さよならは言わない
次の日の朝、空は晴れているのに、心の中には重たい雲が居座ったままだった。
氷雨は自分の席に腰を下ろし、机に置いたペットボトルの水をぼんやり見つめていた。
昨日のことが、頭から離れない。
研究室での、あの突然の出来事。
雪村先生の母親が現れて、何も言えずに追い出された自分。
最後に先生が小さな声で「……ごめんね、また明日、ちゃんと話そう」と言ったことだけが、かすかな救いのように心に残っていた。
「……で、昨日はそんな感じだったのか」
となりの席の榊が、ぼそっと言った。
話を聞かされていた彼は、腕を組んだまま天井を見上げている。
「うん……ちゃんと話せなくて、そのまま帰されたの。
でも、帰り際に連絡が来た。
『今日の放課後、駐車場に来て』って」
「駐車場ォ? なんでまた……。いつもの研究室じゃダメなのか?」
「わからない……」
声に力がこもらなかった。
分からないことだらけだった。
昨日の雪村先生の表情。
青ざめた顔、震える手、何かに怯えるような瞳。
そして、母親のあの圧の強い声。
どこか一方的で、雪村先生の言葉をまったく聞こうとしなかった姿。
(あれが、雪村先生の“家族”なんだ……)
胸の奥に、じんわりと苦いものが広がる。
「……雪村先生は、孤独なんだと思う」
ふと、口から言葉がこぼれ落ちた。
榊がゆっくりとこちらを向く。
「え、あんなにモテてんのに?」
「モテることと、心を開いてるかは違うよ……。
先生は、誰に対しても同じように優しい。
誰にも特別を見せない。
その方が、きっと楽だから」
「……それって、その母親の影響ってこと?」
氷雨はうなずいた。
「うん……多分、あのお母さんがずっとそうやって、“先生自身の気持ち”を置いてきぼりにしてきたんじゃないかなって思う。
『あなたのために』って言いながら、何でも決めてしまう。
本人の意思なんて、最初から存在してないみたいに……」
「それ、あれじゃん……毒親ってやつ」
榊の声はどこか遠く感じられた。
「うん……雪村先生のお母さんは、きっとそうなんだと思う」
口にした瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
それが勝手な憶測だったとしても、先生が昨日見せたあの表情は、きっと長い間の何かが積み重なってできたものだ。
「だから、ずっと誰にも頼らずに……孤独に生きてきた先生が、私みたいに……」
言葉に詰まる。
「……同じように孤独だった私と、出会ったのかもって思った」
ぽつりと落ちたその言葉に、榊はしばらく返事をしなかった。
教室のざわめきの中で、二人の間だけ、時間が止まっているようだった。
やがて榊が、静かに尋ねる。
「氷雨っちはさ……これからどうすんの?」
その問いに、氷雨は机の上に視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……話を聞きたい。
雪村先生の、本当の気持ちを。
どう思ってるのか、ちゃんと……先生の口から聞きたいの。
……怖いけど、逃げたくない」
自分でも不思議なほど、心は決まっていた。
すると、不意に、榊の手が氷雨の頭にぽんと乗せられた。
「な、なに?」
驚いて顔を上げると、榊は目を細めて笑っていた。
「いや……氷雨っち、ちいこいのに、頑張ってんなぁって思って。
なんか……なでなでしたくなった」
「ひ、人のことを愛玩動物みたいに言わないで!」
「はは、でもさー、氷雨っちってネコに似てるよな」
「ネコ……は……ちょっと嬉しいかも……」
「お、マジ? じゃ、もっと撫でよ〜」
「ちょっ、撫でていいとは言ってないっ!」
抗議の声をあげても、榊の手は止まらない。
氷雨は軽く頬をふくらませて、榊の手を押しのけようとする。
その時だった。
ふと、記憶の奥に残る、優しい手の感触がよみがえった。
(そういえば……
雪村先生も、あのとき、頭を撫でてくれた。
あの時は……恥ずかしくて、胸がいっぱいで、顔が熱くて……)
榊の手と、雪村の手。
どちらも同じように優しいのに、感じるものはまったく違った。
(……榊くんに撫でられても、特に何も感じない……
なんでだろう……)
分からない。
けれど、きっと、それは大事な“答え”の一部のような気がした。
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放課後の空気は、昼間とは違ってどこか寂しげだった。
夕陽が傾きはじめ、校舎の影が長く伸びている。
氷雨は静かな足取りで、裏手にある職員用の駐車場へと向かった。
人影は少なく、辺りはしんと静まり返っていた。
その奥に、見慣れた車が停まっている。
ボディに映る夕焼け色が、まるで燃えているようだった。
氷雨は一瞬立ち止まり、胸の奥が少しきゅっとなるのを感じた。
それから、意を決して歩み寄り、車のそばに立っている男性に声をかける。
「……雪村先生」
振り向いた雪村は、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、どこか儚げで、それでも確かにあたたかかった。
「氷雨さん、来てくれてありがとう」
その一言だけで、心が少しだけ緩んだ気がした。
彼は、車の助手席のドアに手をかけ、カチリと開ける。
「乗って?」
「え……?」
思わず声が漏れる。
まさかの提案に、身体がこわばる。
「少し、ドライブに行きたくて」
そう言った雪村の声は落ち着いていて、でもどこか、決意のようなものが滲んでいた。
けれど――氷雨は、一瞬だけ躊躇した。
(また、話を逸らされるかもしれない……。
昨日みたいに、うやむやにされるんじゃないか――)
そんな不安が頭をよぎった瞬間、雪村は助手席越しに、まっすぐ氷雨を見つめた。
表情からは、あの優しい微笑みが消えていた。
代わりに、誠実で、揺るがない瞳がそこにあった。
「大丈夫、今日は逃げないよ。運転しながら、ちゃんと話す。僕の全てを」
その言葉は、嘘じゃないと感じた。
いや――信じたかった。
心の奥で、ずっと願っていたのかもしれない。「話してほしい」って。
氷雨は小さく頷き、「……わかりました」とだけ答えた。
そして、ゆっくりと助手席に乗り込む。
静かにシートベルトを締めると、その動きを見届けてから、雪村が短く言った。
「じゃあ、行こうか」
エンジンがかかり、車は静かに駐車場を後にした。
沈みゆく夕陽を背にして、二人を乗せた車は、ゆっくりと走り出す。
新しい、そして決して簡単ではない話の続きを始めるために――。
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車内を満たすのは、エアコンの微かな音と、タイヤがアスファルトを滑る気配だけだった。
沈黙が苦しかった。
でも、どちらも簡単には口を開けなかった。
先に空気を破ったのは、雪村だった。
「……それで。何から話せばいいかな」
苦く笑って、前だけを見つめる。
「はは……ごめんね。僕、自分のこと話すの、苦手みたい」
握られたハンドルの手が、わずかに震えていた。
氷雨はその横顔を見つめる。
言い淀むなら、自分が切り込むしかない――そう思った。
「……お見合い、するんですか」
その言葉に、雪村はわずかに眉を寄せ、短い溜息を吐いた。
「あれね……はぁ。めんどくさいなぁ。なんで、なんだろうね」
淡々とした声だった。
感情を押しつぶしたような、乾いた響き。
「もう、何もかもがめんどくさい。
……世界が、俺と氷雨さんだけだったらいいのに」
氷雨の方を一度も見ずに、死んだような瞳で呟く。
その願いが、本人にとってどれほど“本気”なのかは、痛いほど伝わった。
だからこそ――氷雨は息を整えて言った。
「……お見合い、してみたらどうですか?」
雪村の視線が一瞬だけ揺れ、けれど表情は変わらない。
氷雨は続ける。
逃げずに、向き合うために。
「雪村先生。私、最近思ったんですけど……」
視界に、食堂で笑う女の子たちの顔がよぎる。
榊の温かな声が残っている。
「人って、怖い人もいます。
裏切る人もいます。弱いものいじめする人も、支配しようとする人もいます。
そういう人は確かに、います」
雪村は黙って聞いていた。
たった一言も挟まずに。
「……だけど、全ての人がそうとは限らないです。
見えている世界が狭かっただけで、勇気を出して視野を広げると……知らないことだらけで。
ちゃんと、良い人もたくさんいて……楽しいです」
少しだけ、笑顔が揺れた。
「だから……雪村先生にも、世界を広げてみてほしいんです」
その優しい言葉に、雪村は小さく首を振った。
「……僕の世界には、氷雨さんだけでいい」
「それじゃダメなんです」
きっぱりと言う。
声が震えなかったことに、自分でも驚いた。
「雪村先生は……確かに私がいなきゃダメかもしれない。
でもそれ以上に……私がいたらダメなんです」
白い指先が、膝の上でぎゅっと握られる。
「それに……雪村先生は、多分、私のこと好きじゃないですよ」
その瞬間、雪村の呼吸が止まったように見えた。
言葉も、表情も、固まる。
氷雨は、静かに刃を押し込む。
「ソレに“好き”って名前をつけてるだけ。
本当は、自分と同じような境遇の存在を見つけて、嬉しくて……
それを自分と重ね合わせているだけです」
雪村の喉がかすかに動く。
しかし、声は出ない。
「だから、私が幸せになるのが嫌なんですよね?
雪村先生を置いて、幸せになろうとする私が……今は、憎い」
俯いた横顔は影に沈み、どんな表情かは読めなかった。
ただ――反論できない沈黙が、答えだった。
赤信号。
車が止まる。
氷雨は、その一瞬の静止に合わせて言った。
「……雪村先生、私と、別れてください」
車内が凍りついた。
でも雪村は、叫ばなかった。
縋らなかった。
まるで覚悟していたかのように。
「……分かった。
もう、氷雨さんとは、関わらないよ」
それは、優しい声だった。
だからこそ、余計に苦しかった。
車はしばらく走り――やがて、海辺の駐車場に停まった。
「……最後に」
雪村が先に運転席から降りる。
「少し付き合ってもらえないかな」
戸惑いながらも、氷雨は助手席を開けて外に出る。
潮風が服を揺らし、海の匂いが肺に流れ込む。
夕陽はもう沈みかけ、水平線が赤く滲んでいた。
人影はどこにもない。
波の音だけが、二人の間を行き来している。
ここが――最後の場所。
氷雨はそんな直感を覚えながら、雪村の後ろ姿を見つめた。
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海に着くと、日が沈みかけていた。橙色に染まる空と、それを映す波間。静かな波音が、二人の間の沈黙を優しく埋めていた。
車を降りた氷雨は、頬を打つ潮風に思わず肩をすくめる。想像していたよりもずっと冷たかった。
(……もっと厚手の上着、持ってくればよかった)
自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、両腕を抱え込む。
風が髪を揺らし、スカートの裾がぱたぱたとはためく。
隣に立つ雪村は何も言わず、ただ海を見つめていた。
二人きりの海辺。誰の気配もない。
波の音と風の音だけが、過去の名残のように響いていた。
しばらくして、不意に雪村が歩き出した。
砂浜をゆっくりと、まるで何かに導かれるように。
そのまま、ためらいもなく海の方へと足を進めていく。
靴が濡れることも構わず、膝下まで水に浸かりながら。
「雪村先生?」
氷雨が呼びかける。
声が、風に流されそうになる。
だが、雪村は振り返らなかった。
視線は波の向こう、ずっと遠くにあるものを見ているようだった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「あのさ、氷雨さん……僕と――」
その言葉が最後まで届く前に、氷雨の口から小さな音がこぼれた。
「くしゅんっ」
突如響いたくしゃみに、雪村は驚いたように振り返る。
そして――氷雨を見たその瞬間、堪えきれなかったように、ふっと微笑んだ。
その微笑みは、どこか寂しげで、けれど確かに温かかった。
演技ではなく、虚勢でもなく、心から浮かんだもののように見えた。
「……帰ろっか。」
海からゆっくりと戻ってくる雪村は、もう何も言わなかった。
ただ一歩一歩、濡れた足を引きずるように砂浜を歩いて、氷雨の隣に戻る。
その横顔に残っていた微かな笑みは、夕暮れの光と風に溶けるように、静かに滲んでいた。
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車内は静かだった。
助手席に座る氷雨は、シートベルトを外しながら、まだ少し潮の香りが残る海風を思い出していた。
雪村の横顔は、街灯の明かりに照らされて穏やかで、けれどどこか寂しげだった。
やがて車が、学生寮の前で静かに止まった。
「……着いたよ」
雪村がそう言って、ふっと優しく微笑む。
氷雨は一瞬、何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言えずに閉じた。
手元のバッグをぎゅっと握る。
別れの予感が、胸を締めつけるように迫ってくる。
「……ありがとうございました。送っていただいて」
ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
雪村はゆっくりと頷いたあと、小さく息を吸って――氷雨の方を真っすぐ見つめた。
「氷雨さん」
「はい……」
「今日、全部話すって言ったよね。……あれは、本当だよ」
「……はい」
「でもね、もうひとつ、伝えなきゃいけないことがあるんだ」
そう言って、雪村は少しだけ目を伏せ、そして静かに微笑んだ。
「これで、本当に……君とはお別れになると思う」
氷雨は、その言葉に何かを返そうとした。
けれど、声にならなかった。
「ありがとう。……出会ってくれて」
「……っ」
「でも、君には……もっとあたたかい場所にいてほしい。僕なんかじゃなくて」
「そんなこと、私が決めます……」
ようやく声が出た時には、瞳が潤んでいた。
けれど雪村は、優しく首を横に振った。
「ううん。僕が、決めることなんだ。――君を、手放すって」
氷雨の視界が滲む。
けれど、涙はこぼさなかった。
「……さよならは、言いません」
「うん、僕も」
氷雨は静かに車を降り、扉を閉めた。
その音が、やけに重く響いた。
車内に取り残された雪村は、ハンドルに両手を添えたまま動かなかった。
助手席には、氷雨の残り香だけが、そっと残っていた。
そして――
エンジンが再びかかる音が、寮の夜の静けさに切り込んだ。
車はゆっくりとその場を離れていく。
氷雨は、その後ろ姿を見送っていた。
何も言わず、ただ、目を逸らさずに。
胸の奥に、ほどけた鎖のような痛みだけが、静かに残っていた。




