……僕は剣士じゃないからね
部室棟の奥の奥、一面が傷だらけの灰色の廊下に、その部屋はあった。何があったのか具体的には知らないが、おそらく戦いの跡だと予想できるそれらに、俺は少しだけ興味を取られた。
加えて、魔研の部室の扉には、多様な暴言が書かれていた。先程フレッチャーが言っていたことが本当なら、ここまでの言葉は書かないように思える。
しかし、そんなことを考えている時間はない。早いところ戻らなければ、授業に遅刻してしまう。別に怒られる事は無いが、最近、時間を守れない者は人の上に立つ資格はないのではないかと思うようになった。
だから俺は、二回ノックをして、魔研の部室の扉を開いた。しかし、そこにはすでに誰もいなかった。部屋の真ん中に長い机、その周囲に数脚のパイプ椅子、奥には木の机と普通の椅子。部屋の一側にはホワイトボードが備え付けられており、もう一側には、何やら大きな灰色の板が立てかけられている。校舎と同じ色の、灰色の石板。
これが一体何なのか、俺には全く分からないが、とりあえずオリオ君の不在を確認したため、急いで教室に向かうことにした。
「バース様、ニーマンを捕まえて参りました。」
休み時間が終わる時、フレッチャーはニーマンを連れて教室に現れた。息を切らしているニーマンとは対照的に、フレッチャーは涼しい顔をしていた。いや、表に出さないだけで、きっと彼は激昂している。長年の感覚か、なんとなく分かる。
「いや、理由がありますバース様!なんか廊下がずっと続いていたんです!」
彼は何かを必死に伝えようと、身振り手振りで表現していたが、残念ながら俺にはさっぱりだった。
彼が支離滅裂なのはいつもの事なので置いておくとして、今はとりあえず一番気になっていることを聞くことにしよう。
「それは一旦どうでもいいから、一つだけ質問に答えてくれ。」
一旦落ち着かせ、彼を席に座らせた。俺が一番気になること、それは―――
「お前、何か問題は起こしてないよな?誰かに無礼な発言をしたりとか、誰かを殴ったりとかしてないよな?」
「してないです!誓って言えます!」
彼ははっきりと俺の目を見て言った。こういう言い方をするときは、決まって何かやらかしてくれているのだが、今は信じたいことを信じるとしよう。
「あ、そういえばですね、オリオ様。」
「え、待って、嫌な予感がするから一旦深呼吸させてくれ。」
彼の「そういえば」から始まる言葉は、きまって絶対に悪いことだ。俺はゆっくりと息を吸って、吐いた。隣を見ると、フレッチャーが微笑みを崩して、強張った顔をしていた。
「よし、で、なんだって?」
「手紙を預かっているんです。これを。」
ニーマンは白い封筒を差し出した。俺は震える手でそれを受け取った。とりあえず裏を見る。何も書かれていない。
俺はもう一度深呼吸をして、封筒を開けた。中には二枚紙が入っており、一枚は白紙だった。もう一枚には、しっかりと文字が書かれてあった―――できれば書かれてなければ良かったのだけど。
『親愛なるバース様。春もたけなわとなってまいりました。リーベリオット・フォン・ベルゼラントです。この手紙が渡されているという事は、貴方の従者が何かをしたという事です。無論、悪い意味で。
あたしからはそれだけです。あ、それと部長から伝言を承っています。
「残念ながら、君を魔研に入れることは出来ないんだ。加えて、オリオ君とはあまり仲良くしない方が良い。理由なら、今度訪ねて来た時に話そう。」
だそうです。では、お元気で。』
僕はゆっくりとフレッチャーの方を見た。彼は完全に感情を失くしてしまったようで、普段なら絶対見ることが出来ない真顔を顔面に張り付けていた。
きっとニーマンは、今日帰ったらフレッチャーにいつもより叱られてしまうのだろうと、俺は思った。
結局のところ、俺は何の成果も得られない一日を過ごした。オリオ君がどこへ行ってしまったのか見当もつかないが、また明日きっと会えるのだから、それは良しとしておこう。
☆☆☆
「アラ?今日は早いネ?おかえり、オリオ。」
早退した僕は、特に寄る場所もないので、まっすぐ寮へと帰っていた。そして、そんな僕の事を出迎えてくれたのは、不登校のルームメイト、七波七波だ。
彼は普段通り、自分のベッドで寝転がりながら本を読んだり工具をいじったりしていた。
「お前は相変わらずだよな、七波。僕もお前みたいに過ごしたいよ。」
「オイラは別に自由に生きてるだけサ。オリオも勝手に自由に生きればいいのにナ~」
ガチャガチャと音を立てながら、彼は何かを繋げて実験のようなことをしている。その様子が少しだけ気になって、僕はそれを覗いたが、よく分からないという事しか分からなかった。
「そんな簡単な問題じゃないからな。とりあえず、今から僕ここで筋トレするけど気にしないでね。」
僕はスクワットをし始めた。そんな僕の姿を見て、七波は目を丸くした。
「えぇ!?あのもやしっ子のオリオが!?シルバーバックに絆されたカ?オイラを一人にしないでおくれヨ!」
シルバーバック―――成熟した、背部の体毛が銀色になっている雄のゴリラの事。ここではグレイの事を指しているが、残念ながら、彼女は彼女である。それ以外は的を得ているけど。
「違うよ。ちょっとした課題でさ、グレイ以外から一本を取らないといけなくなったんだ。で、あの人の文脈的に、誰かと決闘をして一本取らなきゃいけないっぽいから、真面目に鍛錬してる。」
そう言ったが、彼は先程とは打って変わって、興味がなさそうに機械いじりを続けた。
「フーン、で、その誰かっテのは誰だい?」
「決まってないよ。多分、僕が決めれる。誰と戦り合うかはもう大体決めてるけど。」
そう、大体決めている。この学園で一人だけ、決闘を行って勝てる確率が高い者がいる。紅藕が言っていたように、単純な奴だ。そいつ相手に勝てる算段はあるが、無論、勝つために足りないものはある。
それ即ち、筋肉。筋肉があれば今の問題の全てを解決することが出来る。しかし、鍛錬場は使おうにも、誰かに邪魔される可能性が高い。だから僕は早々に寮に帰って、現在スクワットをしているというわけだ。
「じゃあその決めてるっテいう奴は誰なんだい?オイラに話しても誰にも口外しないっテ分かるだロ?」
しないというより、出来ないだろう。彼が一日で話す人は僕くらいしかいないのだ。だとするならば、確かに別に話しても問題はない。
僕は彼に、戦う予定の相手を言った。
「…テメ…それ………勝テるワケねーだロ!ネタか!?ネタなのか!?ジョーダンでも笑えネーゾ!」
彼は笑いながらそう言った。笑えねーなら笑うなよ。
「さしあたって七波に依頼があるんだけど、いい?」
「オウ。製作の依頼なら大歓迎だゼ。五万イェンでどうダ?」
快い返事だと思ったら、値段が大馬鹿者だった。
「不当に値段を吊り上げてるんじゃないよな……」
「イヤイヤイヤ、コレが相場らしいゾ。最近読んだ漫画に、ジブンの仕事に責任を持つために金を受け取るンダ…と書いてあってナ。クオリティは保障するゼ。」
漫画に影響を受けて値段を吊り上げるなんて、こいつはとんだ悪徳商売だ。
「…まあいいや。じゃあ一旦、これだけ渡しとく。」
と、七波に、丸められた作ってもらいたい物の図面を手渡す。それを開いてしばらくした時、七波の顔から笑いが消えていた。
「………こりゃあねェぜ、オリオ……」
「……僕は剣士じゃないからね。」
上手く言い訳が思いつかなかった。ただそれだけだった。