異世界に堕ちる人
パチパチと薪が爆ぜる音で目を覚ます。
深いまどろみの中から段々と水上に上がってくるような感覚を覚え、意識がクリアになるのを感じる。
感覚の中で真っ先に戻ってきたのは聴覚だった。複数人の笑い声が遠くから波のように響いてくる。
「しかしなんとも頭のいい犬じゃ、このゴーシュの森で主を守り切るとはそうできることではないわい」
「ワン!」
聞きなれた鳴き声は涙が出るほどに懐かしく感じた。
「しかしこいつどれだけ食うんだ••••••備蓄していた乾燥肉がそろそろ底を突くぞ」
「森狼より小さな体なのにすごい食欲ですね、何日も食べていなかったのではないでしょうか?」
まだ微かに痛みの残る体をなんとか引き起こし、声のする方へ視線を向ける。
完全に視力が回復した訳では無いが、なんとか輪郭は捉えられる程度にはなっているようだ。
地に着いた手が落ち葉を砕く音で一番近くにいた人間がこちらを振り向くような素振りを見せた。
「••••••おお、起きたか犬の主人よ」
恐らくは自分を助けてくれた相手に礼を言おうとするが、それは叶わなかった。
シュミッド号は人が認知できる速度をはるかに超えたスピードで飛びついてきたからだーー。
ーーーー
「ーーゲホッ、ゲホッ、おえっ••••••」
鳩尾に頭突きをモロに喰らい、丸まって咳き込む俺の頬をちぎれんばかりにしっぽを振りながら舐める。
訓練では精鋭と呼ぶにふさわしい姿を見せる優秀犬なのに、ひとたび甘え始めれば抑えが効かないのはなぜなんだ••••••そんな文句も腹部の痛みに耐える俺の口から出ることは無かった。
「あの、大丈夫ですか? これお水です、落ち着いたら飲んでくださいね」
脇から差し出された杯を涙目で見る。視線を僅かに上にあげると丸メガネをかけたボブカットの少女がこちらを見下ろしていた。
(すいません••••••ありがとうございます)
まだ、声は出なさそうだ••••••。
しばらく冬の寒さに耐えるクマのように丸まって痛みに耐えていたが、やっと動けるようになり改めて礼を言おうとしてそこで気がついた。
「ここは、どこなんですかね••••••」
視界に映る部分は焚き火の明かりに照らされた範囲に限られるが、ぐるりと一周見回してもそこには空を刺すようにそびえ立つ巨木が立ち並ぶだけの場所だった。
足元はじっとりと湿った土と焚き火を反射する水玉の乗った苔。
どう考えても、犬舎の外に広がる広場ではないことだけは明らかだった。
ーー
「ワシはギルボっちゅうもんじゃ、見ての通りドワーフで鉄器とガラス細工を専門にやっとる」
立派な髭をたくわえた低身長の男ーー見かけによらず声は若いが、それよりも目を引くのはその厚い体。
腰に指したハンマーは以前通っていたジムにある一番重いダンベルよりも大きそうに見える。
「私はシーラ、ダークエルフの戦士だ」
スラリと高い背と引き締まった体は全体が薄く紫がかっている。誰もが目を奪われそうなプロポーションではあるが、綺麗に六つに割れた腹筋と歴戦を容易に想像させる刀傷は邪な思いを吹き飛ばしてしまうほどの迫力だ。
長剣を左腰に下げ、いつでも抜けるように手はそこから離さずにいる••••••何か怪しい仕草を見せれば一刀の元切り伏せられそうな空気を感じる。
「私はリズ・シュトラウスと申します。あなたと同じヒューマン種で、このパーティでは後方支援と回復役を兼任しています、どうかリズとお呼びください」
一番とっつきやすそうな彼女は俺と同じ人種らしい。
サラサラの黒髪をボブに切りそろえ、大きめの丸メガネをかけた姿は日本人に通ずるところがあって一番安心感を覚える。
彼女が座る丸太には大きな宝石のようなものがついた身長よりも大きそうな杖が立てかけてある。
「俺は犬飼裕也と言います。こっちは相棒のシュミッド号です」
混乱する俺をリズがなんとかなだめ、焚き火を囲みながらとりあえず自己紹介をすることになった。
シュミッド号が警戒を解いていたことが俺が安心出来る一つの理由にはなったが、腰を据えて彼らと向かい合っている今でも頭の中はグルグルと思考が定まらない状態だ。
そこからかなりの時間をかけて自分の置かれている状況を説明した。
雷に打たれて気がついたらここにいたこと、倒れた場所とは全く違う森の中に移動していること、自分が暮らしていた世界にはドワーフやダークエルフといった人種はいなかった事などを言葉につまりながらもなんとか伝えていく。
「なるほど、それはもしかして黄泉落としと呼ばれる現象かもしれんの」
髭を撫でつけながらギルボが呟いた。
「よみおとし••••••それはどういうことなんでしょう?」
「昔の文献なんかを見るとたまに出てくるんじゃよ、急に別の世界から現れるヒトが。面白いことにそれはヒューマン種しか起こらない現象らしくての••••••伝説のような眉唾の話じゃが『神様がこちらに連れてきた』なんて言われたりもするんじゃ」
「我がダークエルフの里の長も似たようなことを言っていた。数百年前に里に突如ヒューマンの女が現れたと、ついに人間がダークエルフを滅ぼしに来たかと大騒ぎになったそうだ」
木を削った簡素な器で出来たてのスープをゆっくりと飲んでいたリズもこの話に興味があるようで膝に皿を置いてこちらの会話に耳を傾けている。
「••••••シュミッド、ステイ」
その脇からそーっと鼻を伸ばしてきた食いしん坊を俺は見逃さなかった。