40. 逆心
天文18年(1549年) 12月 那古野郊外
織田 大和守(信友)
三の丸で滝川一益達が行動を起こしたのと同じ頃。那古野郊外に陣を敷く尾張守護代・織田信友と家老・織田三位は、静かだった城下方面から微かに聞こえてくる鬨の声と、手筈どおりであれば乗っ取り完了の知らせである狼煙が上がらないことを不審に思っていた――。
「大膳め、しくじりおったか」
儂が怒り任せて床几を蹴り飛ばしたため、陣幕内の幾人かがびくりと反応した。儂の視線から逃れるように皆が顔を俯けている。
内応した蟹江領主と共に城内を制圧する手筈の筆頭家老・坂井大膳。定期的に那古野城下へ伝令を放ってはいるのだが、肝心の大膳からの報告は梨の礫だ。
「ただ時間が掛かっているだけかもしれませぬが……」
皆が黙り込むなか、おずおずと儂に口答えしてきたのは大膳と同じ派閥の織田三位。この織田三位と坂井甚助、河尻左馬丞ら家老三人衆は、小守護代と呼ばれる坂井大膳の腰巾着。先代からの重臣達で、当主であるはずの儂でも御しきれぬほど当家の実権を握っている。
「ほんにそう思うのか。これだけ待っても報告がないのだぞ?」
「し、しかし……大膳殿は御先代様からも信頼が厚く、常に大和守家へ尽くしておる御仁――」
おのれ三位め。此奴いまだに大膳の味方をするか。先代から続けて筆頭家老として家中で大きな顔をしてきた大膳がそれほど怖いのか。
「そのようなことは分かっておる」
「ではどうか、今しばらく……」
これだけ待っても狼煙が上がらぬということは彼奴の策は失敗したのだろうに。奴も、取り巻きの甚助や三位もあれだけ自信満々だったというのに情けない。
坂井大膳――小守護代と呼ばれ、筆頭家老として親父から家督を継いだ儂を操っておったつもりじゃろうが、弾正忠家の新参家臣に騙される程度の能力だとはな。この企みもうまくゆけば大和守家――いや、儂に損はないと思って好きにさせたが……。
「三位よ、清州へ退くぞ」
「はっ……。し、しかし、大膳殿の策では我らは乗っ取りの合図を待った後、総攻めを……」
此奴ら二人に坂井甚介を加えた三家老は筆頭家老の大膳と共に昔から甘い汁を吸ってきた仲である。そう簡単には大膳を見捨てられぬか。
「大膳がしくじったことは明らか。早く清州へ戻らねば守護様に此度の事、気取られるぞ」
「ですが……」
「くどいぞ、三位。武衛は弾正忠家との戦を許さぬ。いくら政を知らぬ武衛と言えど、尾張国内での戦は流石に気づく」
武衛に弾正忠家を攻めたことが露呈するのはまずい。ついこの前も釘を刺されたばかりで、そう何度も言い訳はできぬ。
眉間にしわを寄せ、俺の意見に反論できなくなった三位がちらちらと、那古野城の方へと撤退を渋るかのように視線を向けた。何度確認しようがそこには狼煙など上がっていないのだが――。
早く狼煙を上げてくれと言わんばかりに陣幕の隙間から那古野城を見つめる三位をよそに、儂は床几の前に広げられた尾張南部の地図を見つめる。
庄内川を渡って萱津から清州に退くか――。しばし地図を睨んでいた儂が、清州城へ戻る道筋を定めたところで、焦る三位と対照的に、黙って床几に座していた河尻左馬丞が口を開いた。
「三位殿。ここは殿の仰る通り、退きましょう」
「か、河尻殿……。それでは大膳殿と甚助が……」
どうやら河尻の方は大膳を諦め、今後の家老同士の権力争いに目線を変えたようだ。さも、大膳らを残して退くのは心苦しい……といった様子の河尻だが、うちの家老達にお互いを思いやるといった情がないことは知っている。あくまで利で繋がっておるだけなのだ。
この期に及んでまで大膳の腰巾着の三位と違い、急に俺を尊重するような振る舞いを始めた河尻左馬丞。大膳と甚助がいなくなったことで、三位を出し抜き、少しでも俺にすり寄る魂胆が透けて見えた。
「三位殿……、大膳殿は敵に欺かれたのですよ。我らも早く清州へ退かねば弾正忠の援軍が来てしまいまする」
「たしかにそうですが……」
三位は、そう言って苦虫を嚙み潰したような顰め面で左馬丞を見返した。対する左馬丞は無表情で三位を見返す。
「……、かしこまりました。皆に退き支度をさせまする」
左馬丞から目を逸らし、一度目をつぶって考え込むような仕草をした三位だったが、やがて諦めがついたのか床几から立ち上がり、陣幕から出て行った。
これまでじりじりと大膳の知らせを野営の陣で待ち続けていたのとは対照的に、それからの退き支度は早かった。三位を先頭に我ら軍勢は庄内川の渡りへと進む。
しかし、城を手に入れずに退かねばならぬとはいえ、狐顔でねっとりと笑う大膳を見なくてよくなったことはうれしいくらいだ。これでようやく大和守家の権力は儂のもとで一つとなる。
癪ではあるが、一時の負けなど、あの弾正忠のうつけ嫡男にくれてやろう。清州に戻り次第、弟の勘十郎を煽って弾正忠家の内紛を起こせばこのような細事、あってないようなものだ。
そのようなことを馬上で考えながら進んでいると、あとすこしで川の浅瀬――、足軽達も徒歩で渡れるという場所まで進んだところで列の歩みが止まった。
何事かと近くに配していた左馬丞と話していると、三位の旗印を背負った伝令が駆けてきた。
「恐れながら大和守様……、織田三位様が大和守様のご足労を願い出ておりまする」
「三位が? 分かった。左馬丞、ゆくぞ」
「ははっ」
馬を先頭まで走らせると、困惑顔で儂を出迎える三位と、我らの進行方法に陣取る数名の武者と小者らに担がれた豪華な輿に乗った男が見えた。
「おい三位、なにがあった」
「はっ。それが……」
困惑顔の三位に儂が馬上から話しかけると、三位が答えるより先に、聞き覚えのある声が我らの行く手を遮っている輿に乗った人物から発せられた。
「大和守よ。貴様、儂を謀っておったな!! この儂を……、いや、斯波家を欺いたからにはその首落とさねば納得いかぬっ」
「……、この声。なぜこのような場所に守護様が……」
川を渡れば清州城まであと少し――。庄内川を背に、我らの前に立ちはだかる様に位置していたのは、尾張国守護宗家・斯波義統であった。
「恐れながら、守護様が何を申しておるのか某にはさっぱり……」
「おのれ大和守、白を切るかぁっ!! その方、弾正忠家を攻めるだけでなく、憎き今川と手を組んだであろうがぁっ」
輿の上で片膝立てて儂を怒鳴りつける守護様は憤怒の表情で叫んでいた。
まともな戦場に出たこともない癖にこのような声量が出せるとは、戦場であれば声の通るよい大将であっただろうに――。
いつもならどう言い訳して武衛の怒りを収めようかと逡巡するはずだが、なぜだか今日はどうでもいいことが頭に浮かんだ。大膳が居なくなって儂を縛るものがいないからであろうか……。
「いったいなにをおっしゃているのか……」
「これがその証拠じゃっ!! この手紙の印……、その方の印判であろうが!! 」
怒りに震える手で武衛が儂に掲げたのは今川と結んだ密約の書。岡崎城の戦に際して、弾正忠家に儂らが圧力をかけるという取り決めの書類だ。
誰が武衛に告げ口し、あの書類を手に入れたのか……。近侍の誰かか、それともほかに弾正忠家の息のかかった者が潜んでおったのか?
「何故、守護様がその手紙を……」
「主人に背き、斯波家の仇と言える今川と手を組むなど……。これまでお主に思うところあれど黙ってきたが、こればかりは許せん!! この場でその首、落としてくれる」
その後も輿の上で儂を糾弾する言葉を吐き、騒ぎ続ける武衛。刀もろくに振れない癖に儂の首を落とすだと!? 馬にも乗れず、輿に乗って戦場に出てくる輩が何を言うか。
これまで尾張を治めてきたのは守護代・大和守家――、儂であるぞ。家柄だけが取り柄の守護様に政に口出しされたくはないわ。
「黙れ……」
「な、なんじゃと!? お主、誰に向かってそのような口を――」
小守護代と持て囃された大膳が居なくなり、ようやく大和守家も儂の自由で動かせるようになるのだ。
弾正忠にも、大膳にも、そして武衛にも儂の邪魔はさせぬ。守護などただのお飾りで居ればよい。今の武衛には退いていただき、まだ幼いが若武衛――、岩竜丸(斯波義銀)に挿げ替える。
「左馬丞、弓を寄越せ」
「大和守様、それは……」
「それ以上言うな、三位よ……」
儂は、いまだに儂に向かって喚き続ける武衛を無視し、そばにいた河尻左馬丞に弓を用意させた。
左馬丞は儂の言葉にほんの少し動きが固まったが、決意したかのように矢筒から矢を取り出すと、儂に弓と合わせて差し出した。隣にいた三位が驚いたように儂の顔を見て何か言おうとしたが、すでに儂の腹は決まったのだ。
暗い夜であったためか、それとも怒りで興奮していたためか――、武衛は儂が弓をつがえたことに気づかず、輿の上で汚い言葉で罵り続けていた。
「武衛よ、去ね」
輿の周りにいた武者の一人が儂の構えに気づいたのか、輿上の武衛に慌てて何か伝えるのが見えたが――、間に合わぬ。
儂の放った必死の矢は見事な弧を描き、最後まで金切り声で喚いていた武衛の胸を貫いた。




