ようこそ魔術研究サークルへ――②
「オリオ・ベルベティオ!」
突如として、女性の怒声が演習場に響いた。演習場には、もちろん僕とグレイドールと先生の三人だけでいたわけではないので、同じクラスの生徒たちが振り返り、僕と怒声の主に注目した。
彼女は背が高く、顔は皺だらけで、剣の鞘を杖代わりにして立っている。この学校の教頭先生、リズベル・ナーガン・トゥッキヌスだ。
「オリオ・ベルベティオ!今すぐ来なさい!」
恐ろしく良く通る声が、演習場全体はおろか、校舎全体に響き渡る。それに反応したのか、校舎の窓から数名、外を覗く人影が見えた。僕はというと、頭を打たれた仕返しをしただけなのに、これから何を説教されるのだろうと、少し苛立ちながらも焦っていた。
リズベル教頭のすぐ近くまで行くと、彼女の枯れ木のような腕からは想像もつかない握力で腕を掴まれ、されるがままに教頭先生の部屋(この学院では教師一人一人に部屋が設けられている)まで連れてこられた。
部屋に入った瞬間、彼女は僕の腕を離した。
その部屋は二階構造で、一階は壁面が全て本棚になっており、来るたびに僕の知識欲を掻き立ててくる。二階へ続く階段の脇には小さなテーブルと椅子がある。高い天井からは何も吊り下げられておらず、二階にある巨大なステンドグラスを通る光のみが、この部屋を照らしていた。部屋は本ばかりなので、古書特有の香りが鼻の奥を満たしてきた。
「ふぅ……まったく、剣術の演習授業で魔法を使う人がありますか?」
先ほどまでの凄まじい剣幕からは想像できないほど、穏やかな声で彼女は話し始めた。リズベル教頭は、僕がこの学院に来て最もお世話になった方であり、ついでに言えば僕の両親もお世話になった方なので、彼女から見ると僕は孫のように見えるのだとか。だからこんなにも口調が優しい…というわけではないのだろうけど。
「でも、僕は彼女にいじめられてるんですよ?やり返さないと、舐められたままになります。それは嫌です。」
弱者はどこにいても虐められる。弱いから、という理由だけで。ほんの少しでも抵抗しなければ、一生そのまま敗者の人生を歩むことになるのは自明だろう。だから復讐という名目で魔法を使ったのだけど、ストレス発散のためという理由もないわけではない。でもそれは言わないでおこう。リズベル教頭は敵に回すと怖い。
「あら、オリオさん。あなたは彼女とそんなに仲が悪かったのですか?授業でよく組んでいるのを見かけるから、てっきり仲がいいものだと。」
分かってて言っているのか、単にそういう生徒間の関係に疎いのだろうか。
彼女は部屋の二階からティーポットとカップを持ってきた。ポットの口からは白い湯気が出ており、中身の熱さが想像できる。彼女はテーブルにそれらを置き、カップにポットの中身の液体を注いだ。赤く透明な液体、紅茶だ。
「仲なんて、全然良くないですよ。あの人、僕を痛めつけて楽しんでるんです。毎回僕と組んでくるし、物言いはきついし、さっきなんて、保健室から帰ったばかりの僕に剣を投げつけてきたんですよ!?」
そう言うと、彼女の表情はポットを持ったまま少し強張った。
「……確かに、剣を投げるのはいけませんね。一年生はまだ投剣術を習ってないですし、剣を投げるのは相手に逃げられそうになった時の最終手段ですもの。投げる必要なんかないのは確かね。ほら座って、紅茶を飲みましょう。」
(習ってないからって理由でダメなのか……普通に卑怯だからダメじゃないの…?)
疑念を抱く僕をよそに、彼女は見るからに高そうな椅子を引いた。僕はそれに従って座り、彼女は僕の対面に腰かけた。恐ろしく良く沈む椅子で、思わず後ろに倒れそうになった。
彼女が紅茶を啜るのを見て、僕もカップを口に運んだ。紅茶はかなり熱かったが、僕はそれを見越してほんの少しづつ、ゆっくりと飲んでいたので、幸いにもやけどはせずに済んだ。
一方リズベル教頭は、涼しい顔をしてその熱々の紅茶を飲んでいた。年をとると感覚が鈍くなるからそんな平然としていられるのだろう。そしてこんなことを恩人に対して思っている僕は無礼者だ。なんだか自分が嫌になる。
紅茶を器の半分ほど飲み干した教頭は、カップを置いて僕をまっすぐな瞳で見た。
「確かに、グレイドールさんの行動には危ういところがありますね。でもねオリオさん、あなたは彼女よりももっとひどいですよ?」
「………え、な、なんでですか?」
僕はカップを口に運んだまま答えた。あまりに予想外だったので、反射で返事をしてしまったのだ。
しかしそんな僕のそんな無礼な態度には何も言わず、彼女は話を続けた。
「やられたらやり返す、なんて思考は敵を増やすだけです。私はあなたの痛みや苦しみがはっきりと分かるわけではないので、だからこれは酷なことなのかもしれませんが、オリオさんはもう少々我慢することを覚えた方がいいと、物事の考え方を根底から変えるべきだと、私は思いますよ。」
リズベル教頭は、カップに残った紅茶の最後の一滴を飲み干し、皿の上にカップを置いた。その所作の端々に高貴さを覚え、僕はこの人に意見するのがいけない事のように感じた―――もちろん発言をしないわけはないが。
「…でも僕は……もう一か月も我慢してきたんですよ!?これだけ我慢して…まださらに我慢しろって言うんですか!?」
「……一か月は期間として少ないでしょう。それと、最初に私が提示した条件を忘れてはいないでしょう?」
そう言われて、僕は口をつぐんだ。
(…忘れるわけがない。)
「二年間、四年制のシグネウィリトンでの生活に耐えて、かつ成績上位者になれたなら、ポディンチックル国立学院……通称”魔術学院”への推薦を下さる…と。」
僕は好きで剣術学院に来たわけではない。それを知るのは僕と僕の両親、そしてこのリズベル教頭のみだった。
教頭は、行きたくないのに無理やり入学させられた僕のことを憐れみ、そして僕の魔法の才能が社会に活かせなくなることを危惧したため、両親に直談判し、前述した条件を達成できれば僕を魔術学院へ行かせてもよいという許可を取ってくれた。(ちなみにその場合の魔術学院への入学金は教頭が持ってくれるらしい。)
僕にとっては感謝してもしきれない程の恩を売ってくださった方なので、その条件を話に出されると、僕は何も反論ができなくなる。そう思うと、彼女のこの物言いは、些か狡いものではないだろうか。親が「今生きているのは俺達のおかげなんだぞ。だから逆らうな。」と言っているのと同系統の物に感じてしまう。
「えぇ、ですから、あなたはあと二年間だけ、厳密にいえばあと二十三か月耐え抜けばいいのです。そう思うと気が楽でしょう?」
その彼女の物言いに、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。
(別に楽じゃないが。いつグレイドールに殺されるか気が気でない。もしかしたらこの一年間の内に殺されてしまうかも……この人は本当に僕の今の境遇を分かって言ってるのか?)
それでも元々は親の意向と学費の問題で四年間ずっとこの学院で学び続けなければならなかったのだから、それと比べればはるかに楽だ。ただ耐えるだけならだれにでもできることではある。
しかし、それがこの条件の肝なのだ。
”二年間、シグネウィリトンでの生活に耐え、尚且つ成績上位者に成れたのなら、魔術学院への推薦を獲得できる。”
この学院では、基本的に授業を行う教員の課す試験で、軒並み高得点を叩き出すことができた上位五名が成績上位者と呼ばれる。授業には講義系の科目と実技系の科目の二種類があり、講義系科目は正直何とかなる。知識を詰め込めば良い点数が取れるから。何とかならないのは実技系科目だ。
僕の体は、周囲の人々と比べると少しばかり細い。ついでに身長も百五十九センチメートルと、剣を振るう際にリーチが極端に短くなるので、たまにある対人練習とかでは圧倒的な不利に立たされる。体を動かすのも苦手で、実際に剣技の腕前を試験で見られる実技系科目では、到底良い点は取れそうにない。僕はそれを二年間で克服しなければならないというわけだ。
黙りこくっている僕に痺れを切らしたのか、教頭は剣の鞘を支えにして椅子から立ちあがった。
「…はぁ、あなたにとっては少々身が重いことでしたか。」
「い、いえ!もちろんやりますよ!任せてください!よ、余裕ですから!」
慌てて言うと、突然教頭が鞘を僕に向かって振り下ろした。鞘の先は間一髪のところで僕の鼻先には触れなかったが、振り下ろしに気圧された僕はバランスを崩し、座っていた椅子と一緒に後ろに転がった。
見上げると、教頭の顔は静かな怒りを宿していているように思えた。
「簡単に”できる”などと言ってはなりません。もしできるのでしたら、今すぐにでも成績上位者におなりなさい。」
「…いや、すみません。できないです。」
「簡単に”できない”とも言ってはなりませんよ。」
教頭の言う事がいまいち理解できないという表情をすると、彼女は鞘で椅子を指した。僕が倒れたままだった椅子を直してそれに座ると、教頭も先ほどまで座っていた椅子に腰かけた。
「オリオさん、あなたが剣術の才が無いと思っているのと同じように、若いころの私は魔術の才が無いと信じ切っていました。」
教頭は空になったティーカップに手をかざした。すると、始めは静止していたカップは次第に震えだし、どこからともなく現れた赤く透明な液体で中身が満たされた。
彼女は涼しい表情で、それを口にはこんだ。
「才はなくとも、己の行動次第で出来ないことも出来るようになるのですよ。早計な決めつけは視野を狭めます。自らの可能性は自らが一番信じなければなりません。でないと、出来て当たり前のことすら出来なくなってしまいますよ。」
(…………でも、そうやって努力できるのも一つの才能なんだよ…それに…それは魔術じゃ…)
僕は心の中で静かに反論した。口に出したら捻じ伏せられてしまうだろうから。
彼女は話は終わったと言う風に再び立ち上がり、部屋の扉に手を掛けた。僕は彼女に続いて扉の前までやって来た。
「そうそう、グレイドールさんの事で一つ口出しをさせて貰ってもいいですか?」
ここで「ダメ」と言ったらどうなるのかという好奇心に駆られたが、それは僕の理性に簡単に抑えられた。
「なんでしょう?言っときますが、彼女はきっと僕のこと嫌いですよ?好きの裏返しとかそういうのでもなくて、ただ単に弱いのに強くなろうとしない僕の事が気に入らないんだと思います。」
「あら、あなたは自身の事を弱いと思っているのですね?」
(……弱い以外の何があるのだろうか。)
実際、僕はグレイドールにボコボコにされてたし、入試の時の順位も下から三番目だった(…今は多分最下位だろうが…)僕がもし弱くないのだとしたら、多分この世界が小さいのだ。
井の中の蛙は大海を知ることなく、自分より弱い虫を食べて生きていく。きっとこの世界の周りには更に巨大な世界があって、井戸から出た時に初めてこれまでの自分が、世界がちっぽけだったと思えるのだろう。
僕は残念ながら「本当は強いんだから自信を持って!」とか言われて本当に強いなんてことは無い。自分の弱さは自分がいちばん分かっている。
「そうですよ。僕は自分の事を弱いって思ってるし、実際そうでしょ?」
それを聞いた教頭は、不思議そうな顔をして首を傾げた。
「ではどうして、グレイドールさんはあなたに一本取られてしまったのでしょうね?」