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いい子をやめた日

目が覚めた瞬間から、胃の奥に重たい石が沈んでいるようだった。

雪村は天井を見つめたまま、しばらく身動きひとつ取れなかった。

今日は——お見合いの日だ。


「……行きたくない」


喉の奥で呟いた声は、自分でも情けなくなるくらい弱々しかった。

ベッドから下り、機械のような動作で顔を洗い、トーストを焼く。

熱も冷めた朝食を口に運びながら、ふと氷雨の顔が脳裏をかすめた。

昨日の帰り際、彼女がどこか寂しげに見えた気がしたけれど——

いや、きっと気のせいだ。


氷雨は、自分に愛なんて向けてない。

僕を見ているようで、きっと別の誰かを見ているんだ。

……そう言い聞かせないと、今にも気持ちが崩れてしまいそうだった。


「……行かなきゃ、な」


誰にでもない声を部屋に残し、雪村はネクタイを手に取る。

鏡の中には、やけに疲れた男が映っていた。

この日を心待ちにしていた“普通の大人”を演じるには、少し無理がある顔だった。

どうしても、笑えなかった。


鏡を見て、最終確認として身なりを整える。

すると、「ピンポーン」とチャイムが鳴った。

時計を見れば、予定の時間よりだいぶ早い。


「……誰だ?」


訝しみながらドアを開けると、そこにはきちんと化粧を施し、薄いピンクのスカートを揺らした母が立っていた。


「えっ……お母さん!?なんで……」

「あら、驚いた?」


母は機嫌良さそうに笑った。


「支度が思ったより早く済んだから、迎えに来ちゃった!」


まるでピクニックにでも行くような、無邪気な声色だった。

雪村は、胃の奥がきゅうっと痛むのを感じた。

それでも顔に笑みを貼り付ける。

いい息子でいるために、言いたいことを喉の奥にしまい込む癖は、もうすっかり板についてしまっていた。


「……ちょうど僕も出ようとしてたところだよ。行こっか」


言いながら、靴を履き、母を玄関の外へ促す。

母は嬉しそうに頷いて、軽やかな足取りでついてきた。


駐車場に停めていた自分の車のドアを開け、運転席に座る。

母が何気なく助手席に乗り込んだ瞬間、

雪村の胸に、ちくりとした違和感が走った。


(——あ……氷雨さんの席。)


小さく、心の中で呟いた。

氷雨があの席に座ったときの姿が、ふいにまぶたの裏に浮かんで消える。

もう、彼女がこの車に乗ることはない。

そんなことは分かっているのに、誰かがあの場所にいるのが、妙に嫌だった。


「楽しみだわ〜!お相手、素敵な方だといいわね!ねぇ律、孫の名前は何がいいかしら?」


母の浮かれた声が、助手席から響いてくる。

雪村は前を見つめたまま、目を細める。


「……はは、気が早いなぁ」


かろうじて形にした笑い声は、どこか乾いていた。

そして、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

晴れた空が、やけに白く眩しかった。



---



会場前の駐車場に車を停め、エンジンを切る。

静かになった車内に、母の浮かれた声だけが残る。


「ほら、行きましょ。

今日という日は、あなたの人生が変わる日になるかもしれないんだから!」


雪村は無言でドアを開けた。

乾いた冬の風が頬を撫でる。

無機質な外観の会場ビルが、空の下に静かに佇んでいた。

ふと、隣に立つ母が何かを見つけたように小さな声を漏らした。


「……ねぇ、律……あの子……」


雪村は母の視線を追う。

その先にいたのは、会場の壁にもたれながら文庫本を開いている、1人の女の子だった。

髪が風に揺れ、ページをめくる手が少しだけ震えているように見えた。


「……氷雨、さん……?」


その名を口にしたとき、喉が詰まりそうになった。

母が首を傾げる。


「確か、律の教え子……だったっけ?

なんでここに……?」


そのとき、氷雨がこちらに気づいた。

「……あっ!」と小さく声を上げ、本をバサリと閉じる。

慌てた様子で足早に近づいてくる。

普段の氷雨からは考えられないような、雑な歩き方だった。


「雪村先生……!」


その声の直後、彼女は雪村の腕を掴んだ。

ぎゅっと強く。

だけど、その力は儚いほどに弱い。

それでも、雪村はその手を振り払うことはできなかった。

氷雨の瞳が、まっすぐに自分を射抜いていたから。


「雪村先生……行きましょう」


彼女の声は震えていた。

けれど、引っ張る手には確かな意志が宿っていた。


「ま、待ちなさい!」


母の声が鋭く空気を裂いた。

ビクリと肩を跳ねさせた氷雨。

掴んでいる手が、震えているのが伝わってくる。

それでも、雪村の腕を離そうとはしなかった。


「律はこれからお見合いっていう、大事なイベントがあるのよ!

用事があるなら後にしてちょうだい」


母親の言葉は冷たく突き放すようだった。

それに対して――

氷雨は母を睨んだ。

怯えるように、それでもまっすぐに。


「……雪村先生は……お、お見合いには行きません……」


言葉を絞り出すようにして、震える声で言った。

母の表情が、変わった。

眉をひそめ、目が鋭く細められる。


「は?」


低く、氷のような声音だった。

その視線を受けて、氷雨の体が再び震える。

でも——その目は、逸らさなかった。

たとえ、怖くても。

雪村の隣で、彼女は立っていた。

自分の足で。

自分の意志で。


「……私が……行かせません……」


氷雨のかすれた声が、冬の空気に微かに響いた。

震える声だった。

けれど、その小さな体から絞り出されたその言葉には、確かな“意志”が宿っていた。

母は眉をひそめて、眉間に皺を寄せる。


「……なに言ってるの、あなた……?」


小さく呟いたあと、少し首をかしげるようにして、苛立ったような声色に変わった。


「あなた、律の“教え子”でしょう?

なんでこんなことするの?

律は今から“幸せ”になりに行くところなのよ。

教え子なら、先生の幸せを願うべきでしょ?……ほんと、とんだ悪い子ね」


その言葉に、雪村の胸が強く締めつけられた。

氷雨を、悪い子なんて。

そんなふうに言われて、黙っていられるわけがなかった。


「……お母さん、それは――」


言いかけたその瞬間、氷雨の手が、彼の腕をぎゅっと強く握りしめた。

驚いて顔を向けると、氷雨がちらりとこちらを見て、ふっと微笑んだ。


「大丈夫です」


声には出さず、でも確かに、そう伝えている。

その微笑みは、不器用で、どこか今にも崩れそうだった。

だけど――たしかに、強かった。

そして、氷雨は母の方をしっかりと向いた。

その小さな肩を震わせながら、言葉を紡いだ。


「……なんでこんなことをするのか、ですよね。

私……私も最初は、雪村先生がお見合いするの、いいことだと思ったんです」

「じゃあ――」


母が言いかけた言葉を、氷雨は遮るように強い声で切った。


「でも――」


静寂が、ピンと張りつめる。

氷雨は、震える拳を胸元でぎゅっと握りしめながら、続けた。


「……それを決めるのは、私でも、お母様でもありません。

決めるべきなのは、雪村先生です。

雪村先生が、自分で決めなきゃいけないんです。お見合いをするのかどうかを。」


母は呆れたように鼻で笑った。


「はは……なにそれ。そんなの、決まってるじゃない。

ねぇ律? お見合い、したいわよね?」


母の言葉が、鋭利な刃のように雪村に突き刺さる。

その視線も、感情を操るような力を持っていた。

頭の中で、昔の声が再生される。


『ママを裏切るの?』


呼吸が荒くなり、胸が詰まる。

逃げたくなる。

額から、汗が一筋、流れ落ちた。

その時だった。

氷雨が、彼の手を両手で包み込むように握った。

ぬくもりが、流れ込む。

今にも崩れそうな彼の心に。


「……雪村先生、大丈夫です。

あなたは、もう……ひとりじゃないです」


その声は、暗闇の中で見つけた灯火だった。

雪村は、震える呼吸を整え、深く息を吸い込んで、母を真っ直ぐに見た。


「……俺は。

……俺は――お見合いは、しません」


母の目が細くなった。


「……は?」


その一言は、冷たく硬質だった。

でも、雪村はもう逃げなかった。

隣に、氷雨がいたから。

彼女の手が、まだ自分の手を包んでくれているから。


「お見合いなんて、最初からしたくなかった。

ただ……俺は、あなたのことが、怖かっただけなんだ」

「怖い? 律が、私のことを?

はは……そんな訳ないじゃない。

律はずっとママを愛してくれてた。

ママのために生きてくれてた。

……あんなクズみたいな父親と違って、律はママを裏切らないでしょ? ねぇ?」


母の声が、哀願にも似た歪んだ笑みに変わる。

雪村は少し後ずさった。

けれど、今度は、踏みとどまった。


「……俺は、もう……あなたの言いなりにはなりません。

俺の人生は、俺のものです。

……あなたのものじゃない」


その言葉に、母の顔が真っ赤に染まる。

イライラしたように髪をかきむしり、持っていたバッグを地面に叩きつけた。


「律……なんでそんな悪い子になっちゃったの……?

昔は、もっと“いい子”だったじゃない……

……もしかして……その子なの?

その子が律を誑かしてるのね?

ねぇ、あなた!

あなたは……何者なのよ!!」


鋭い指が氷雨を指す。

かつてなら、その怒声に震え上がっていたはずだった。

でも今は、不思議と怖くなかった。

隣に、彼がいるからだ。


「私は――」


氷雨は雪村と繋いだ手を、ぎゅっと強く握って、笑った。


「私は、雪村先生のことが好きな、ただの学生です!!」


その声は、小さな身体から放たれた、大きな宣言だった。

そして、氷雨は雪村の手を引いて走り出す。


「えっ、ちょ、氷雨さ……!」

「行きましょう、雪村先生!」


その笑顔は、太陽のように眩しかった。

眩しすぎて、目が離せなかった。

思わず、雪村も笑った。


「……うん」


2人は、お見合い会場とは反対方向へ――

母の怒声を背にして、ただまっすぐに走り出した。



---



エンジンの低い音と、タイヤがアスファルトをなぞるようなリズムだけが響く車内で、後部座席にはぐったりと座り込む雪村と氷雨の姿があった。


「つ、疲れた……」


氷雨が息を切らしながら、シートに背中を預ける。胸は上下に波打ち、汗ばんだ前髪が額に張り付いている。

運転席ではハンドルを握る榊が、バックミラー越しにちらりとその様子を見た。


「日頃からの運動不足が祟ったな、氷雨っち」


からかうように笑うその声は、どこか優しかった。

氷雨は「……榊くん、ありがとう」と息混じりに言葉を返す。

すると榊は、前を見たまま手を軽く振って、


「気にすんなって!どーせ今日は暇だったし。ダチのためなら協力したいからな!」


と笑い飛ばす。

氷雨の頬に、ほっとしたような微笑みが浮かぶ。

すると隣で、雪村が「ぷっ」と小さく吹き出した。

そして次の瞬間――


「あはははは!」


声を上げて、笑い出した。

思いきり、心の底から。


「雪村先生?」


驚いて氷雨が雪村を見る。

雪村は、吹き出しすぎてこぼれた涙を指でぬぐいながら、笑い続ける。


「ごめん……なんか、楽しくてさ」


小さな息をつきながら、まだ笑みを残したまま言う。


「初めてだよ。お母さんに反抗したの」


そう呟いたあと、雪村は氷雨の方にゆっくりと顔を向けた。

その目には、これまでに見せたことのない光が宿っていた。


「……氷雨さんのおかげだね。ありがとう」


穏やかに、でも確かに気持ちを伝えるように微笑む。

その笑顔を見た瞬間、氷雨の心臓がドクンと音を立てた。

あまりに優しくて、まっすぐで、泣きたくなるほど嬉しくて――

氷雨は小さく頬を赤らめ、視線を逸らす。

すると今度は雪村が前を向き直り、榊に視線を送った。


「榊くんも……ありがとう」


その言葉に、榊は一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。

そして――


「おぉ……雪村センセーが俺の名前を呼んだ……スゲー……」


と、やたら感動したように言ってから、おどけて笑う。

和やかな空気が、ゆっくりと車内を包み込んでいく。

それは、雪村にとっても氷雨にとっても、きっと「初めて」の種類のあたたかさだった。



---



いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。

氷雨がゆっくりと目を覚ますと、自分の肩に柔らかい重みがかかっていることに気づく。


「わっ……」


思わず声を漏らしてしまう。

隣を見ると、雪村がすやすやと眠っていた。

そのあどけない寝顔に、氷雨の顔は一気に真っ赤になる。


「……っ、ど、どうしよう……」


すると、運転席から声が聞こえた。


「お、氷雨っち、起きた?」


バックミラー越しに榊が笑顔でこちらを見ている。


「う、うん……ごめんね、寝ちゃってた……」

「全然!むしろ疲れてるとこ起こすのはばかられたから、起きてもらえてよかったわー!

……ほら、ちょうど着いたとこ!」


榊の言葉に、氷雨はそっと体をずらして窓の外を見る。

そこにあったのは、都心の高級住宅街に建つ、堂々とした外観のマンションだった。


「え、ここって……?」

「ん?ここが俺ん家!」


さらっと言ってのける榊に、氷雨が驚いて言葉を詰まらせる。


「さ、榊くんって……」


そのとき、隣から静かな声がした。


「……確か、御曹司……だったよね」


驚いて振り向くと、雪村が目を覚ましていた。


「ゆ、雪村先生、起きたんですか?」

「うん」


そう答えた雪村は、ふと自分が氷雨の肩に寄りかかっていたことに気づく。


「……あ。ご、ごめん。」


慌てて体を離す雪村。

どこか、耳まで赤い気がする。

氷雨もまた、顔を赤らめてそっと視線を落とす。


「い、いえ……大丈夫です……」


そんな2人のやり取りを、榊はミラー越しにニヤニヤと眺めている。

その視線に気づいた氷雨が、慌てて話題を逸らす。


「じゃ、じゃなくて!榊くんって、お、御曹司……なの?」


榊は肩をすくめて笑った。


「あー、まぁ、金持ちの息子だな。

んで、その父親が結構な過保護でさ。

『ここに住め』って言われて、仕方なく住んでる感じ!」

「そうなんだ……」


いまだにピンと来ないながらも、なんとか返事をする氷雨。


「ってことで……2人とも、今日は俺ん家に泊まってもらいます!」


その唐突な宣言に、氷雨と雪村は思わず声を揃えた。


「「えっ」」

「大丈夫大丈夫!俺、意外と綺麗好きだから、部屋はめっちゃ綺麗だし!」


榊が自信満々に言うが、氷雨はまだ戸惑っていた。


「い、いや……そういうことじゃなくて……」


言い淀む氷雨に、榊は不思議そうに首を傾げる。


「え、泊まってかねーの?

だって、お泊まり会なんて人数が多い方が楽しーじゃん。

それに、雪村センセーだって氷雨っちがいた方が嬉しいだろうし」


その言葉に、雪村がびっくりしたように目を見開き――

少し間を置いて、ふっと微笑んだ。


「……そう、だね。氷雨さんがいてくれたら、嬉しい」


その笑顔を見て、氷雨の胸がドキンと跳ねる。

“可愛い”――そう思った瞬間、自分の頬がまた熱を持つ。


「……ゆ、雪村先生がそう言うなら……お、おじゃまします……」


そう言うと、榊は大喜びで手を叩いた。


「っしゃー!決まり!じゃ、早速俺ん家行くぞー!」


そう言って車から勢いよく降りる榊。

氷雨もあわあわしながらその後を追う。

最後に、雪村が小さくため息をつきながらも、

どこか嬉しそうに微笑んで、ゆっくりと車を降りた。



---



エントランスを抜け、エレベーターで上がると、最上階の角部屋。

榊が鍵を開けると、ふわりと柔らかい木の香りがした。


「はいはーい、どうぞー!……あ、土足厳禁だから靴脱いでね!」

「わ、玄関……広い……」


氷雨は思わず声を漏らす。

靴箱も棚もシンプルながらお洒落で、床もピカピカに磨かれていた。


「……ほんとに、綺麗好きなんだね」


雪村が感心したように呟くと、


「潔癖とまではいかないけど、なんか散らかってると落ち着かなくて……」


榊がはにかみながらもスニーカーを脱ぎ、スリッパを履く。

氷雨と雪村も、それに続けて靴を脱いだ。


リビングは広く、天井も高い。

大きな窓からは街の景色が一望できる。

3人はソファに腰をかけ、しばし無言で景色を眺めた。


「……なんか、すごい。

榊くんがこんな場所で暮らしてるなんて……。」

「すごいかな? でもまぁ、広すぎて逆に落ち着かないときはあるよ。

俺ひとりじゃ持て余すし」


そう言って榊はスマホを取り出す。


「とりま、腹減ったっしょ? 出前取ろーぜ。ファーストフードでいい?」

「じゃあ、お願いします」

「わ、わたし、ハンバーガー食べたい……」


雪村と氷雨が順に頷く。

ほどなくして、出前が到着した。

テーブルに並べられたハンバーガーとポテト、ドリンク。

紙袋から立ち上る香ばしい香りに、氷雨のお腹が鳴る。


「……あっ」

「ふふ、いい音だったね」


雪村がやんわり笑うと、氷雨は顔を真っ赤にして「わ、わざとじゃないです……!」と抗議する。


「よっしゃ、じゃあ!

いただきまーす!」


榊がポテトを片手に宣言すると、3人のランチタイムが始まった。


「このポテト、揚げたてで美味しい……」

「雪村センセー、ケチャップいります?」

「ありがとう……って、榊くん、ソース3種類も頼んでるの?」

「当たり前っすよ!ディップで味変しながら食うのが通なんすよ〜!」


わちゃわちゃと笑い合いながら、食べ進めていく3人。

さっきまでの重苦しい空気は、どこかへ消えていた。

ふと、氷雨が口元を拭きながら呟く。


「……こうしてると、普通の休日みたいですね」

「……うん」


雪村は穏やかに頷く。


「普通、がこんなに幸せに感じるとはね……」


その言葉に、誰も何も言わなかったけれど。

胸の中に、静かであたたかい感情が広がっていた。



---



食べ終えた空の紙袋をまとめながら、榊がふいに立ち上がった。


「よし、じゃあ俺はこれから晩ご飯の買い出し行ってきまーす!」

「……お買い物?じゃあ、私も手伝うよ」

「僕も行くよ」


氷雨が立ち上がりかけると、雪村もすぐに言った。

だが、榊は2人に向かって手をひらひらと振って、

「あー、いいよいいよ!」と軽く断る。


「雪村センセーはさ、あんま外出ない方がいいって。

ほら……またあの母親と遭遇したらヤバいっしょ?」


その言葉に、雪村は何も言えなくなってしまった。

唇を結んで、うつむく。

空気が少しだけ重くなったところで、榊が氷雨に向き直る。


「んで、氷雨っち。氷雨っちは雪村センセーと一緒にお留守番お願いしてもいい?」

「え……で、でも……榊くん一人で行かせるのは……」

「へーきへーき。俺、一人で買い物とか慣れてるし」


そう言って、榊は少しだけ声のトーンを落として、氷雨にそっと顔を近づけた。


「……あとさ。氷雨っちには、今は雪村センセーと一緒にいてやってほしいんだよね」

「…………あ」


氷雨は、榊のまっすぐな目を見て、一瞬言葉を失う。


「……うん、わかった」

「サンキュ!じゃ、ちょっくら行ってくるわ!なんかあったら電話して!」


榊は笑顔で手を振り、軽やかに靴を履いて、玄関を出て行った。

ドアが閉まった瞬間、静寂が降りる。


「……」

「……」


部屋に残された氷雨と雪村は、ぎこちなく目を合わせられず、しばらく黙ったまま過ごす。


(き、気まずい……)


氷雨は内心焦る。


(何か、何か……会話の糸口……)


カバンに目をやると、さっき読む予定で持ってきていた文庫本が2冊入っていた。


(……これだ!)


「あっ、あの……雪村先生」


思いきって声を出すと、雪村がびくりと肩を動かして振り向いた。


「本、読みませんか……?これ、同じシリーズで……」


そう言って、氷雨はおずおずと2冊の本を取り出した。

雪村は少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑む。


「……うん、ありがとう。読ませてもらうね」


2人はソファに並んで座ることにした。

距離は近すぎず、でも微妙に意識してしまう“隣”。

ページをめくる音だけが静かに響く。


――のはずだったのに、氷雨の視線はページではなく、チラチラと雪村の横顔に向かっていた。


(……心臓の音がうるさくて、何も頭に入ってこない……)


ふと、雪村の方をこっそり見上げる。

その瞬間。

雪村も、ちょうど同じタイミングで氷雨を見ていた。

ぱちり、と目が合う。


「「あっ……」」


2人は揃って顔を赤らめて、視線を逸らす。


「ご、ごめんなさい、その……」

「い、いや……僕の方こそ、ごめん……」


照れたように笑う雪村の横顔に、氷雨の心臓が跳ねた。

さっきまでの気まずさは、どこかに溶けていったようだった。


静かにページをめくる音が続いた後、氷雨がそっと口を開いた。


「あの……雪村先生……」

「ん?」


雪村が顔を向ける。

氷雨は、少し俯きながら言葉を探しているようだった。


「今朝……お母さんの前で言ったこと、なんですけど……」


その声は小さくて、でもしっかりと耳に届く。


『私は、雪村先生のことが好きな、ただの学生です!!』


「あぁ……」


雪村は、さも今ようやく思い出したような顔をして相槌を打った。


「……あれ、思い返すと、すごく恥ずかしくて……」


頬を赤らめながら、氷雨はしゅんと肩をすぼめる。


「でも……あれはその……嘘、じゃないです。多分」

「……多分?」


雪村がやわらかく聞き返す。

氷雨は目を伏せ、指先をそっと重ねるようにして、ぎゅっと握った。


「……私は、雪村先生を守りたいって、思ってます。

でも、それが“好き”ってことなのか、私自身、まだ分からなくて……」


言葉にすると、不安になる。

けれど、嘘はつきたくなかった。

すると、静かに間があいて――雪村が氷雨をじっと見つめる。


「……じゃあ……確かめてみる?」

「え……?」


氷雨が戸惑うよりも早く、雪村はそっと氷雨の頬に手を添えた。

その手は、ひんやりと冷たかった。


「嫌だったら、拒否して」


その声は真剣で、まっすぐだった。

氷雨は一瞬だけ迷ったが――小さくうなずき、ぎゅっと目を閉じた。

雪村の気配が近づく。

唇が触れる、寸前――。


「ただいまー!! タイムセールで爆買いしてきた!!

今日はすき焼きっすよーーーー!!!」


玄関のドアが勢いよく開いた。

買い物袋をいくつも抱えた榊が、テンション高く帰宅する。


「……っ!!」


氷雨と雪村は、はじかれたように距離を取った。

氷雨の顔は、真っ赤というより、湯気が出そうなほど熱くなっている。

雪村は手で額を押さえながら、溜息混じりに言った。


「……君は、気を使えるのか使えないのか、どっちなの?」

「え……なに? 俺、なんかやらかした……?」


キョトン顔の榊が、全く状況を理解できていない様子で首を傾げていた。



---



晩ご飯は、榊の宣言通りすき焼きになった。

3人でキッチンに立ち、料理に不慣れな氷雨を榊と雪村がそっとフォローしながら、なんとか夕食が完成する。

大皿に盛られた肉や野菜を囲んで、湯気の立つ鍋を囲む3人。


「……美味しいね」


雪村がぽつりと漏らすと、


「でしょ!? いい肉買ったかいがあったっすよー!」


と、榊が満足そうに胸を張る。

氷雨はというと、初めて食べるすき焼きに目を輝かせながら、夢中で肉を頬張っていた。


「氷雨さん、ゆっくり食べないと、喉に詰まらせちゃうよ?」


雪村のやわらかな声に、氷雨はハッとして手を止める。


「ご、ごめんなさい……」


頬を赤らめる氷雨に、榊がニヤリと笑って、


「わはは! 氷雨っち、怒られてやんの〜!」


とからかう。

氷雨は頬をぷくっと膨らませて、

榊のすねをこっそり足でコツンと蹴った。


「いてて!ごめんて!」


そんな微笑ましいやりとりに、雪村はふっと楽しそうに笑っていた。



---



夜。


『俺と雪村センセーは同じ部屋で寝るから、氷雨っちは別部屋で寝て!』


と榊に案内された寝室で、氷雨はベッドに横たわっていた。

だけど――眠れない。

本を読んでしばらく過ごしていたが、時計の針はすでに深夜を指している。

それでも眠気はこなかった。


「……水でも飲もうかな」


氷雨は静かにベッドを抜け出し、リビングへと向かう。

ふとリビングを覗くと――

そこには、ソファに座って窓の外を眺める雪村の姿があった。


「……雪村先生?」

「あ……氷雨さん。

もしかして、眠れないの?」

「はい……なんだか、目が冴えちゃって」

「はは、僕もだよ。疲れてるはずなのに……なんだか、気持ちが昂ってて」


氷雨はソファの隣にそっと腰を下ろす。

二人で静かに、夜の空を見上げた。

月は、ちょうど満ちていた。


「……月が綺麗だね」


雪村がぽつりと呟いた瞬間、

氷雨の心臓が跳ねる。


(え、えっ、こういうとき、なんて返すんだっけ……!?)


頭の中がぐるぐると回る。

赤くなった頬を隠そうと視線をそらす氷雨に、雪村がふっと笑った。


「あはは! 氷雨さんって、やっぱり分かりやすいね」

「……っ!」


氷雨は、拗ねたようにぷいっと顔を背ける。


「ごめんごめん。可愛くって、つい」


雪村の声は、少し甘えているような響きがあった。


「……雪村先生は、ずるいです」


氷雨がぽそっと呟くと、


「うん、そうだね……僕はずるいのかもしれないね」


と、雪村は少し寂しそうに微笑んだ。


それ以上、何も言わずに二人は月を眺める。

夜の静けさに包まれながら。


やがて――

そっと、互いの手が重なった。

どちらも、少し冷たかった。

だけど、それが心地よかった。

ふたりは小さく笑い合う。

見つめ合う視線。


そして、言葉もなく――唇が重なった。


長く、静かなキス。

月の光が、ふたりを優しく照らしていた。


(あぁ、そうだった……)


氷雨の中に、ふと浮かぶ言葉があった。


(こう返せばよかったんだ――


『ずっと一緒に見ていたいです』って)


ふたりの唇は、そっと離れた。

けれど、視線はそのまま、優しくつながっていた。

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