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雪村先生と氷雨さん

いつからだっただろうか。

“日の当たらない場所”を探すのが、まるで自分を守るための本能のようになったのは。


昨日のテレビ番組の話で盛り上がっている学生たちの声を遠くに聞きながら、氷雨は吸い込まれるように図書館へ足を踏み入れた。

二階建ての図書館は天井が高くて、静かなのにどこか空気が澄んでいる感じがした。


すぅ、と深く息を吸い込む。

その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。

氷雨はいつもの場所へ向かう。

図書館の隅にひっそりとある、小さな読書スペース。

本棚に囲まれたその空間は、まるで外の世界から切り離された秘密基地のようで、自分以外誰もいない。

この静寂が、たまらなく好きだった。

誰にも触れられず、誰にも邪魔されず、

自分だけの世界に沈んでいけるから。


——もしかしたら、このまま私が消えてしまっても、誰にも気づかれないかもしれない。


そんな不思議な安心感を与えてくれる静けさが、今の氷雨には何よりも優しかった。

カバンから借りていた本を取り出して、ゆっくりとページを開こうとした、そのとき。


「……あ、その本」


ぴたりと空気が揺れる。

こんな静かな場所で声をかけられるなんて想像していなかったから、

思わず心臓が跳ねた。

顔を上げる。

そこには、氷雨の好きな作者の新刊を手にした一人の男性が立っていた。

年齢は……三十代後半、いや四十に近いのかもしれない。

だが、黒縁メガネの奥の目は優しくて、

白シャツにジャケットというシンプルな姿が妙に清潔感を漂わせていた。


「僕も借りようと思ってたんだ」


柔らかい声だった。

図書館の空気に溶けるような、落ち着いた響き。


「え、あ……えっと」


言葉が喉に引っかかる。

こんなふうに、誰かから声をかけられることに慣れていない。

ましてや、この静寂を破ってくる人なんて——。

男性は少しだけ微笑んだ。

その笑みは、なぜか氷雨の鼓動をさらに乱した。


「君、氷雨さんだよね?」

「……え?」


どうして、名前を。

会ったことは、確か無い、はず。

思わず胸がざわつく。

そんな氷雨の困惑をよそに、男性は少しだけ肩をすくめて言った。


「僕が借りる本、全部の貸出カードに氷雨さんの名前があって……」

「あ……」

「それで、その本も借りてるから、“もしかして”って思って。

ずっと同じ名前が並んでたからさ。合ってる?」


心臓が少し痛いほど跳ねた。

確かに自分はよく本を借りるけれど、自分の名前が誰かの目につくなんて、想像したことがなかった。


「……そう、です」


声が震えてしまう。

しかし、言い終えた瞬間、


「やっぱり!」


ぱっと彼の顔が明るくなった。

図書館の柔らかい灯りの中で、その笑顔はまるでずっと探していた宝物を見つけた子どものようで、あまりに無邪気だった。

氷雨は久しぶりの他人との会話に緊張して、視線を床に落とす。

どうしても顔が上げられない。

目を合わせる勇気がない。

そんな氷雨を見て、彼は一歩だけ距離を詰めた。

でも触れない。

近すぎず、遠すぎず、絶妙な“安心が崩れない距離”。


「ごめんね、急に。驚かせちゃったよね。

でも、氷雨さんがよくこの作者の本を借りてるの、ずっと気になっててさ」


ずっと?

その言葉に胸がざわりと揺れる。

なんとなく、なにかがひっかかった。

だけど、問い返す勇気はない。


「ミステリー、好きなんだね」

「……はい」


小さく答えると、男性はほんのり目を細めて微笑んだ。

それは、押しつけがましさのない、ただただ穏やかな笑み。

優しそう——

そんな印象が胸に広がる。


「そっか。実は僕もその作者、好きなんだ。」


落ち着いていて、

どこか“学生慣れ”しているような話し方だった。

気まずい沈黙を作らないように、

さりげなく距離を保ちながら言葉を続けてくれる。


「……あ、えっと、驚かせちゃってごめんね。

そういえば、自己紹介がまだだったね」


ふと、彼は軽く胸の前で手を合わせた。


「雪村律です。

この大学で、日本史の授業を担当してます」

「……先生、なんですか?」


氷雨は思わず顔を上げてしまった。

予想外すぎて、声が少しだけ上ずった。


「うん。氷雨さんの学科とは違うみたいだから、授業では会ってなかったけど……」


やわらかい口調のまま、控えめに笑う。


「図書館でよく見かけててね。

いつも熱心に読んでるなぁって、ちょっと気になってたんだ」


それは“興味”と言うより、“好感”に近い響きだった。

嫌な感じは全くしない。

ただ、少し不思議な人だ。


「氷雨さん、本読む時すごく静かなんだね。

ページをめくる音もほとんどしないから……すごい集中力だなって思って」


褒められて、どう返していいか分からず

「……いえ」と小さく呟いて目を伏せる。

緊張はまだ解けないけど、彼の声はあたたかくて、図書館の静けさに自然に馴染んでいた。


「無理に返事しなくていいよ。

ただ、ご挨拶だけはしておきたかったから」


本当に“優しい先生”という印象しか残らない。

怖さも違和感も、今はない。

ただ、胸の奥が少しざわりとするのは——

初めて他人と会話した緊張のせいだと、

そう思うことにした。

雪村は「それじゃあ、またね」と柔らかく笑って、借りた本を片手に静かに読書スペースを去っていった。

その背中が見えなくなってから、氷雨は胸にそっと手を添えた。


「……びっくりした……」


図書館で声をかけられただけなのに、心臓がずっと落ち着かなかった。

深呼吸して、もう一度カバンから本を出す。

ページを開けば、いつもの静寂がゆっくりと戻ってくる。

——大丈夫。

自分はただ、本を読みに来ただけ。

そう言い聞かせて読み始めると、少しずつ、いつもの世界へ戻っていった。



---


翌日。

講義を終え、氷雨は今日も図書館へ向かった。

変わらない習慣。変わらない場所。

けれどその日だけは、いつもの読書スペースに着いた瞬間、足が止まった。


——え……。


氷雨がいつも座っている席の“正面”に、白シャツの男性が静かに本を読んでいた。

雪村先生、だった。

ページをめくる手の動きが丁寧で、その横顔は不思議なくらい静かで、優しげで、見ているだけで胸がぎゅっと縮まる。


(……今日は、別の場所にしようかな)


そう思って踵を返そうとした瞬間、


「……あ」


顔を上げた雪村と、目が合った。


「氷雨さん」


軽く首を傾けて、昨日と同じ優しい笑みを向けてくる。


「……そっか、そういえば、いつもここで読んでたよね……。

ごめんね、場所とっちゃって。すぐ退くから」

「あ、い、いえ……!大丈夫です……」


慌てて首を横に振る。

先生が退くなんて、そんなの申し訳なくて言えない。

すると彼は、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「じゃあ……ここで一緒に読む?」


心臓が、跳ねた。

断れない。

断り方も分からない。


「……はい」


それだけ言って、氷雨はそっと雪村の正面に座った。

本を開いたけれど、文字が頭に入ってこない。


(……どうしよう……集中できない……)


ページの上を目が滑るだけ。指先が少しだけ震える。

ふと、視線が勝手に上へ向かった。

正面に座る雪村。

真剣に本を読み込む表情は、昨日よりもずっと近くて——


(……綺麗な顔……)


そんなこと、思うはずじゃなかったのに。

その瞬間、ふいに、雪村が顔を上げた。

ぱちり、と目が合う。


「ん?」


優しく微笑む。

シンプルな“問い”のような表情なのに、

胸の奥が熱くなるくらい、まっすぐで。


「……っ」


耐えきれなくなって、氷雨は咄嗟に本で顔を隠した。

自分の耳まで真っ赤になっているのがわかる。

息が熱い。

静かな図書館なのに、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。

本で顔を隠していると、雪村の椅子がほんの少しだけ軋む音がした。


「……氷雨さん」


そっと名前を呼ばれて、肩がびくっと跳ねる。


「顔、赤いよ? 大丈夫?」


すぐに触れてこようとはしない。

ただ、心配を込めた声だけがふわりと距離を縮めてくる。


「……っ、だ、大丈夫です。なんでもないです……」


早口でそう答え、本を持つ手に少しだけ力を込めた。

嘘だ、と自分でも分かっていた。

でも、正直に言えるわけもない。

雪村は「そっか」と優しく頷き、それ以上追及しようとはしなかった。

ほんの少し、安心した——そのとき。


「——あっ! 雪村先生!」


明るい、弾んだ声が読書スペースに飛び込んできた。

振り返ると、氷雨と同じくらいの歳の女の子が駆け寄ってきていた。

肩までのゆる巻き髪、可愛いワンピース。

明らかに“好きな人に会えて嬉しいです”という顔。

雪村は本を閉じて微笑んだ。


「こんにちは。どうかした?」

「この前のレポートのことで……少しお話、いいですか?」


女子学生は、雪村しか見えていないような煌めいた瞳で話しかける。

その視線の先に、氷雨はいないはずだった。

……いないはずだったのに。

女子学生の視線が、ふいに氷雨の存在に気づいたように動いた。

そして——

一瞬にして、表情が冷えた。


「……その子、誰ですか?」


まるで、そこに氷雨が座っているのが間違いだと言わんばかりに。

その目は、氷雨がずっと見続けてきた「人の冷たさ」にあまりにも似ていた。

胸がぎゅっと痛くなる。

殴られたわけでも、触られたわけでもない。

ただ、視線だけで全部思い出してしまった。


教室の隅。机に落書きされた言葉。

笑い声。無視。

雨の日にされた酷いこと。


息が苦しくなる。


「……すみません……今日は、失礼します……」


立ち上がる声は震えていた。

うまく息が吸えない。

逃げなきゃ。

ここにいたら、また——。


鞄を抱きしめるようにして、氷雨は読書スペースから早足で歩き出した。

背後で、雪村が何か言いかけた気がしたけれど、振り返る勇気はなかった。



---


翌日。

胸の奥のざわつきがまだ残っているまま、氷雨は恐る恐る図書館へ足を向けた。

昨日のことが頭から離れない。


あの女子学生の目。

自分の心臓の速さ。

言えなかった言葉。


「……今日は、来てないといいな……」


そんなことを思いながら、そっといつもの読書スペースを覗いた。

——誰もいなかった。

雪村の姿は、どこにもない。

ほっと胸が緩む。

息がすこしだけ深く吸える。


(……よかった……)


安堵がじんわり広がって、氷雨は椅子に向かおうと一歩踏み出した──そのとき。


「氷雨さん」


背後から、あの日と同じくらい優しい声が落ちてきた。

心臓が一拍、跳ねる。

反射的に振り返ると、そこには雪村が立っていた。

昨日と同じ白シャツ。

同じ穏やかな笑み。


「ゆ、雪村先生……?」


驚きで声が裏返る。

まさか後ろにいるなんて思わなかった。

先生はゆっくり近づいてきて、読書スペースをちらりと見やった。


「僕があの席に座ってたら、氷雨さん……別のところに行っちゃうだろうなぁって思ってね」


静かに微笑みながら、ごく自然な声で続ける。


「だから、氷雨さんが来るのを待ってたんだ」

「……え……どうして……?」


困惑が言葉になってこぼれる。

だって、昨日はあんなふうに逃げたのに。

迷惑をかけたのに。

それでも——。

雪村は少しだけ首をかしげた。

その仕草は、あまりにも優しくて、理由を問うこと自体が恥ずかしくなるほど自然だった。

だけど、氷雨の問いには答えず、まるで違う話をするように、さらりと言う。


「氷雨さん、よかったらなんだけど——」


一拍。


「これから僕の研究室に来ない?」


一瞬だけ、図書館の静けさが破れた気がした。


「……っ、研究室……?」


声がうまく出ない。

何を言われているのか理解するのに、数秒かかる。

雪村は、まるで当たり前の提案をするように微笑んだ。


「うん。無理なら全然いいんだけど……

氷雨さんと、少し話がしたくて」


その言い方は、柔らかくて、あたたかくて、どうしてか拒めない響きをしていた。



---



研究室の前で、雪村が立ち止まった。

ドアの前に手を添え、やわらかく微笑む。


「どうぞ、遠慮せず入って」


その声だけで胸が跳ねる。


(……けっきょく断れずに来てしまった……)


心の中でそっとため息をつきながら、氷雨はぎこちなく「おじゃまします……」と呟いて中へ入った。

扉が静かに閉まる。

ふっと空気が変わる。

研究室の中は、驚くほど整っていた。

本棚には分野ごとに綺麗に整理された書籍が並び、机の上には余計なものが一切ない。


(……すごく、几帳面な人なんだ……)


そう思わずにはいられないほど、“整いすぎている”空間だった。


「そこに座って」


雪村が指さしたのは、窓際に置かれた淡いグレーの小さなソファ。


「……はい」


言われるがままにソファに腰を下ろすと、雪村は慣れた手つきでコーヒーメーカーに向かい、落ち着いた動作で豆を挽きはじめた。

ガリ……ガリ……

優しい音が研究室に響く。

その音だけで、なぜか落ち着いていく。

数分後、ゆっくりと湯気の立つカップが、氷雨の前のテーブルにそっと置かれた。


「どうぞ」

「あ……ありがとうございます」


両手でカップを包み込むように持ち、そっとひとくち。

——驚いた。

香り高くて、苦味がほどよくて、ほんの少しだけ甘みが残る。


(……美味しい……)


氷雨はブラックコーヒーが好きで、でも美味しいブラックに出会えることは意外と少ない。

これは、氷雨の好みにぴったりだった。


「……すごく、美味しいです」


思わず零れた言葉に、雪村はふっと目を細めて、本当に嬉しそうに笑った。


「氷雨さんの口にあってよかった」


その笑顔は柔らかくて、でもどこか熱を含んでいて、胸の奥がじんわりと温かくなる。

研究室の静かな空気が、ゆっくりと、氷雨の心を揺らしていった。

カップを両手で包み込みながら一口飲むと、またあの優しい味が舌に広がる。

けれど、それでも胸の中の緊張は消えなかった。

勇気を出して、氷雨は雪村に視線を向ける。


「あの、それで……どうして、ここに?」


少し震えた声。

でも、聞かなければずっと落ち着けない気がした。

雪村は「あぁ」と小さく呟き、まるで今思い出したかのように軽く指先を打った。


「そうだったね」


そして、少しだけ表情を曇らせる。


「昨日はごめんね。

氷雨さんの大切な時間、邪魔しちゃって」

「えっ……そんなこと……!」


慌てて否定した。

邪魔なんて思ってない。

ただ驚いただけで……でも、そう言うのも恥ずかしくて喉に言葉がつっかえた。

雪村はふっと優しい目を向ける。


「それでね、もし氷雨さんがよかったらなんだけど——」


少しだけ間を置いて、


「僕の研究室、これから自由に使っていいよ」

「……え?」


想像していなかった言葉に、困惑が一気に胸に広がる。

雪村は困ったように笑いながら説明を続けた。


「ここなら滅多に僕以外が来ることないし、静かだし……きっと氷雨さんにとって居心地のいい場所になると思うんだ」


さらりと、


「コーヒーも、いつでも出すよ」


と付け加える。

断る理由もないけれど、受け取るにはあまりにも大きくて、戸惑いだけが胸に残る。

どうしてそこまで——。

そう思った瞬間、雪村が少しだけ視線を伏せた。


「それに……これは単なる僕のわがままなんだけどね」


声が少しだけ照れくさそうに低くなる。


「氷雨さんと……もっと話したいっていうか……」


はっきり言われるわけではないのに、胸の奥がじん、とあたたかくなる。


「ほら、この作者の本読んでる人、周りになかなかいないから……嬉しくて……」


言いながら頬をかすかに掻くようにして照れるその姿は、昨日よりずっと年下に見えた。

真面目で、優しくて、穏やかで、話していて怖くない大人の人。

その人が、自分にそんなふうに言ってくれるなんて。

胸の中で、知らない温度が広がっていく。

優しい声。押しつけじゃないけれど、逃げ道をふっと塞ぐようなあたたかさ。

氷雨は気づけば口を開いていた。


「……ほんとうに、いいんですか?」


言ってから——自分が言った言葉に、自分が一番驚いた。


(……なんで、こんなこと……)


断るはずだったのに。

“迷惑をかけたくない”って思っていたはずなのに。

どうして“行く”前提の言葉が出てしまったんだろう。

一瞬の沈黙。

けれど雪村は、その言葉を聞いた瞬間、ぱっと顔を明るくした。


「……! うん……もちろんだよ!」


声が、心から嬉しそうだった。

その表情を見た瞬間、なぜか胸の奥がくすぐったくなった。

もう後に引けない。


「それじゃあ……その……また、お伺いします……」


消え入りそうな小声でそう言うと、雪村は目を細めて、ほんとうに幸せそうに頷いた。


「うん。楽しみにしてる」


その笑顔があまりにも優しくて、胸がまた熱くなる。

顔が熱を帯びていくのを感じて、氷雨は思わず俯いた。

その瞬間——

ふわりと、雪村が身をかがめて覗き込んでくる。


「氷雨さん」


優しい声。


「また明日、待ってるね」


息を呑むほど近い距離。

目が合った瞬間、心臓が跳ねて、呼吸が止まりそうになった。


「……っ、は、はい……あの……それじゃあ、また……!」


逃げるように立ち上がり、ぎこちなく頭を下げて、研究室のドアへ向かう。

足早にその場を後にしたけれど、

背中に“明日を楽しみにしているあの笑顔”がずっと残っていた。

胸が、ずっと熱いままだった。


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