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虚構の戴冠  作者: 長野智
第5章

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     *


 


「離せ! 私をリドのところに連れて行け! リドがそんなことをするはずがない!」


「いけませんユセフ殿下! あなたを危険に晒すわけには……!」


 閉じ込められていたユセフが救出されたのは少し前、そしてリドニスが国王を殺したと聞いて、現在。


 部屋を飛び出そうとしたユセフを、衛兵が必死に羽交い絞めに引き留めていた。


「誰だ! 誰が仕組んだことだ!」


「落ち着いてください! 目撃者が多くおります! 国民も臣下も見たのです! リドニス・ベルグ様が国王を貫いているところを!」


「リドがそんなことをするわけがっ……!」


 喉が痛みそうなほどに叫んでいたユセフが、突然ピタリと動きを止めた。


 衛兵も驚いて力を緩める。ユセフの目は、何もない空間に向けられている。


「……兄さん?」


 やけに落ち着いた声だ。暴れる様子も見られなくなり、衛兵はようやくユセフを解放した。


「だ、大丈夫ですか」


「……離宮に行く」


「いけません! 今は王宮が混乱しています! 一人で出歩かれませんよう!」


「父を殺したのは兄さんだ! 精霊がそう言っている! 兄さんに話を聞きに行く!」


「いけません……!」


 ふわりと、風が吹いた。そんなに強い風ではない。しかし衛兵の体はユセフから引き離され、気付けば尻もちをついていた。


 何が起きたのだろうかと、衛兵は不思議そうな顔である。


「……私は今、気持ちが高ぶっている。今の私の邪魔をすると、おそらく精霊があなたを殺す」


 普段穏やかなユセフが、拳を震わせて衛兵を睨む。衛兵は動けなかった。


「……離宮に行きます。止めないで」


 ユセフは振り返ることなく、強い足取りで部屋を出た。


 精霊は嘘つきだ。基本的に信用してはいけない。


 その昔「珍しい動物が居るよ」と言っていたからついて行ったら、湖のほとりに連れて行かれた。もう少しで落ちるところだった。


 別の日には「綺麗なお花があるから大切な人にプレゼントするといいよ」と言うから摘もうとすれば、それは触れるだけで死に至る毒花だった。リドニスが止めなければ死んでいただろう。


 精霊は無邪気な悪である。だから信用してはいけない。きっとユセフが死んだとしても、「ようやく一緒になれたね」と言って喜ぶだけなのだろう。


 だからもしかしたら、嘘かもしれない。


『殺したのは黒い髪の男だよ』


 その言葉を信じきるには危険であると、ユセフにも分かっているのだが。


(兄さんならやりかねない。兄さんは、きっと私たちを恨んでいる……)


 何かを仕掛けてくると分かっていた。警戒していたはずだったのに。


 いったいどうやって、あの場でリドニスに罪を着せたのか。


「まさか、ルーズベルトも……」


 離宮へ向かう足が速くなる。庭園に出て離宮の裏口に回ったところで、声が聞こえた。


「兄さんが邪魔なんだ……!」


 その声は、油断していたユセフの脳にガツンと響く。


 足が止まる。ユセフはゆっくりと、そちらに視線を向けた。


 少し離れたところに、膝をついてうずくまるイズリコと、そんなイズリコの頭を踏みつけているジルデオが居た。


「なんだ、僕がなんだって?」


 イズリコを踏んでいるジルデオの足に力が込められる。


 ユセフはとっさに止めに入ろうかと思ったのだが、


「兄さんがずっと邪魔だった……!」


 震えるその声に、ユセフの足は縫い付けられたように動かなくなった。


 ――六歳の頃。ユセフは初めて、自分の兄と会った。


 真っ黒な髪と赤い瞳。牢に閉じ込められていたその少年は、ユセフとは違って随分と落ち着いていた。


 少年の近くには本が何冊も積まれていた。ユセフには読めないような難しい本だ。それだけで少年が、自分よりも何歩も先を歩いているのだと分かった。


『ねえ、何してるの?』


 そしてそれは、少年の何気ない返答からも。


『……何をしてるように見える?』


 暗に「見たら分かるようなことを聞くな」と、そう言われているようだった。


 当時のユセフには、どうして質問に質問で返すのかが分からなかった。そして自分がその時間帯に遊んでいることが多かったため、ユセフは何も考えず「? えっと、遊んでるの?」と返してしまう。


 少年は笑った。馬鹿にしたような笑みだった。


「兄さんには分からない……ぼくの、気持ちなんか……! ぼくだって、頑張ってるのに!」


 イズリコが、頭に置かれた足ごと体を持ち上げる。そんな反抗的なイズリコは見たことがないために、ジルデオは戸惑いながらも数歩距離を置いた。


 イズリコの横顔から見える瞳は、強く燃えていた。ユセフは目がそらせなかった。


『その呪いが分からないなら、おまえに用はないよ』


 そんな言葉を聞いたときの、燃え盛るようなユセフの感情と同じ色だった。


 ユセフは子どもだったから、当時はその感情の名前を知らなかったのだが。


 後々、劣等感であったと知った。


「ぼくだって! 好きで無能なんじゃない! 頑張っても出来ないんだよ!」


 ユセフは何もできない。勉強もダンスもヴァイオリンも、政だって苦手だ。それでも誰にも叱られない。みな口を揃えて「何もしなくて良い」「笑っているだけでいい」と言う。その裏側には「精霊様のご機嫌を損ねるわけにはいかないから」という本音が見えていた。


 だから一人で勝手に頑張った。何か誇れるものが欲しかったからだ。


 けれど、何もできなかった。


「兄さんが居るから、ぼくがこんな気持ちになるんだ!」


 ユセフには何もなかったから、だからせめて心だけは綺麗であろうと、リドニスには格好つけて「正しくありたい」なんてもっともらしいことを言って、何もできない現実から逃げた先にある道に進むことを選んだ。


「もうやめてくれ……」


 震える声が、唇の隙間から漏れた。


 イズリコが叫ぶ。聞きたくないからと、ユセフは耳を塞ぐ。


「兄さんなんか、死ねばいいんだ!」


 塞いでいても聞こえたその言葉に、ユセフは弾かれたように視線を上げた。


 イズリコがナイフを持っていた。ジルデオが逃げようと踵を返す。イズリコはジルデオの服をひっつかみ、鬼のような形相でナイフを背中に突き刺した。


 ジルデオが地面に引きずり倒される。イズリコは馬乗りになると、すぐにナイフを引き抜いて、何度も繰り返しジルデオの背中に突き立てた。


 あれはユセフだ。


 アベルが正しく第一王子として育っていたなら、きっとユセフも同じ結末を迎えただろう。


「死ね! 邪魔なんだ! ぼくだって! ぼくだって幸せになりたいだけなのに! おまえが居るから!」


「違う……」


 ユセフは軽く頭を振る。


「私は兄さんを殺さない……」


 ユセフは大人になった。今は正しく生きられている。あれは幼い頃のユセフだ。今のユセフではない。


 だから大丈夫だと深呼吸を繰り返し、ユセフはようやく駆け出した。


 ジルデオを刺し続けている、振り上げられたイズリコの手を掴む。イズリコが恐ろしい顔でユセフを見上げた。


「ルドルフさん……」


「もうやめよう。お兄さんを殺しても、君は幸せにはなれない」


「うるさい!」


 イズリコがユセフの手を払い、ユセフに挑むように立ち上がる。


「ルドルフさんに何が分かるんですか……! 兄さんが居たら、ぼくは絶対に幸せにはなれない……だって、全部持っていくんだ……」


「……それでも、劣等感の末に殺してしまうなんて、後悔するだけだ」


「後悔なんかしていません。ぼくは今、すごく嬉しいんです。安心しています。人生で一番、今が幸せなんです……ようやく、解放されたんです」


 イズリコは笑っていた。震えるほどの歓喜を浮かべた、歪んだ笑みだった。


「……あの人の言った通りだ……すごく気持ちが晴れやかだ……」


「あの人……?」


「ぼくとの会話は時間の無駄だって言った人です。でも、ぼくが自分の幸せのために動けたら、兄さんを殺せたら、ぼくに価値が生まれて、ぼくとの会話も無駄な時間にならないだろうとも言ってくれました。これで……」


 ユセフは思わず、イズリコの腕を掴んだ。イズリコの手からナイフが落ちる。


「やめてくれ……君は私だ。もうそれ以上、間違った方向に進まないでくれ……」


 イズリコはまたしても、乱暴な仕草で手を振り払う。そしてナイフを拾い上げると、刃を素早くユセフに向けた。


「ぼくの邪魔をするなら、ルドルフさんでも殺します。ぼくはもう何も怖くありません。だって、一番怖かった兄さんが死んだから」


 ユセフがゆるやかに首を振る。言葉が出ない。何かを言おうとしても、震える息が吐き出されるだけである。


 ――とある夜、ユセフは犬の吠える声で目を覚ました。


 ユセフが八歳の頃だった。何があったのかと犬の声をたどった先に、ルーズベルトが立っていた。


 驚きに振り返るルーズベルトの背後。


 そこで、牢に閉じ込められていた少年が、無残に死んでいた。


 あのとき、ユセフは何を思ったのか。


「ぼくはようやく解放されたんです!」


 イズリコが踏み込んだ。しかしナイフがユセフに触れるよりも早く、突風が吹き、イズリコの体が押し返された。


 そいつを殺せと、精霊がささやく。


 そいつは君だ。汚かった君だ。殺したほうがいいよ。そいつを見るたび、汚かった頃を思い出すんでしょ。殺したほうがいい。ほら早く。ナイフはあるよ。


 いつもの無邪気な悪への誘い。ユセフが乗ったことは一度としてない。


 ユセフは頭を振って抵抗するが、精霊はクスクスと楽しげに笑う。


「な……なんでいきなり風が……」


 ああ、立っちゃった。早くしないから。もう一回倒してあげるね。


 精霊がそう言うと、イズリコはまたしても風に吹かれて倒れ込んだ。


『……ねえ、ほらあげる』


 気がつけば、ユセフの手にナイフがあった。


 解放されようよ。もう悩まなくていいんだよ。そいつを殺せば、君はきっと報われる。そいつを殺してみて。殺したら分かるよ。


「ルドルフさん……?」


 イズリコの瞳が揺れていた。ユセフを見上げて、怯えているようだった。


「……あの日、安心したんだ。兄さんが死んでいて」


 その言葉はあまりにも小さく、イズリコには届かない。


「解放されたと思った……だから生きていて、驚いたよ」


 一歩、ユセフが歩み寄る。芝生が軽快な音を立てた。


「ああまた私はあの気持ちを思い出すのかと……心底怖かった……」


「ルドルフさん……!」


「今は君が恐ろしい。私と鏡写しである君が、欲望のままに生きていることが怖い……」


 イズリコが逃げ出そうとするのと、ユセフのナイフがイズリコの首に突き刺さるのは同時だった。


 ユセフの頬に涙が伝う。


 首から血を吹き倒れたイズリコを静かに見ていたユセフだったが、やがて苦しげに顔を歪め、そっと目を閉じた。


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