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宵の巫女  作者: シュリ
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第八話 それぞれの夜

 カイネに連れられるまま、広間を出て廊下を渡り、階段を上がる。


「寝室は上にあるの。衣装部屋も、お食事部屋も、だいたい全部そろっているわ」


 この娘は、いったい何を企んでいるのだろう。


「さあ、ついたわ。今日からあなたはここで、私と一緒に眠るのよ」


 目の前には、古びた金の装飾の施された扉があった。ずいぶん傷んでいるが、今まで通り過ぎてきた他の扉に比べれば幾分マシに見える。

 カイネに導かれるまま、警戒を崩さぬよう慎重に足を踏み入れる。薔薇柄の分厚い絨毯が敷かれ、ソファやテーブル、ベッドもある。リリーの屋敷で見たものより装飾も細かく高価そうではあるが、色褪せて端がすり切れているのが月明かりにもよくわかった。いったいいつからそこにあるものなのだろう。


 カイネはベッドに腰掛け、「イグニス」と呼びかける。

 イグニスは、まだ少し不満顔のまま、彼女の前に立った。カイネは両手をあげ、彼の頬にそっと触れる。

「だいぶ、力を使ったみたいね」と、頬から首、脇腹、腰……と順繰りに触れていった。「でも、傷は全然ないのね。さすがだわ、レオ。あの子の命令に忠実ね」

 命令、という言葉にひっかかりを覚えるが、レオは部屋の隅に突っ立ったまま、口を閉ざしていた。


「クイーン……」

 イグニスがかすれた声をあげる。レオに向かって吠え立てたときとは別人のようにしおらしく、彼女の足もとに膝をつく。


「わかっているわ。力を注いであげる」

 カイネはイグニスの輝く銀髪に手をいれ、くしゃりと撫でると、すっと身を乗り出した。

 レオは思わず眼を上げ――その光景に釘づけになった。


 美しい少年の、薄く開いた唇に、カイネの白い唇が重ねられる。しばらくそのまま、互いにじっと動かない。


 目を疑うような光景だった。リリーとの二年の旅で、人間の風習をいくつも目にしてきたが、あの行為は男女の(つが)いの証ではなかったか。もちろん親しい友人同士で交わされる挨拶でもあったが、一瞬だけの軽いものだ。しかしこれは、どう見ても……


 あまりに突然のことに、レオは目をそらすこともできないまま、その場からぴくりとも動けなかった。

 やがてカイネは唇を離し、もう一度イグニスの頭を優しく撫でる。少年は心地よさそうに目を細めた。


「レオ、あなた、初めて見るって顔ね」

 おもしろがるような口調でレオを見る。

「あなたの元主人は、してくれなかったの?」

「……」

「力を使ったなら、回復してあげないと。戦って傷を負ったら、従者(エキュワイア)は力を使って自力で治さなくちゃならないじゃない。あなたも主人を守るたびに傷を負ってきたでしょう?」


 力の回復など初耳だった。確かに傷の治りが通常の生き物より早いとは知っていたし、それが体内の魔力の影響ではないかとも思っていたが……


「力は、契約した主人から分け与えられるものよ。ああでも、あなたたちって正式に契約したわけじゃないんだったかしら。あら? じゃああなたは一体……」


 しばし考え込むが答えは出ず、カイネは諦めたように首を振った。


「なんにせよ、気の毒だったわね。力を与えられないまま、自分の魂のエネルギーだけでまかなってきたなんて。でもそれって、死にかけるほどの大きな傷を負ってしまったら取り返しがつかなくなるのよ」

 カイネはレオへ向かって手招いた。

「おいでなさいよ。私と契約しましょう。そうしたら毎晩、力を注いであげるわ」

「必要ない」


 短くつっぱねる。たちまち、イグニスがカッと目を見開いた。先ほどまでとろけそうだった顔に激しい憤怒がぎらついている。


「どうして?」

 カイネは不思議そうに首を傾げる。「一度味わってみればいいわ。魂に力が満ちる感覚は、えも言われぬ悦びだそうよ。今まで仮の主人にほうっとかれた分、これからは私が――」

「俺は、おまえの従者になるつもりはない」


 今度こそ、イグニスが立ち上がる。「貴様――」猛然と脚を踏み出し、レオへ向かって突き進む。

「およしなさい」後ろからカイネがぴしりと言い放った。「私の命令もなしに戦わないでちょうだい。ほんとうに血の気が多いんだから」

「ですが、クイーン……」

「なんだか気がそがれちゃった。レオから言い出すまで私、待ってるわ。……ふああ、眠たい」


 カイネは欠伸をかみ殺し、背中からベッドに倒れ込んだ。

「レオ、また明日ね。リリーともお喋りしなくっちゃ。ああ楽しみ……忙しくなるわ……」


 イグニスがカイネの傍に飛んでいき、いそいそと毛布をかける。そして自分は一角獣の姿に戻るとベッドのすぐそばで脚を折り畳み、数秒も経たずに寝息をたてはじめた。

 深々と、ため息を吐き出す。レオは壁の隅に座り込み、目を閉じた。

 リリーは今、どうしているだろう。


 別れ際の、リリーの顔が目に浮かぶ。

 彼女はあのとき、見たこともないような複雑な表情をしていた。見た目には明るい笑顔だったが、笑ってなどいない。何か強い感情をぐっと押しとどめた顔だった……


〝カイネを、守ってね〟


 何からどう守れというのだ。

 あなたは誰に守られるつもりなのだ。


 村の宿を出たときは、まさかこんなことになるなど思いもしなかった。雪山に向かうと決まったときも、リリーには悪いが魔女の存在など半分も信じていなかったのだ。自分はただ彼女の隣を行くだけだと、その思いで従っただけだ。

 魔女は実際にいた。あの黒の手記と同じように獣を従え、不可思議な力を使う者……彼女はリリーを守ると言った。そして、彼女から自分を引き離した。

 一体なにが狙いなのだ。目的がわからない。敵か味方か、はっきりと判別できない。


 ひとつ確かなのは、味方かどうかはっきりしないうちは、警戒を怠ってはならないということだ。いつリリーに危害が及ぶのかわからない。リリーのそばには今、魔女の手下がついているのだから。

 


「別棟なんて、全然使ってなかったから。ちょっと片付けないといけないかもしれない」

 イシュケの弁解にリリーは首を振る。

「いいえ。だいじょうぶ。わたしのことは、どうか気にしないで」

「いや……僕はクイーンからお世話を任されているんだから」


 彼は爽やかな笑みを崩さない。だがそこに無理があるということは、リリーにも痛いほど伝わっていた。


「ああ、たぶんこの部屋が一番広いかな。ベッドもあったはずだよ。じゃあ、僕が先に入るね」


 イシュケが立ち止まった扉は元は豪華なつくりだったのだろうが、あちこち変色し、かなり傷んでいるのが見て取れた。扉を引くと耳障りな摩擦音がして、中から湿気たにおいがむっと広がった。


「ああ……うん、まあ、予想はしてた」


 中はすり切れてぼろぼろの絨毯が広がり、同様に傷んだソファと古びたテーブル、奥にベッドが置かれていた。アーチ型の窓は閉め切られ、両脇にはもともとカーテンだったのであろう布切れがぶら下がっている。


「こっちも掃除しなくちゃなあ」


 イシュケがのぞき込んでいるのは、壁をくり抜いた形の暖炉だ。中は埃と煤まみれでひどく汚れている。


「ごめんね、ここ以上の部屋はたぶんないんだ。今から急いで掃除するから、リリーは休んでてよ」

「いいえ、わたしにもやらせて」リリーは言って、毛皮を脱いだ。

「いや、やらなくていいってば! リリーはクイーンのお客様なんだよ。手伝ってもらったなんて知れたら……」

「問題ないはずよ。だってわたしの意思なんだもの」


 ちっともめげないリリーに根負けして、イシュケは仕方なさそうにバケツやブラシをリリーに差し出した。


「ああ、そうだわ。どこかでお水を汲まなくちゃ。井戸はあるの? ああ、外から雪を持ってくればいいのかしら」

「雪もいいけど、もっと簡単な方法があるよ」


 イシュケは言って、手をバケツの方へ向けた。リリーの足下に置かれた木のバケツのなかに、みるみるうちに透明な液体が溜まっていく。

「……え?」

 目をしばたたかせるリリーに、イシュケは悪戯っぽい笑みを見せた。


「僕の力だよ。イグニスは火で、僕は氷。あはは、対極的な双子でしょう」

「そうね……」未だ信じられなくて、何度もバケツの中を覗き込んでしまう。

「でも、氷なのに、水……?」

「うーんと……説明が難しいな。僕は氷の溶ける温度を変えられるんだ。だから実質、水も操れるんだよ。ちょっと手間だけどね」

「それ、本当!? すごいわ、魔法みたい。昔、おとぎ話の本で読んだの、優しい魔法使いが干ばつに苦しむ国を水の魔法で救うお話……」

「おおげさだよ」


 リリーがあまりにきらきらした眼を向けてくるので、イシュケは照れたようにそっぽを向いた。


「僕の力なんてたいしたことないんだから」

「大したことあるわ。素敵よ。レオも熱糸や火が出せるんだけど、そういうのを目にするたびに、わたしは何もできないなあって改めて悔しくなるもの」


 イシュケはなんだか困ったように眉を下げ、ブラシを手にとった。


「君は、クイーンと似てるけど、全然ちがうんだね」

「え?」

「ううん。なんでもないよ。早く掃除して、ゆっくり眠ろう。夜更かしするとクイーンに怒られるから」


 それからふたりは夜通しかけて暖炉のなかの汚れを取り除いていった。煤も埃も頑固で苦労したが、そのたびにイシュケが水を操り溶かしてくれるので、掃除は着々と進んでいった。

 終わったのは、一体いつごろだろう。

 リリーもイシュケも、ブラシを手にしたまま、絨毯の上に背中をつけて倒れ込んだ。空はまだ暗く、煌々と月が照っている。そして、煤に塗れた互いの顔を見て、どちらともなく吹き出した。


「ひどい顔だね」

「あなたもよ。埃と煤で髭みたいになっているわ」

「それは大変だ。はやく身体を洗わなきゃ」


 イシュケは急いで部屋を出て、間もなく木桶とタオルを持ってきた。


「さあリリー、そこの椅子に座って」と言いながら、桶の中でタオルを絞る。

「寒いけど、我慢して脱いで。すぐに済ますから」

「えっあの……」リリーは少年の言わんとすることをやっと呑み込んで、かっと頬を赤らめた。

「いいわ、自分でやります」

「遠慮しないで。クイーンから世話を任されているんだから」

「でも、あ、あなたは、男の子だわ」


 イシュケはきょとんと首を傾げる。


「確かに、僕は(オス)だけど。でもそれは、あの蜘蛛もでしょう?」

「レオは……」

「彼も雄でしょう。まさか、従者なのに湯浴みの手伝いもさせてなかったの?」


 リリーは返答に窮して口を閉ざした。

 彼が男性の部類に入ることは、意識せずともわかっていた。だが、自分が熱を出して動けなくなれば彼が代わりに全部してくれたのだ。食事も、全身の汗ふきも、なにもかも。もちろん逆もあった。


「レオは……レオは、従者なんかじゃないわ。カイネの言うような契約なんてしていないし、ただ同じ意志を持って旅に出ただけだもの。だから彼はたったひとりの、かけがえのない、家族みたいなもので……」


 ふたりは旅先で、兄妹だとか、夫婦だとか、お忍び令嬢と護衛のようだとか、実に様々なとらえ方をされてきた。そのたびに嬉しかったりおかしかったりして、微笑みあったものだ。


「そうなの? なんか、意外だな」

「意外?」

「僕が見る限りじゃ、そんなふうには思えなかったけどな……彼の方は特に。でもまあ、いいや。そっか、君たちは契約していなくて……あれ? じゃあ、どうしてレオはあんなふうに戦えるの? 姿を変えたり火を出したりして、まるで僕らと同じじゃないか」

「それは、……わたしにもよくわからないわ。従者という存在だって今日知ったばかりだし、レオがあんな風なのは、語ると長くなる事情があるの」

「そうなんだ」


 納得したような、していないような顔で、イシュケは濡れたタオルをリリーの手に握らせた。


「じゃあ、僕はそっぽを向いてるよ。身体が綺麗になったら教えて」

「ええ、ありがとう」


 イシュケは宣言通り、こちらに背を向けて窓の外を見ていた。リリーは手早く衣服を脱ぎ、濡れたタオルで肌を拭う。たちまち冷たい空気が肌を刺し、心臓が縮こまりそうになった。


「暖炉がなくちゃ、本当に寒いわね」

「残念だけど、ここは年がら年中そうだよ。温かいのはクイーンがいるところだけだね」

「カイネの……? どうして」

(イグニス)がいるからさ」


 透明無垢な声が、夜のしじまにぽつんと響いた。月影に黒々と覆われた背を向けて。


「そういえば、大広間では寒さを感じなかったわ」

「そうそう。あいつが温めてたんだ。凍死寸前の君たちのために、クイーンがそう命じたんだよ。クイーンは常にあいつを傍において、暖を取ってる」


 言いながらおどけたように肩をすくめる。「だから君は、要らない方をもらったってわけ。がっかりした?」

「いいえ、まさか」リリーはタオルを絞り、上から服を着た。

「暖炉のお掃除、楽しかったわ。暖炉があるなら、使えばいいのよ。もったいないもの」


 一瞬、イシュケの肩が微かに震えた。それからおもむろにこちらを振り返る。

 リリーはにっこり笑って、タオルを差し出した。


「あなたの番よ。わたしが手伝ってあげましょうか」

「いや、いいよ」イシュケも笑った。「君は(メス)なんだから」


 そうして、次はリリーが窓辺に立つ。

 窓の外はごうごうと白煙を上げて吹雪いていた。ちゃぷちゃぷと水音を耳にしながら、リリーはきゅっと胸元を掴む。

 ――彼は今、どうしているだろう。

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