ラディと空色スープ 、雲売り少女の昼と夜
その日、私は空からスープを拾った。
空から、というのはちょっと大げさかもしれない。けれど、本当にそれは、空の上から落ちてきたように思えたのだ。
灰色の雲がちぎれて風に乗り、丘の上の私の屋台にふわりと落ちてきて、木箱の中で湯気を立てたみたいな。
「…こりゃあ、またえらいのが降ってきたわね」
私は木箱の中の鍋を覗き込んで、ぽつりと呟いた。中身は、淡い水色をしたとろみのあるスープ。見たことのない色なのに、不思議と懐かしい香りがする。
鍋を抱えて丘を降りながら、私は少しだけ笑ってしまった。
だってこれは、きっと“空からの贈りもの”だ。そう思わなきゃ、やってられないくらい、今日はついてなかったのだから。
私はラディ。
年齢は秘密だけど、まあ、若いってことにしておいて。
丘の上で“雲売り”をしている。朝になると山道を登って、雲をすくって売る。ふわふわの飾りにもなるし、乾かせば甘いお菓子にもなる。でも、天気が悪い日は、そもそも雲が降りてこないから、商売にならない。
そして今日は、まさにそんな日だった。
雨混じりの空、しけた風、だーれもやって来ない市場。売れ残った雲のかけらと、風にさらされた看板。まったく、これでまた夜はおかゆ生活かしらなんて思ってた矢先。
「スープ」が、降ってきたのだ。
そしてこのスープが、私の世界を変えるなんて、その時の私はまだ知らなかった。
丘のふもとにある、私の仮住まい。といっても、借家じゃない。古びた気球小屋をちょっとだけ改装して、台所と寝る場所を作っただけの粗末な場所。でも私には、十分だった。料理もできるし、風の音もよく聞こえるし。
私は拾ったスープを、小さな鍋に移して火にかけた。
もとの香りを壊さないように、塩もスパイスも何も足さず、ただ温めるだけ。
そして、ひとさじ。口に含んで
「…ん、これ…」
柔らかくて、ほんのり甘くて、けれど芯のある味。クリームでも魚介でもないのに、しっかりとした旨みがあって、体の中がぽかぽかしてくる。まるで、雲を煮込んだみたい。
「まさか、これが…“天頂スープ”?」
それは空の都〈セレスティア〉でしか作られない、幻のスープだと聞いていた。
雲のしずく、空魚の骨、星影草そんな空に浮かぶ素材で作られる料理。地上には絶対に降りてこないはずの、伝説の一品。
でも、もしこれが本物なら…。
その瞬間、扉がノックされた。
「…誰?」
雨のはずれた夜に、こんな丘のふもとまで人が来るなんて珍しい。警戒しつつ扉を開けると、そこには、びしょ濡れの青年が立っていた。
「すまない。…君の屋台で、スープを見かけた気がしたんだが」
濡れた黒髪、空色の外套、鋭いけれど優しげな眼差し。
「…あなた、空から落ちてきた?」
私がそう聞くと、彼はふっと笑った。
「ああ。実際、そうかもしれない」
彼の名はナイリ。
空の都から来た、スープ職人だという。
「空の都から、来た…?」
スープを温めなおしながら私は、ナイリという青年を観察していた。
濡れた外套を脱いだ彼は、まるで空のかけらをまとったような人だった。目の色は淡い灰青で、声は落ち着いていて、しぐさのひとつひとつが、どこか地上の常識からずれていた。
「さっきのスープ…あれ、あなたの?」
問いかけると、彼はうなずいた。
「“天頂スープ”。空の都では、祝祭の夜にだけ出される料理だ。今日ちょうどそれが振る舞われる日だった。けれど、僕は…そこにいられなかった」
「なにかあったの?」
彼は少し黙って、それからぽつりと答えた。
「逃げてきたんだ。僕は空の料理長の息子で、次代を継ぐように言われてた。だけど…」
彼の瞳が、かすかに揺れた。
「僕は、自分の料理を作りたかった。雲の上じゃない、地上の風や光を感じながら」
私はその言葉に、少しだけ胸を突かれた。
どこか似ている。
家を出て、丘の上で小さな屋台を続けている自分と。
夜が更けると、風が冷たくなった。私はナイリに着替えを貸し、薪を多めにくべて、テーブルにさっきのスープを並べた。彼は何度も「ありがとう」と言って、両手で丁寧に湯気をすくいながら飲んでいた。
「…でも、どうやって空からスープが落ちてくるの?」
私はずっと気になっていたことを聞いた。ナイリは笑いながら答えた。
「料理祭では、大きな“風皿”にスープを載せて空に放つんだ。幸運のしるしとして。…君のところに落ちたのは、偶然じゃないかもしれない」
「どうして?」
「君の屋台、風の道筋の真下にある。地図で見たことがあるんだ。いつか、行ってみたいって思ってた」
私は思わず頬が熱くなるのを感じた。
だって、それってまるで…運命の出会い、みたいじゃない。
その夜、ナイリは仮眠室で眠り、私は台所でレシピ帳を広げていた。
スープの味を再現したい。
ただ拾っただけじゃなく、自分の手で“作り出したい”と思った。
雲の味、空魚の骨の香り、星影草の甘み…。どれも地上じゃ手に入らない。けれど、似た食材ならあるかもしれない。
私は小瓶にラベルを貼っていく。
「代用・星影草:夜露ミント+甘露果皮」
「代用・空魚出汁:薄灰干し+銀ダシ茸」
私にも、空に届く味が作れるかもしれない。
そう思えたのは、ナイリのおかげだ。
翌朝、彼は黙って丘の上の屋台まで私についてきた。
今日は風がよく吹いていて、雲もふわふわと低く流れていた。
「雲、売れるかもしれないわ」
私はそう言って笑い、屋台を開いた。
ナイリは雲を触って目を細め、「これ…空の雲より美味しそうだ」とつぶやいた。
「そっちの雲は、味あるの?」
「あるよ。甘くて、少し、切ない」
ナイリのその言葉に、胸がきゅうっとした。
それから、ぽつりぽつりと客が来はじめた。旅の商人、町の子供たち、そして村の若者たち。私は雲のお菓子と一緒に、試作した“空もどきスープ”を振る舞った。
「あったかい…」
「なんだか、夢を食べてるみたい」
「また来てもいい?」
そんな声が、胸の奥をじんわりあたためた。
店じまいのあと、ナイリはぽつりとつぶやいた。
「…君の味は、空よりも美味しい」
私は思わず彼を見た。
彼は頬を染めながら、でもまっすぐこちらを見ていた。
風が吹いて、私の三つ編みが揺れた。
きっと、また何かが始まるそんな予感がした。
ナイリが丘に残るようになって、三日が経った。
彼は料理の腕を隠そうともしない。私が作る“空もどきスープ”にそっと手を加えてくるのだ。火の加減、具材の切り方、塩の入れるタイミングどれも正確で美しくて、私なんかよりよほど上手。
なのに彼は言う。
「僕は、君の作る“間違ったスープ”が好きなんだ」
それは皮肉じゃなく、本気の顔だった。
私はなんとなく胸がもぞもぞして、スプーンで鍋の底をつついてしまう。
今日は市場に出かける日。ふもとの町まで歩いて、地元の食材を仕入れる。
私はナイリに「休んでていいわよ」と言ったけど、当然のように彼はついてきた。
「市場なんて初めてだ」と言って目を輝かせてる彼を見て、私はなんだか妙にうれしくなってしまった。
市場では、春風豆という黄緑色の鞘豆が出ていた。皮ごと煮込むと、口の中でふわりとほどけて、まるで風を食べてるみたいな食感になる。
「これ、スープに使えるかな?」
「甘みのある根菜と一緒なら合うよ。…たとえば“あかつき芋”。知ってる?」
ナイリが言うその芋は、夜明け前に掘ったものだけが淡い橙色をしていて、加熱すると空のような青い筋が現れるという。
私は首を振って「知らない」と言った。
そしてその一瞬、ナイリの顔が曇ったのを、私は見逃さなかった。
丘に戻って、新しいスープ作りが始まった。
鍋に風豆、あかつき芋、岩茸出汁、月香草、そして最後に、私がこっそり隠しておいた“空色岩塩”を入れる。
ナイリの視線がぴたりと止まった。
「…これ、どこで手に入れたの?」
「昔、旅の料理人に分けてもらったの。何年も使えなくて、大事にしてたんだけど…今なら使ってもいいかなって」
彼は少し黙って、それから静かに言った。
「空色岩塩は、空の都の一部しか作れない。君がそれを持ってるのは、きっと偶然じゃない」
私は笑ってごまかした。でも、どきりとしたのは私の方だった。
ナイリの視線の奥に、なにか探るような色がある。
まるで、私の“嘘”を見透かしているような。
実は、私にも秘密があった。
私は“ただの雲売り”じゃない。
子供の頃、空に憧れていた私は、一度だけ〈セレスティア〉に忍び込んだことがあるのだ。
気球を自作して、風を読み、運良く雲の海を渡って辿り着いた。そこにいたのが、まだ幼い頃のナイリだったけれど彼は覚えていないようだった。
私はそこで見た味、匂い、風、料理すべてを忘れられずに地上へ戻った。
そして、いつかまた、空に届く味を作りたいと思っていた。
ナイリに、いつか話そう。そう思っていた。
でも彼は、先に動いた。
「ラディ。明日、一緒に旅に出ないか」
スープを飲み干したあと、彼は唐突に言った。
「君と一緒なら、きっと“どこにでも行ける”。地上の風を知らないまま、空の料理を作るのはもう嫌なんだ。…君となら、風の味を探せる気がする」
その言葉に、胸がぎゅうっとなる。
夢みたいな誘い。
けれど、私には“あの夜のこと”をまだ伝えていない。
ナイリが忘れてしまった出会い。
あのスープの、最初の一口。
私はそっと、スプーンを置いて言った。
「明日、答えるわ」
風がふわりと吹いて、テーブルの上のスパイスが舞った。
甘くて、少し苦いまるで、初恋の香りのように。
旅に出るその言葉が、夜のあいだずっと私の胸に灯っていた。
屋台の片付けを終えたあと、ナイリは仮眠室で眠り、私は外のベンチに腰を下ろしていた。丘の上は風が強くて、月がいつもより近く見えた。
旅に出れば、あの雲の海の向こうに、また出会えるのだろうか。
忘れられてしまった“あの夜”を、もう一度彼に伝えることができるだろうか。
私は、ずっとあのときのままだったのかもしれない。
ひと匙のスープに恋をして、忘れられないまま地上で雲を売っていた。
翌朝。屋台を開く前に、私はナイリに言った。
「旅、行こう。私も行きたい」
彼の目がぱっと明るくなった。その笑顔に、あの頃と同じ光を見た。
でも、私はすぐに続ける。
「ただ、その前に…ひとつだけ話しておきたいことがあるの」
そして、私は語った。
まだ幼かった頃の自分が、空の都を目指したこと。
自作の気球で飛んだこと。
夜の祝祭の料理に、ひと匙だけ口をつけたことそして、彼に会ったこと。
ナイリはしばらく何も言わず、風に吹かれたまま、空を見ていた。
それから、静かに笑った。
「…君だったのか」
私は目を見張った。
「覚えてたの?」
「忘れてたつもりだった。でも、君のスープを飲んだときあのときの味と同じだって思ったんだ。まさか、本当に君だったなんて」
そして彼は言った。
「僕はあの夜、誰かのスプーンがこっそり鍋に入っていたことに気づいていた。でも、不思議と怒る気にはなれなかった。むしろ、それは“予告”のように感じた。いつか、またこの味に会えるって」
旅立ちの準備は簡単だった。
私は屋台の鍵を小さな缶に入れ、丘の木の根元に埋めた。帰ってくる場所を残したかった。
村人たちは「ついに旅に出るのね」と笑って送り出してくれた。
私の“スープと雲のお店”は、しばらく休業になる。
旅の最初の町で、ふたりはスープをふるまった。
春風豆とあかつき芋、夜露ミントと銀ダシ茸、そこに一つまみの空色岩塩。
鍋から立ちのぼる香りは、見知らぬ町の人々の心にも届いた。
「この味、空の匂いがする」
「どこか懐かしい…」
誰かがそうつぶやいたとき、私は思った。
たぶん、私たちが作っているのは、記憶の味だ。
幼い頃に見た空、夢に見た丘、初めて好きになった誰かと食べたスープの味。
夜、ナイリと並んで空を見上げながら、私はぽつりと言った。
「ねえ、ナイリ。今度は、私たちのスープを空に届けたいな」
「空に?」
「うん。空の都にも、風に乗せて。今度は、誰かがこっそり味見してくれるかもしれないでしょ」
ナイリはふふっと笑ってうなずいた。
「それは素敵だ。じゃあ、空のレシピ帳に新しい一頁を足そう」
私は彼の手を取った。
あの夜に味わった“ひと匙”が、今やこんなに遠くまで来た。
そしてこれから、もっと遠くへ行くのだろう。
雲を売っていた丘の上で始まったこの旅は、たぶんまだ、序章にすぎない。
風に乗って、夢の味はどこまでも続く。
おしまい