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こころが君に会いに行く

昼下がりの学生食堂は、いつもの賑わいに包まれていた。

氷雨は、友人たちと他愛もない会話を交わしながら、手元のパスタを何気なくフォークで巻き取っていた。けれど、心は上の空だった。


「ねぇこれ、映えない?」


女友達がスマホの画面を見せてきた。

そこには、海辺の小さなカフェの写真が写っていた。


「かわいい……」


氷雨は口元で微笑む。

だけどその瞬間、脳裏にふっと浮かんでしまう。


(……ここ、雪村先生と来たら喜びそうだな)


胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


(あ、まただ)


どこにいても、何をしていても。

まるで風のように、雪村律の記憶は彼女の中にふいに訪れる。


夕方、学生寮の談話室で。

榊はソファに座り、スマホゲームをしながら、隣にいる氷雨と適当な話を交わしていた。


「なあ、氷雨っち、明日って講義何時からだっけ?」

「あ、10時半から……えっと……」


手帳を見ようとして、ふと視界の端に映るティーカップに目が止まった。

白と青の、静かな色合いのカップ。

無意識に、つい口にしかけていた。


「ふふ、これ、雪村先生が――あっ」


氷雨は慌てて口を塞ぐ。

その様子に、榊は視線を外さず、ふっと眉を上げた。


「……まーた雪村センセー?」

「ご、ごめん……」


小さく呟く氷雨に、榊は無愛想に肩をすくめた。


「いや、別に謝んなくていいけどさ……

氷雨っち的には、これで良かったわけ?」

「……うん」


小さく頷いた氷雨の声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。


「雪村先生には、幸せになってほしいから……でも、幸せにするのは、私じゃない」


その声に、榊の手元のスマホゲームの音が止まった。

しばしの沈黙。


「……”幸せになってほしい”って、好きな人に思うもんなんじゃねーの?」


その言葉は、氷雨の心にまっすぐ刺さった。

何かを言おうとしたけれど、喉がつかえて声にならない。

榊はじっと氷雨を見つめて、さらに問いを重ねた。


「氷雨っちは『雪村センセーは自分のこと好きじゃない』って言ってたけどさ、逆に聞くけど――氷雨っちは、雪村センセーのこと好き?」


その言葉に、氷雨は目を見開いてから、すぐに俯いた。

胸の奥からこみ上げてくる何かを抑えるように。

数秒の沈黙のあと、やっと、絞り出すように答えた。


「……好き」


その声は、かすれていて、それでも確かだった。

榊は何も言わず、ただ「そっか」とだけ呟いた。

カップの中のミルクティーを見つめながら、氷雨はぽつりと言う。


「……好き、だけど……でも、雪村先生はきっと、私がいるとダメになる……」


向かい側の榊は、その言葉を遮らずにただ見守っていた。

氷雨は続ける。


「私の存在が……雪村先生を壊しちゃうの。

あの人、すごく優しいけど、だからこそ、壊れやすい。

私がそばにいたら……甘えさせちゃう。

きっと……それがダメなんだよ……」


自分の指先を見つめながら言ったその言葉には、悲しさと諦めが滲んでいた。

しかし、榊はあっけらかんとした調子で言葉を返す。


「じゃあさ、雪村センセーがダメにならないように、氷雨っちが支えてあげるってのはどう?」

「……支える?」


榊の言葉に、氷雨が顔を上げる。


「そう。だって氷雨っち、前と違って、もうちゃんと自分の気持ちとか意見、言えるじゃん?

それってすげーことだと思うよ」

「……でも、それで支えられるのかな」

「いけるっしょ。

氷雨っちが「ダメ!」って叱ったら、雪村センセー、絶対言うこと聞くと思うよ。

あの人さ、氷雨っちの前だとちょっと子どもみたいになるんでしょ?」


榊の言葉に、氷雨は少し驚いたように目を見開く。

たしかに、思い返せばあの人は自分の前でだけ、時折まるで迷子のような顔をしていた。

弱さを見せてくれた。

だからこそ、自分が「ダメ」って言えば、その声をちゃんと受け止めてくれる気がした。


「……私に、できるかな」

「できるって。

氷雨っち、もう変わったよ。

たぶん、自分で思ってるよりずっと強い」


榊はそう言って、軽く微笑んだ。

氷雨は胸の奥で小さな光が灯るのを感じた。

それは、諦めの中に隠れていた希望の欠片だった。



---



研究室の蛍光灯が、無機質な白で雪村を照らしていた。

静寂。

聞こえるのは、パソコンのファン音と、自分の呼吸だけ。

デスクに伏せたスマホの画面が点滅する。

通知。

手を伸ばして拾い上げたそこには、母からのメッセージ。


『お見合いの日程、今週の日曜になったから!準備しておいてね!

愛してるよ♡』


ふぅ……と深い、深い溜息が漏れる。

指先で画面をスクロールする。

そこにあるのは、縁談相手の女性の写真。

知らない人。

名前すら、どうでもいい。


お見合い。

結婚。

家。

“優秀な息子”。


――どれも重くて、息が詰まりそうだった。


「……したく、ないな。」


掠れた声。

雪村は自嘲するように笑った。

どうして好きでもない人と結婚しなければならないのだろう。

自分の人生は、自分のもののはずなのに。


(好きな人……)


その言葉に反応してしまうのが、悲しかった。

氷雨の顔が、ありありと浮かぶ。


けれど同時に――


『雪村先生は、多分、私のこと好きじゃないですよ』


あの時の氷雨の声が頭の中に響いた。


「……じゃあ、今までの俺の気持ちは、なんだったの?」


気づいたら、呟いていた。

たしかに。

氷雨に惹かれた理由は、自分に似ていたからだった。

孤独。

無音の中にただ一人立つ感覚。

誰にも気づかれずに消えていく不安。

そこが出発点だった。


でも――


氷雨と話すときのあの胸の高鳴り。

笑ってくれた時の安堵。

触れた時の温度。

全部、自分が確かに感じたものだった。


「……あるはずだ。あったはずだよ……」


震える唇で必死に言い聞かせる。


――ないと言われたら、否定できない。

――否定できなかった自分が、惨めだった。


雪村は机に腕を投げ出し、そのまま額を押しつけるように伏した。

息が苦しい。

胸が潰れそうだ。


「……氷雨さん以外と結ばれるくらいなら、俺は……」


沈む声。

涙と呼ぶにはあまりにも温度を欠いた、乾いた絞り声。


「……消えたいよ」


届かない、助けを求める小さな声。

研究室の空気が冷たく、彼を締めつけ続けた。

雪村はもう、自分がどうしたらいいのか、何を望んでいるのか、分からなくなり始めていた。



---



いつの間にか、雪村は静かに眠りへと落ちていた。

薄暗い研究室の空気が、彼の意識をゆっくりと過去へ引き戻していく。


――そこは、小さなアパートの一室。


幼い律が、テーブルの前で鉛筆をぎゅっと握っている。

消しゴムはすり減り、ノートは真っ黒になるほど書き直した跡がある。


「律、テストどうだった?」


弾むような声。期待に満ちた瞳。

幼い律は、震える手で答案を見せる。


「……99点」

「そう。えらいわ、律。

やっぱり律はママの自慢の子ね」


母は満足そうに頭を撫でた。

その瞬間、律の胸は温かくなる。

嬉しかった。

けれど――その裏側にいつも不安が潜んでいる。


(もし、次は99点じゃなかったら?

もし、僕が間違えたら?)


ある日、たった一問のミスで80点を取った。

それだけのことだった。


「どうして?律ならできたはずでしょ?

……あぁ、パパに似たのね。

律、あの人みたいにママを裏切るの?」


幼い腕をぐっと掴まれる。

母の目には涙が滲んでいた。

悲しみと怒りと期待が混ざり合った目。

律は必死に謝る。

裏切りたくなかった。

母が泣くのが怖かった。


「律だけはママを裏切らないでね。

律だけは、ずっとママの味方でいてね。

律はママだけを見てくれたらいいの。

ママには律しかいないのよ」


毎日、繰り返される呪いのような言葉。

律は学んだ。

愛されるためには、完璧でいなければならない――と。


だから勉強した。

だから笑った。

だから母の望む「理想の息子」を演じ続けた。


けれど、母の支配は勉強だけにとどまらなかった。


ある日、律に初めての友達ができた。

勉強が苦手で服は少し汚れていたけど、優しくて、いつも笑ってくれた。


「ママ、健くんと遊んできてもいい?」


そう聞いた律に、母はぴたりと動きを止めた。


「たける、くん? それって……貧乏で、汚い子じゃない。

そういう子とは一緒にいちゃダメよ。

お友達になるなら、そうね……ほら、あの子。

お父様があの会社で働いている……あきらくん……だったかしら?

あの子が、律にはふさわしいわ」

「で、でも……」

「でも、何? ママを裏切るの?」


その言葉で、律は何も言えなくなった。

友達の笑顔が、目の前で静かに遠ざかっていった。

律は気づく。

ママ以外の人は、ママから僕を奪う存在だ。

だから――必要ない。

他の人間に、期待してはいけない。


息が、できない。

泣いちゃいけない。

母が悲しむから。


――ある日、律は理解する。


「愛してる」と言われるたびに首が締まる。

「裏切らないで」と抱きしめられるたびに、鎖が重くなる。


愛情は優しくて温かいものだと誰かが言った。

でも律にとって愛は――逃げられない牢獄だった。


だからこそ、

同じ匂いのする孤独な少女に出会ったとき、

どうしようもなく惹かれてしまった。


(君なら、僕を置いていかない。

君だけは、僕を裏切らない。

君がいなければ、僕は存在できない――)


幼い律が苦しそうに声を絞り出す。


「行かないで……ママ……」


その言葉は、大人になった今はもう違う相手へ向けられている。


「……氷雨、さん」


雪村はうなされながら小さく呟いた。


夢の中の鎖はまだ重く、

彼の心を締め付け続けている。



---



強めのノックの音が、研究室の沈黙を破った。

「コンコン」と、まるで律儀に現実へと引き戻すような音。

雪村は机に突っ伏したまま、ぼんやりと意識を浮上させた。

瞼が重い。体が鉛のように動かない。

なのに、頭の中では言葉が響く。


――完璧な雪村先生にならなきゃ。

……また、仮面をかぶらなきゃ。


けれど、身体は応えてくれなかった。

次の瞬間、「ガチャリ」と扉が開く音がして、雪村は視線だけを扉のほうへ向けた。


「失礼しまーす……」


軽い声。

立っていたのは、見覚えのある金髪の男だった。

細身で、気の抜けた制服の着方をしている。


「うっわ、なんか暗ぇな。空気もどんよりしてる……とりま窓開けていいっすか?」


返事も待たず、彼はブラインドを上げて窓を開けた。

鈍く澱んだ空気が揺らぎ、光が差し込む。


榊悠生だった。


雪村は眉ひとつ動かさず、机に視線を戻した。


「……なんだ、君か」


低く、かすれた声。その目には生気がない。


「はい、俺です。榊悠生です!」


榊はいつも通りの調子で笑う。


「って、もう知ってるっすよね。調べたんでしょ?俺のこと」


雪村は何も返さなかった。

榊はそれを気にも留めず、肩をすくめるように続ける。


「で、調べてみて、雪村センセーはどう思いましたか?俺のこと!」


雪村は一瞬だけ榊のほうへ視線を向ける。

そのまま淡々と答えた。


「……僕の苦手なタイプかな」

「え、ひっど!なんすかそれ!」


榊は大袈裟にショックを受けたような仕草をしてみせる。

雪村はまた、小さくため息をついた。

榊は雪村の死んだような目を見て、ふと真面目な声を出した。


「……てか、雪村センセーって、普段はそんな感じなんすか?

いつもの、女子にモテモテ男〜!みたいな感じじゃないっすね」

「それは君たち学生が勝手にイメージをつけてるだけだよ」


雪村は面倒くさそうに吐き捨てた。

榊はそれを聞いて、「あぁ、なるほど」と納得したように頷いた。


「俺と一緒っすね」

「はぁ?」

「や、ほら。俺も、勝手にイメージ付けられがちなんで。チャラそう、とか。女を取っかえ引っ変えしてる、とか」

「……アロマンティック、だよね」

「お、さすが雪村センセー!知ってるんすね」

「……調べたからね」

「あ、そっか。

……なのに、氷雨っちに俺について悪く言ったんですか?」


雪村は口を閉ざす。

榊は首を傾げながらも、明るく続けた。


「や、別に俺は怒ってないっすよ。

そういうの、言われ慣れてるんで。

でも、詳しくは言ってくんなかったけど、氷雨っちが結構怒ってたから……多分、俺のこと言われたのかなーと思って」


意外と勘が鋭い。

雪村は内心、そう思った。


「……ごめん」


ぽつりと、雪村は謝った。


「俺に謝んないでくださいよ。

謝る相手は、氷雨っちでしょ」

「……」

「でも、氷雨っち、許してくれっかな〜。

氷雨っち、俺のこと大好きだからなぁ。

俺を悪く言ったこと……意外と根に持ってたりして?」


少し煽るように言う榊に、雪村は目を細める。


「君は、恋愛感情を持たないんだよね?」

「はい、持てません」


榊はキッパリと答えた後、肩をすくめて付け加える。


「でも、俺は氷雨っちのこと大好きだし、氷雨っちも俺のこと大好きだと思いますよ」

「……どういうことかな」

「ん?ほら、"好き"って言っても、色んな種類があるじゃないすか。

恋愛だけじゃなくて、友情とか、尊敬の意とか」


雪村は沈黙する。

やがて、ぽつりと呟く。


「……じゃあ、僕のこの気持ちは、なんなんだろう」

「ん?氷雨っちに対する気持ちっすか?」

「……分からないんだ。

恋って、愛って、幸せって……なんなんだろう」


榊は一瞬きょとんとした後、ぱっと表情を明るくして笑った。


「分かんないんなら、これから知ってけばいいじゃないっすか!」


その言葉に、雪村は思わず顔を上げた。

榊の顔が、差し込む光に照らされて、まるで夏の太陽のように眩しかった。


「知らないことを徹底的に調べて知る……雪村センセーの得意技じゃないっすか。

ストーカー技術が活かせるときが来たっすよ!」

「……僕は別にストーカーじゃないんだけど」

「ほぼ氷雨っちのストーカーみたいなもんっすよ?」


何も言い返せなかった。

榊は窓辺から戻りながら、軽く肩をすくめるようにして言った。


「とにかく……自分で確かめてみたらいいんじゃないすか?

雪村センセーの、氷雨っちに対する感情が、本当は何なのか」

「……」

「大丈夫っすよ、雪村センセー。大抵のことって、なんとかなるっす!」


あまりにも軽く言う榊に、雪村は思わず、小さく笑った。

ほんの少しだけ、唇の端が持ち上がる。


「……やっぱり、僕は君みたいな人、苦手だな」


そう呟いた声には、ほんの少しだけ、温度があった。



---



あれから、数日が経った。

お見合いの日まで、残り二日。

榊に背中を押されたものの、未だに雪村はどうしたらいいか分からずにいた。

ただぼんやりと、窓の外を見つめる。

雨が降ってきたことに、最初はただ気づいただけだった。


(今日は雨か……)


だがその雨は、次第に激しさを増していく。

ざあざあと音を立てる雨の音が、研究室の静けさを塗りつぶしていく。


そして――雷鳴が、夜空を引き裂いた。


ビリリと胸が震えたような感覚。

その瞬間、雪村の脳裏に、ある姿がはっきりと浮かんだ。


「っ氷雨さん……!」


思考よりも早く、身体が動いていた。

椅子を押しのけ、研究室を飛び出し、廊下を駆け出す。

どこにいるのか分からなくても、とにかく探さなければと思った。


(……今の氷雨さんには、もう俺じゃなくても支えてくれる人がいる。

きっと……俺なんかいなくても、氷雨さんは笑えるようになった……それでも……!)


雷鳴が轟くたびに、胸がざわついた。

あの子が怯えていないか、泣いていないか――気が気じゃなかった。

息を切らしながら、廊下を駆け抜ける雪村。

足音が、濡れた床に響く。


(守りたいとか、助けたいとか、そんなことじゃない……

ただ……ただ、氷雨さんの笑顔が見たいんだ。

何より、氷雨さんに泣いていてほしくない。

どこかで泣いてるかもしれないあの子を、放っておけない――)


胸の奥から、初めての感情が込み上げてくる。

焦り、不安、そして――祈り。

そして、気付く。


(あぁ、そうか。

俺は……氷雨さんのことを……)


「……愛してるんだ」


その言葉は、無意識に口から零れていた。

雷の音にかき消されるようにして、それでも確かに、自分の中に響いていた。



---



昼過ぎ、教室の喧騒から少し距離を置くようにして、氷雨はひとり外廊下へと出た。

榊や他の友達とは、ついさっきまで楽しく過ごしていた。

少しずつ「日常」に溶け込めている自分に気づいていた。

けれどふと、ぽっかり空いた時間が怖くなって。

逃げるように歩き出した。

気付けば、図書館の方向へと足が向いていた。


そのとき――


「……すごい雨……」


空を仰いで、氷雨は小さく呟いた。

冷たい風が髪を揺らし、濡れた地面を叩く雨粒の音が耳に届く。

傘は持っていない。

けれど、構わず歩き出した。


(これ以上、酷くならなければいいけど……)


そう思いながら、静かに濡れた道を進んだ。

図書館の前まで辿り着いた、まさにその瞬間だった。


――ドカーーーン……!!


激しい雷鳴が、空を引き裂いた。


「――っ!」


驚いた拍子に、肩に掛けていたカバンが手から滑り落ちた。

氷雨は反射的に両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込む。

震えが止まらなかった。

世界が、一瞬で過去に引き戻されていく感覚。

音が、記憶の中の誰かの怒声と重なっていく。

自分の心が、自分のものじゃなくなるような、そんな感覚。


「……助けて……」


それは、ごく小さな声だった。

けれど、自分でも驚くほど自然に口をついて出た言葉。


「雪村、先生……」


自分が呼んだその名前に、氷雨自身が目を見開いた。

どうして、あの人の名前が……。

それを考える前に、今度は――


「氷雨さん!!」


――強くて、優しい声が届いた。


「え……?」


雨音の中、バタバタと足音が近づいてくる。

次の瞬間、濡れた身体ごと、誰かの腕に包まれた。


「……っ!」


胸元に顔を押し付けるように抱きしめられた氷雨は、驚きながらも、そのぬくもりに身体の強張りが解けていくのを感じた。

顔を上げると、そこには――


「雪村、先生……?」


息を切らし、眼鏡を曇らせながら、それでも真剣な眼差しで氷雨を見つめてくれる人がいた。


「氷雨さん……大丈夫、大丈夫だから……」


そう言いながら、雪村は震える背中をそっと撫でてくれる。

その優しさに、涙が溢れた。

怖くて、苦しくて、逃げたかったはずの世界に――今、確かに「居場所」があるような気がした。


「……せんせ……」


涙で濡れた目で、氷雨はもう一度、そっと呟いた。



---



雨の音はまだ、遠く窓の外で続いていた。

研究室の空気は静かで、少し肌寒かった。

氷雨は椅子に座り、肩に掛けられたブランケットをそっと握っていた。

雪村が差し出してくれたカップには、あたたかな湯気が揺れている。


「……落ち着いた?」


そう優しく尋ねる声に、氷雨は少しだけ目を伏せて、小さくうなずいた。


「……はい……」


掠れた声だったけれど、その一言に、雪村は安心したように息を吐く。

しばらく沈黙が落ちる。

雨音だけが、二人の間を埋めていた。

やがて、氷雨が口を開く。


「……あの……雪村先生……」


少し震える声だった。


「……どうして……来てくれたんですか?」


雪村は一瞬目を伏せ、そして、暗い表情のままゆっくりと答えた。


「……ごめんね」


その言葉は、まるで自分を責めるように静かだった。


「“もう関わらない”って、言ったはずなのに……

……雷の音を聞いたら、勝手に体が動いてた」


そのまま氷雨の方へ向き直り、困ったように、でもどこか寂しげに笑った。


「……僕は、氷雨さんが泣いてる姿を見るのが、苦手みたい」


その言葉に、氷雨の胸がちくりと痛んだ。

目の前で笑う雪村の顔が、どうしようもなく悲しそうに見えた。


「それは……どういう――」


氷雨が思わず問いかけようとした、そのときだった。


――ピロン。


静かな部屋に、スマートフォンの通知音が響いた。

雪村はふとポケットから取り出して、画面を一瞥し、すぐに小さくため息を漏らす。


「……お母さん、ですか?」


氷雨がそっと問いかける。

雪村は、苦笑いを浮かべてうなずいた。


「うん。

……お見合い、日曜日だから準備しておけ、って」


小さく、乾いた声で続ける。


「……準備って、何すればいいんだろうね」


その頼りない顔。

心ここにあらずのような、その笑顔。

氷雨は、胸の奥がじんと痛むのを感じた。

何かを言いたい。

けれど、言葉が見つからない。

ただ、目の前にいる彼の「孤独」が、自分の中にも確かに入り込んでくるようで、氷雨はぎゅっとカップを握りしめたまま、そっと雪村を見つめ続けた。



---



「じゃあ、気をつけてね」


その一言だけを残して、雪村は研究室の扉を閉めた。

肩にかけてくれていたブランケットをぎゅっと握ったまま、氷雨は呆気にとられてしばらくその場に立ち尽くす。

いつもなら、時間に余裕がある日は必ず家まで送ってくれていたのに。

ぽつんと残されたような静けさが、じんわりと胸に染みる。

重い足取りで、氷雨はゆっくりと歩き出した。

校舎の外はまだ、細かい雨が降っている。

コンクリートの匂いに混ざって、冬の冷たい風が頬を撫でた。


ぽつ、ぽつ、と歩きながら、氷雨は思い出していた。

さっき見た、雪村の頼りなさそうな笑顔。

空っぽに見えるのに、どこか懸命に平静を保とうとしているような顔。


(……お見合いで、私以外の人と関係を持てば、先生も何か変わると思ってた。

……でも……逆効果だったのかな)


歩くたび、靴の裏が水たまりを踏んで小さく音を立てる。

その音に紛れるように、氷雨の中の想いが溢れ出す。

ずっと思っていた。

雪村は、自分に「自分」を重ねているだけ。

だから助けてくれただけで、別に特別なんかじゃないって。

けれど、あの言葉が胸に残っている。


『……僕は、氷雨さんが泣いてる姿を見るのが、苦手みたい』


(……雪村先生)


氷雨はふと立ち止まり、グレーがかった空を見上げた。

冷たい雨粒が頬に触れて、ほんの少しだけ温かく感じる。

ぽつりと呟く。


「……実は私も、愛ってなんなのか、分からないです」


先生に、えらそうなこと言ったのに。

自分こそ何も分かっていなかったことが、今になって心を刺す。

でも――


「……私は、雪村先生のことが、好きです」


それだけは、はっきり言えた。

今までの雪村との日々が、走馬灯のように思い出される。

図書館で過ごした静かな時間。

コーヒーを渡してくれた手。

並んで歩いた帰り道。

どれも、あたたかくて、どこか寂しくて――

でも、確かに「幸せ」だった。


(先生のあんな悲しい顔……見たくない)


そう思った瞬間、氷雨の心に迷いが生まれる。

自分の選んだ道は、本当にこれでよかったのか。


「……雪村先生、どうしたら笑ってくれるのかな」


思わず声に出して、立ち止まる。

そのとき、ふと思い出す。

雪村が言っていた――「お見合いは、日曜日」だと。

ふと、氷雨はポケットからスマホを取り出す。

冷たい指先で画面を開き、連絡先をタップした。


「……榊くん、急にごめんね。

……あの……日曜日って、空いてるかな」


寒空の下、ひとりで立ち尽くす氷雨の表情は、

どこか迷いを含みながらも、ほんのわずかに「決意」を帯びていた。

吹き抜ける冬の風が、氷雨の髪を揺らす。

彼女の視線の先には、まだ何もない。

けれど、そこに「何かを変える力」があることを、彼女はどこかで信じていた。

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