喉が震えた。
「今考えると……ゾッとするよ。
僕は、僕が1番なりたくなかった人間になっていたんだ。
……母親みたいな人間に。」
「ゆ、雪村先生とお母さんは違います!」
氷雨の言葉に、雪村はかぶせるように首を横に振る。
「ううん、いいんだ。
やってることは、ほとんど一緒だったよ。
自分が1番、よくわかってる。」
苦笑するその顔は、どこまでも寂しそうだった。
「だからもう、氷雨さんを縛ったり、支配したくない。
僕は――誰よりも氷雨さんに幸せになってほしいって、強く思ってる。」
海風が吹く。
氷雨の髪が揺れた。
「……でもね、なんでだろう。
今でも、”氷雨さんを幸せにするのは、僕じゃないと嫌だ”って……
ワガママが出てきちゃうんだ。」
そこで、初めて氷雨と目が合う。
雪村の瞳は、揺れていた。今にも涙が零れ落ちそうなほど、真っ直ぐに。
「僕は……氷雨さんのことが好きだ。」
静かに放たれた告白。
氷雨の心臓が、どくん、と高鳴る。
「……同情とか、そんな気持ちじゃない。
本気で、氷雨さんのことを――愛してる。
こんな気持ちになったの、初めてなんだ。
……誰かを愛するって、こういうことなんだね。
こんな歳になって、初めて知ったよ。」
そう言って、困ったように、だけどどこか嬉しそうに、雪村は笑った。
氷雨は、勇気を振り絞るように胸元でぎゅっと手を握りしめる。
朝の潮風に揺れる髪をそのままに、顔を上げて、彼の背中に向かって声をかけた。
「わ、私も……」
言葉と同時に、ぽろり、と涙が落ちる。
自分でも気づかぬうちに、目にいっぱいの涙が溢れていた。
「私も、雪村先生のことが好きです……」
止めようとしても止まらない涙とともに、氷雨は震える声で気持ちを伝えた。
驚いたように振り返る雪村。
いつになく動揺して、目を見開いたまま言葉を詰まらせる。
「ご、ごめん、氷雨さん……僕……」
「……なんで雪村先生が、謝るんですか……」
「だって……僕のせいで泣いてるでしょ?
……前にも言ったけど、僕……氷雨さんが泣いてる姿、苦手なんだ」
そう言いながら、雪村はおそるおそる指先を伸ばし、氷雨の頬をなぞるように、涙をそっと拭った。
「……雪村先生のせいじゃ、ないです……。
だから、謝らないでください……」
「ごめん……」
「また謝った……」
「あ……」
氷雨が少し呆れたように言うと、雪村ははっとして、目を伏せた。
そのしょんぼりとした表情に、氷雨は思わずぷっと吹き出してしまった。
この人はやっぱり、どこか子どもみたいだ。
涙をぬぐいながら、氷雨は笑顔を浮かべて、雪村に向き直る。
「雪村先生。これから、私の前では必要以上に謝らないでください。
……雪村先生は、謝らなくていいことに謝りすぎです。」
それは、かつて雪村が氷雨に言った言葉――
まるでそのまま返すようなセリフだった。
雪村は目を見開いてから、すぐにふっと笑った。
「……はは……氷雨さんには敵わないなぁ」
困ったように、でもどこか嬉しそうに笑うその顔を見て、氷雨の胸にぽっとあたたかい灯がともった。
氷雨も、涙を拭いながらくすりと笑った。
雪村の不器用な優しさに、自然と笑みがこぼれる。
二人は、そっと見つめ合う。
どちらからともなく、ゆっくりと手が伸び――そして、指先が触れ合い、重なる。
やわらかく、でもしっかりと、互いの手を握り合った。
その瞬間だった。
視線を海に戻すと、ちょうど水平線の向こうから朝日が顔を出し始めていた。
金色に輝く光が、波間にゆらゆらと揺れている。
その光はまるで、長い夜を越えてようやく辿り着いた二人を、優しく包み込むようだった。
「……こんな私でよければ、よろしくお願いします」
氷雨は小さく、でも確かにそう告げた。
その声は波の音に溶けるほど静かだったけれど、雪村の心にははっきりと届いた。
雪村は驚いたように一瞬目を見開き、そして、深く安堵したように微笑んだ。
氷雨の手を握る力が、ふいに少しだけ強くなる。
「……こちらこそ、こんな僕でよければ、よろしくお願いします」
ただその言葉だけで、氷雨の胸の奥がじんわりと温かくなる。
強くなくていい。
完璧じゃなくていい。
傷を持ったままでも、ちゃんと手を取り合って、これからを歩いていける――
そんな気がした。
ふたりは寄り添うように並びながら、まだ少し肌寒い潮風の中で、手を繋いだまま海を眺めていた。
ただ静かに、心地よい沈黙が流れる。
新しい一日が、光の中ではじまりを告げていた。
氷雨は、繋いだ手のぬくもりを胸の奥に感じながら、そっと目を細める。
これまでの自分だったら、
“こんな私”は、誰かに手を伸ばす資格なんてないって思ってた。
誰かに愛されるなんて、望んじゃいけないって。
でも――
雪村先生のその手は、ずっと変わらずにここにあって。
何度離れそうになっても、見失いそうになっても、
「ここにいるよ」って伝えるように、あたたかく繋いでくれた。
潮風が頬をなでる。朝日が差し込む。
世界は、少しだけ優しくなった気がした。
(……これから、どうなるか分からなくても、それでも――私は、もう一度ちゃんと信じてみたい)
歩き出す二人の影が、砂浜にゆっくりと伸びていく。
その先にある未来は、まだ何も見えないけれど、きっとこの手のぬくもりがあれば、もう怖くない。




