目じりが熱い
金雀枝が「あ、あの…」と俯きながら口を開いた。
「え、金雀枝は何も知らされて無くて…前回はみ、見つけた部員の口伝いでクリアできる簡単なものでしたけど…こ、今回はそうもい、いかないらしいです…」
金雀枝は前髪をしきりに整えながら、細々と言った。僕は金雀枝の隣にいるグレイの方を見る。
「つまりこれからどうすればいいの?」
「黙ってろ。今考える。」
グレイは手を顎に当てながら答えた。彼女は先ほどから無表情だが、身振りでなんとなく焦燥しているのが伺える。
グレイ以外の二人は、彼女が結論を出すまで何も言わないように口を塞いでいた。彼女の気を散らしたら、ただでさえ膨らんでいる左頬がさらに膨らむか、右頬が膨れてハムスターのようになる可能性があるからだ。先んじてリスクを排除する僕と金雀枝はあまりに賢すぎやしないだろうか。
そんなことを思っていたら、僕の額にかなり強力なデコピンが飛んできた。あまりの衝撃で体が後ろに傾く。
「……!いッ…!」
この一瞬で僕は思った。このまま「痛!!」と叫んでしまえば、金雀枝にまた頬を叩かれてしまうのではないか、と。だから僕はデコピンの衝撃で口から離れた右手を、体が床に倒れてしまう前に再び口に持って行った―――この時の僕の頭は、おそらくこれまでの人生で一番働いていただろう。
「変な姿勢をとるな。気が散る。」
僕と金雀枝がとっていた行為は全くの逆効果だったらしい。確かに口を押えてる人間が周囲に二人もいたら状況が奇妙すぎて気が散ってもおかしくはないか―――彼女が僕だけにデコピンをしたという事実は置いておくとして。
デコピンごときに倒された体を持ち上げ、金雀枝の方を見ると、彼女は露骨に顔を背けていた。
「よし、なんとなく分かってきた…。ここがこうで……こうだから……紅藕じゃない…ディアンでも…となるとやはり…」
先ほどから羊皮紙とにらめっこしているグレイだが、どうやら結論がでたらしく、僕と金雀枝を椅子に座らせた。二人の目の前で、彼女は羊皮紙を広げて見せた。
「まずこの地図だが、これはおそらくリーベリオット先輩が作った物だ。」
人名を出されても僕は全く分からないのだけど―――なんて口出しをしたら、僕の額はまた痛い目に遭うのだろう。彼女と会話するときはなるべく揚げ足を取らない方が良い、これは僕が今日彼女と会話していく中で学んだことである。
そんなことを考えていると、僕の額の先程と同じ場所に再びデコピンが飛んできた。あまりの痛さに僕は額を抑えながら悶絶した。
「そこは『リーベリオット先輩って誰ですか?』と聞くべきところだろうが。なんだ?お前はもしかしてやる気がないのか?人の話も真面目に聞けなくて、反応も無い。話してて心底不愉快だ。このマグロ野郎。」
そこまで罵倒されて、僕は限界を迎えた。教頭が言っていた言葉も一瞬だけ頭からすっかり抜け落ちてしまい、僕を抑えるものは無くなった。
「ほんと…いい加減にしてくれない!?別に殴らなくてもいいじゃん!僕たち文明人なんだから言葉のみで語り合おうよね!ま、野蛮人には話の内容が難しすぎるかもしれないけど!」
僕はへらへらしながら言った。常識的に考えて、会話の最中に人を殴るような奴は非常識なので、僕は己が絶対的に正しいんだという自信の下、彼女を好きなだけ罵倒した。
「なんだと!?おいオリオ!今すぐ校庭に出ろ!お前のその減らず口、叩き直してやる!」
「はい、結局グレイは暴力でねじ伏せる事しか出来ませんでした~この野蛮女!獣!魔獣!魔族!」
僕がそこまで言い切った瞬間、風が僕の髪を揺らした。
いつの間にかグレイは手に剣のようなものを持っており、それを僕に振っていた。その剣の刃先は全く尖っておらず、剣とはとても言えない物だった。木の取っ手に細長い石の板がくっついているだけ。彼女は先ほどまで帯刀をしている様子はなかったので、急に出てきた長物の存在に、僕は驚きを隠せなかった。
そして、なぜ僕がこうして彼女の得物をじっくりと観察できているかと言うと、その剣もどきが、僕の顔に当たる直前で止められていたからである。
僕の顔面と剣もどきの間に割り込むように、革製のブーツを履いた足がある。
「あ、あまり…空気がわ、悪くなっちゃうと…こ、困ります。」
金雀枝は片足立ちをしながら言った。もう片方の足でグレイの凶刃(凶棒?)を抑えている。その光景を改めて確認すると、僕の首を冷汗が伝った。
「お、オリオさん…」
金雀枝がそのままの姿勢で耳打ちしてきた。
「確かにオリオさんはま、間違ってないですよ?で、ですが…寄りにもよってあ、あのグレイさんにま、魔族発言はだめですよ…な、何も聞かされてないんですか?」
僕は無言で首を縦に振った。
魔族。それは長らく人類と敵対している種族。強力な魔術を行使し、人類の生存圏を脅かしてきた存在。僕が知っている魔族の情報はこれだけだが、なぜ彼女を魔族と呼ぶ行為がだめなのか、僕にはわからなかった。
―――いや、きっとなんとなく、なんとなくなら分かる。魔族は強力で残虐非道だから、彼女の親族が魔族に殺されてしまったとか、彼女が魔族に恨みを持っているとか、そんな理由なんだろう。
でも、そんな理由があれば人を傷つけようとする行為が許されるのは、全く持っておかしいことじゃないか。
何も知らない人を傷つける行為が何の咎めもなく、知らずに発言した人は責められる。この状況を言語化してみたらそのおかしさがはっきり分かる。だから、僕はどうして彼女を魔族と呼ぶ行為がなぜダメなのかが分からなかった。
「ぐ、グレイさん、オリオさん…知らなかったんですよ…許してあげられないんですか…?」
金雀枝は彼女に呼び掛けた。普段なら僕のことを守ってくれて、グレイの仲介役になってくれてありがとうと思っているところだが、今の僕には『許してあげられないんですか』という発言が引っかかって気になって仕方なかった―――だがしかし、それを言えるほど思い切りが良いわけでもない。
「………ふん。」
グレイは剣を掲げた。すると、剣の刃の部分がさらさらと砂になって崩れて、どこかへ飛んで行ってしまった。そして、彼女は手元に残った木の柄を懐にしまった。
「…とりあえず、この地図の番号通りに巡るぞ。ずっとここにいるより歩きながら考えた方が良い。」
そう言って、彼女は勝手に歩き出して図書室から出て行ってしまった。
………目尻が熱い。
「お、オリオさん…行きましょう…?」
金雀枝は足を下ろし、僕の肩をポンと叩いた。
「あっ…」
その瞬間、金雀枝は何かに気付いたらしく、微かに取り乱しながら、無言でゆっくりと後ずさりし、図書館から出て行った。
一人取り残された僕は、静かに肩を震わせた。