第六話 エキュワイア
体内の魔力の糸をぴんと張りつめ、研ぎ澄ませる。ここは敵地だ。リリーはクイーンとやらに捕まった。すぐにでも糸で絡めて連れ去りたいところだが、目の前には一角獣が立ちふさがっている。鼻息は荒々しく燃え、鈍色の蹄は赤々と熱を帯びている。火を操る馬――自分と似た力だ。だがそれよりも、その額に猛々しく生えた角が気に入らなかった。リリーは、こいつを助けようとしたのか。
――〝あの子、ひとりぼっちなんだわ。このままだと凍えてしまう……〟
荒れ狂う吹雪のなか、リリーは必死に踏みとどまり、彷徨う一角獣に呼びかけ続けていた。こいつはどんな思いでそこにいたのだろう。滑稽だと笑っていたのだろうか。はなからこうするつもりで、リリーを誘い出したのだとしたら……
――どうした。
頭のなかに、小馬鹿にしたような声が響く。
――未だ、主人の言葉を馬鹿正直に守っているのか? 主人を危険にさらすだけだぞ。
ぶるる、と鼻を鳴らしてせせら笑う。
なぜリリーは、いつもいつも、こんな奴等のことまで案じるのだろう。
〝傷つけてはだめ!〟――ああ、あなたはほんとうに優しくて、残酷だ。
一角獣の角が火を纏う。そのまま体を前傾させ……突進の構えをとる。
――おまえも同じ従者だが、所詮は虫けら。炎を操れど、炎に弱い。違うか?
その通りだろうと思う。この体は特段、火に弱い。だが、そんなことは関係ない。
今はただ、こいつの攻撃を退けながら、リリーを救い出す方法を模索しなければ。自分にできるのはそれだけだ。
脚を曲げ、腹を深く落とす。体の隅々にまで魔力の糸が張り巡らされる。
燃える角と、糸が交錯する。
*
「まあ、いいわ。これも後回しよ。先にあなたのことを教えてちょうだい」
取り繕うように少女が促すので、リリーもおずおずと口を開いた。
「……さっきも言ったけれど、わたし、生まれてすぐに〝魔女〟だと言われて、両親から地下深くに閉じ込められたの。……」
優しくしてくれた乳母メアリのこと。
自分を食料として大切に扱ってくれた黒蜘蛛のこと。
自分の前の〝魔女〟から力を得た森の動物たちの反乱と、その陰謀に気づかないまま屋敷に帰り、一年あまりを過ごしたこと。
「金の鴉に巨大蜘蛛、『魔女』に『鉱石』……」少女は呑み込みづらそうな顔をして反芻する。
「よくわからないけど、あなたが散々な目に遭ったことだけは確かなようね」
「……でも、そのおかげでレオと出会えた。悪いことばかりではなかったわ」
「それは運が良かったからよ。蜘蛛も鴉も、金の蛇も……なにもかも、ただ事がうまく運んだだけ。彼らの益が、あなたの命につながっていただけ。よくもまあ、今まで無事に生きてこられたことね」
「……そうね」リリーは目を伏せた。「わたしひとりでは、なにも……どうすることもできなかったわ。とっくに死んでいたはず。何度も、何度もそういう目に遭って……そのたびに、救われたきた」
「それで、今回は私に乞い願うのね。……ふふ、そう落ち込まないでいいのよ。理解ある同胞に助けを求めるのは悪いことじゃないわ。それに、話をきけたおかげでなんとなくわかってきた……あなたが今置かれている状況について」
意地の悪い声が響く。
「あなた、命を狙われていると言ったわね。二年前の……その、金の鴉と思われる者に。だけど残念、あなたの命を狙う存在はもう一つあるのよ。何かわかる?」
問いかけながら、答える暇も与えず少女は身を乗り出した。誰に聞かれるわけでもないのに、ひっそりと声を落とす。
「郷よ。あなたはやはり、禁忌の存在だわ。あなたが犯したんじゃないのよ、あなたの先代の〝魔女〟よ……彼女があなたを生み出すためにおこなった儀式が、禁忌のものなの」
リリーは二年前に目にした黒い手記を思い出した。
「あの儀式が……」
「自分の血肉のすべてを人間の肉体に移すなんてねえ。おそらく自分の魂の一部をコピーしようと無理やり決行したんでしょうけど……巫女は魂の純潔を保たなければならないと定められているの。人間と交わるなんてもってのほかよ」
「でも、それが禁忌だとして、どうしてわたしが狙われなくてはならないの?」
「あなたは『魔女』の犯した禁忌の『結果』。外側が人間で中身は巫女だなんて、魂の純潔も何もあったものじゃないわ。郷は絶対赦さない。だから当然、消したがるでしょうね。あなたのことが知られているかはわからないけれど……もしバレたらたちまち追っ手が来て、連れて行かれて封印されるか……最悪、魂ごと力を全部抜き取られて死ぬでしょうね」
脳天を打ち抜かれたような顔のリリーを憐れむように、少女は目を細めた。
「郷というのは、私たち巫女が初めにこの世に誕生した聖地。私は見たことないけれどね……確かにあるのよ。ああ、巫女が何かもわかってなさそう。あなたの言う〝魔女〟の正式な呼び方よ。人間は私たちを畏れて魔女だの神だのと呼ぶけれど……本当は、巫女なのよ」
そこまで一気に言い切ってから、一旦、口を閉じる。懸命に話を呑み込もうとするリリーを待つように。
「……さっきわたしに、力が一欠片も感じられないと言ったわよね。それって……」
「本当に感じられないわ。見た目以外はただの人間そのもの。だけど、その肉体が人間のものだというのなら納得ね。あなたの中には〝魔女〟の作った人形から脈々と受け継がれた力がどこかに眠っているかもしれないけれど、人間の肉に阻まれて外に出てこられないのよ」
そんなことがあるのだろうか、と思いながらも、リリーの脳裏に昔の記憶の断片が甦る。
――大勢の金蜘蛛たちに取り囲まれ、黒蜘蛛が殺されそうになったとき、この身体を縛っていた蜘蛛の糸を自力で解き、蜘蛛たちの攻撃をはじき飛ばした……
およそ五年前の記憶だ。まだ十歳で、地の底から脱出する前だった。暴行され、傷つき倒れているレオの姿に怒りが爆発し、その瞬間に体の内側からとてつもない力を感じた……そして感じるままに、糸の拘束を破いたのだ。
あれは、自分の中に眠る、巫女の力の片鱗……だったのだろうか。
「少しは呑み込めたかしら?」
「ええ……あの、巫女って、そもそもどういう存在なの? はじめに地上に現れたって……」
「さあ、私もよくは知らない。全部言い伝えだし。ただ、神、と呼ばれる力によって地上に人間が生まれる前、大地を整える者として置かれたのが私たち巫女だそうよ。そして今も、里から各地に派遣されて、人間が住みよいように守ってるってわけ」
「大地を、守る……」
「そう。巫女には力があるじゃない。それを自分が魅了した従者に注いで……例えば私のイグニスなら炎……イシュケなら氷……そんなふうに具現化させて、大地を守ってきたのよ。私の場合は、この雪山の連なる一帯ね。荒らしてしまうと力が弱いと見なされて、すぐに郷から代わりの者と交代させられてしまうわ。そして一生、役割を与えられずに郷で寿命を迎えるのよ」
「寿命があるの? 不老不死じゃなくて……?」
「ばかね。いくらなんでも、神じゃないんだから。……五百年、と言われているわ。その代わり数が極端に少ないの。年々減ってるらしいわよ。知らないけど」
呆然とするリリーに、「だけど、あなたの場合は……」と再び意地の悪い笑みを向けた。
「肉体が人間でしょう? いくら力があるからとって、限界を迎えるのも早いんじゃないかしら。せいぜい、生きて八十……百年……そんなところじゃない? だって脆いんだもの」
リリーの耳に、もはや自分の寿命の憶測など届いてはいなかった。黒い手記の魔女の記述が頭の中をめぐっている。
――彼女はあまりに長い年月を生きた……自らを不老不死だと言っていた……だけど、五百年……彼女が死を迎えたのは、生まれて何百年目のことだったのだろう?
「一度に話しすぎたわね。まだまだ、あなたは私に聞きたいことがあるでしょうし、私も聞き足りないわ。それはおいおい話していきましょう。まずは取引よ」
取引?
意識を引き戻され、リリーは自然と居住まいを正す。少女は紅茶を優雅に啜り、ふ、と息を吐いた。
「命を狙われていて、私に助けてほしいんでしょう。いいわよ、ここにかくまってあげる。これで金色の追っ手からは逃れられるはずよ。……問題は郷ね。これもまあ……かくまっているうちは安全だと思うわ」
「本当に?」
「ええ。地上に派遣されている巫女たちをどうやって郷から監視していると思う? ほんとうに単純なやり方なのよ。郷の重役たちのなかに、〝宵の巫女〟と呼ばれている盲目の巫女がいるんですって。盲目だけど、彼女が力を与えた従者は千里眼を開眼していて、地上のどんな場所でも見通せるとか」
「地上の、どんな場所でも⁉︎」血の気の引く思いだった。「それじゃ、隠れたところで……」
「でもね、それならどうして今まであなたを捕まえられていないのかしら? あなただけじゃない、禁忌を犯したあなたの先代の巫女だって、千里眼にかかれば造作もなく捕らえられたはずよ。〝宵の巫女〟は……もう、かなり年老いているのよ。力も衰えて……すると、従者に注ぐ力の量も質も落ちていく。いつでもどこでも見通せる千里眼も、そこまでの使い勝手じゃなくなっているのかもしれないわ。一度使えば次に使うのは何日後、何週間後、何年後……といったように弱まっているのかもしれない。というより、そうとしか考えられないのよね」
だから、と続ける。
「ねえリリー、ここにいていいわよ。私の城に棲みなさい。衣食住すべて保証してあげる。決して不自由させないわ。そのかわり……」
広間の中央で、何かが衝突したような衝撃と轟音がとどろいた。蜘蛛か、馬か――だがリリーはそれどころではなかった。
「あなたの獅子を、私にちょうだい」