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宵の巫女  作者: シュリ
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第五話 雪の女王

「ごめんなさい、わたしのせいで……また、わたしのせいで……」


 小さな蜘蛛のからだは、抱きしめたくても抱きしめられない。せめて胸のなかに、そっと包み込む。その光景を、少年たちはどこか不思議そうに見つめていた。

 指先で、毛むくじゃらの小さな背中を優しく撫でる。手に温かな息をかけ、また撫でる。


「お願い、レオ。目覚めて……」

 必死に囁きかけながら、彼の体を温めようと懸命に撫でつづける。

「もう、決して無茶はしないわ。あなたを傷つけるくらいなら……わがまま言ってごめんなさい。だから……」


 そのとき、リリーの手の中で、黒い脚がぴくりと揺れた。撫でたはずみではない。確かな意志があった。リリーは歓喜に息を呑む。少年たちも、固唾を呑んで見守っていた。

 黒い蜘蛛のからだが、またぴくりと震える。六つ並んだ単眼が動いて、リリーの顔を探し当てた。


「ああ、レオ……」

 手のひらに彼を乗せ、優しく頬をすり寄せた。「よかった……よかった……」

「おどろいたなあ」

 少年が戸惑い気味に声をあげた。

「力……? なんだろう、それにしても、奇妙だね」


 もうひとりの少年は相変わらず唇を惹き結んだまま、気むずかしい顔をして黙り込んでいる。


「レオ、そのままでいいから聞いて。この方たちに助けてもらったの。わたしたち、雪山であのまま凍える寸前だったって……クイーンという方の命令で」


「私よ」遮るように遠く前方から声がした。「私がクイーンよ」


 リリーも、レオも、少年たちも、一斉に顔を上げた。大広間の前方、一番奥にそびえる豪奢な椅子に、いつの間にか少女が座っている。鮮やかで濃い青――紺碧というのだろうか、上等なドレスを身に纏い、揃いの青い靴を履いた脚を優雅に組みかえて、壇上からリリーを見下ろしていた。


「ようこそ。あなたたち、私の雪山に何の用? ただ迷い込んだわけじゃないんでしょう?」


 リリーは言葉を失っていた。肩の上まで伸びたくるくると癖のある純白の髪……色の抜け落ちたように白い肌、唇……そして、瞳孔の境の曖昧な白い瞳……!


「あなたも……〝魔女〟なの?」やっとの思いで声を絞り出す。「わたしと同じだわ。その眼、その髪……」

「〝魔女〟、ねえ」少女は軽く肩をすくめる。「その呼び方、あんまり好きじゃないけど。まあ、いいわ。あなたも同胞なら」


 リリーとよく似たその瞳は、凍てつく雪山に負けず劣らず、冷たい光を放っている。声もどことなく刺々しい。


「どうせ、ここ一帯がわたしの支配する土地だと知って奪いに来たんでしょう? いくら宵の巫女の力が弱まってるからって、ずいぶん横暴ねえ」

「えっ……えっ?」


 覚えのない言葉が一度に注がれ、混乱する。


「あの……なんのことか、わからないわ。わたしたち、雪山の魔女の噂を聞いたの。白い見た目の魔女といったら、わたしたちにも覚えがあって……もしもわたしと少なからず関係がある方なのなら、どうか助けてもらえないかと思って」

「助け?」

「ええ。その……わたしたち、命を狙われているの。話せば長くなるのだけど……」

「ふん。それでわかったわ。やっぱり私の読みが当たった」


 少女は勝ち誇ったような笑みを浮かべて立ち上がり、長い深紅の絨毯の上をつかつかと歩いてやってきた。


「あなた、どう見ても同胞のくせに、力をちっとも感じないんだもの。どんな出来損ないだって、その魂に眠る『力』の片鱗は感じるものよ。それなのに、あなたからは一欠片(ひとかけら)も感じないわ。一欠片もよ! おおかた、(さと)の禁忌に触れたんじゃなくて? そうでもしなくちゃ、そこまで隠せるものじゃないわよ」

「力……? 郷……?」

 ますますわけがわからなくなり、リリーはオウム返しに呟く。「どういうこと……? 禁忌だなんて……」


 禁忌、と自ら呟いたとき、リリーの頭の片隅に一瞬、ちらついたものがあった。

 それはかつて屋敷で目にした、魔女の血文字で書かれた手記。魔女は愛した男に未来で復讐するために、自分の体のなかのものをすべて人間の死体に移すという儀式を行っていた。そうしてできあがった魔女の『人形』から生まれた子孫が、リリーなのだ。


「心当たりがあるって顔だわ」少女が意地の悪い笑みを浮かべる。

「どういう禁忌か知らないけれど、たっぷり犯してるって感じね? ふふふ、一体何をしたの? 教えてくれないかしら。宵の巫女の目を盗んで、どんな禁忌を犯したの?」


 その瞬間、リリーと魔女の間に黒い蜘蛛が飛び出し、みるみるうちに体を巨大化させた。

「まあ」

 少女が開いた口に手を当てて目を見開く。レオはリリーをかばうように後ろへ下がらせ、少女に向かって牙を剥く。


「素敵な従者(エキュワイア)だこと。主人の危機に敏感ね? それにしても、蜘蛛だなんて。珍しいのね。私だったら絶対に選ばないわ」


 またしても聞き慣れない言葉が飛び出る。だが気にする猶予はなかった。警戒姿勢をとったレオの姿に、少年たちも顔つきを変えていたからだ。


「ふふ。そう焦るものではないわ。イグニス、あなただけでじゅうぶんよ」


 イグニス、と呼ばれて、口数の少ない方の少年が進み出た。透き通るようなエメラルドグリーンの瞳でレオを睨めつけたまま。


「ああ、いいわ、すごくいいわ」少女はなぜか頬を紅潮させ、興奮に声を高くする。「獅子(レオ)……といったかしら。ふふ、そうやってすぐに相手を警戒して……そんなに彼女が大切なのね? ああ、ひたむきね……すばらしいわ……もっとみせてほしいわ……」


 イグニスは敵愾心に燃える眼を鋭く細め、しゅうう、と口端から息を吐いた。主人の興奮に呼応するかのごとく、目には見えないオーラをめらめらと立ち上らせ、髪を逆立てている。


「さあイグニス、レオを倒しなさい。すぐに倒してはいけないわよ。私にたっぷり見せて! 醜くも素晴らしい彼の戦いぶりを!」

「待って! だめ!」リリーが転がるように割って入る。「わたしたち、戦いに来たんじゃないの! その、気を悪くさせたなら謝ります。ごめんなさい、いきなり迷い込んで、助けてほしいなんて失礼だったわ。ちゃんと一から出直します、だから――」

「失せろ、小娘」


 地の底から轟くような低い声音。それが目の前の美しい少年から発せられたものだと気づくのに時間がかかった。


「クイーンはそいつを倒せと言った。オレはそれに従うまでだ」

「そんな、やめて! 戦いたくなんかないわ!」


 両手を広げ、レオをかばうように立ったが、後ろからレオの脚がリリーの腰を持ち上げ、そっと脇にどけた。


「ふふ、彼もやる気みたいね? それなら私たちは黙って観賞に浸りましょうよ。ねえ、リリー」


 少女は意地の悪い笑みで囁く。

 リリーはめげずに身を乗り出した。


「レオ、お願い、その子も、あなた自身も、傷つけちゃだめ! 戦ってはだめよ!」

 レオの巨体がぴくりと反応する。イグニスを睨みつけたまま、じり、と距離をとった。

「あらだめよ。それじゃおもしろくないわ。イグニス、リリーを狙うのよ!」


 途端に、イグニスは身を翻して(いなな)いた。その甲高い叫びは城の空気を打ち破り、続いて彼の華奢な足先に太い蹄が現れ、筋肉の隆起した四本脚に変わり、見る間に銀色の毛並みを持つ美しい馬に姿を変えた。

 最後にもう一度嘶くと額が黄金に輝き、鋭く猛々しい一本角が現れる。

 リリーは開いた口が塞がらないままイグニスを凝視していた。だが驚愕の言葉を紡ぐより早く、彼は蹄で床を蹴り突進してくる。

 その脚を見えない何かが掬い取り、馬は転がるようにして宙を跳ねる。床に転ぶ寸前で体勢を守った。その逞しい脚首から焼け焦げたような煙が薄らと上がっている。


「火?」少女が興奮気味に声を上げた。「驚いたわ。糸ね。彼の糸が燃やしたのね。ふふふ、イグニスったら、ますます負けていられないわよ!」


 イグニスは自分の身に起こったことを理解するや否や、今度は猛烈な勢いでレオに襲いかかった。


「レオ、だめ、逃げて! 傷つけてはだめ!」

「まだそんなことを言ってるの? 彼を見なさい。あなたの声なんて、もう聞こえていないわよ」


 さっと振り返ると、薄ら笑いを浮かべた少女と目が合う。


「あの従者(エキュワイア)、主人のことが相当大好きなのね。冷静さを失っているわ。なんて美しいのかしら。あれほど醜い姿なのに……」

「レオは醜くなんかないわ」

「うふふっ……さあ、あちらでお茶でもしながら、ふたりの戦いを観賞しましょうよ。あなたたちのこと、きかせてちょうだい」

「ふたりが傷つけあっているのに、余所見なんて――」

「傷ついたって治せるじゃない。私たちなら」少女はくすっと笑う。「それとも、そうする力すらないのかしら? なにせあなた、()()()()感じられないものね……」


 玉座の手前側に、いつの間にか丸テーブルと椅子が備えられている。それは向こうの景色がはっきり見えるほど透きとおった、ガラス――いや、氷だろうか? テーブルの上には白いレースのクロスが、椅子にはふかふかのクッションが敷かれている。


「イシュケに用意させておいたの。さあ、こちらはこちらで楽しみましょうよ」


 少女がリリーの手首を掴む。ぞっとするほど冷たい手だった。そのまま強引に手を引いて、少年に椅子を引かせる。

「さあ、かけて」言いながら、少女はもう椅子についていた。

 言われるがままに恐る恐る腰を下ろすと、足元から立ち上る薄ら寒い冷気に身震いした。クッションの下……椅子の脚にそっと触れると、キンと鋭い冷たさを感じてすぐさま手を引っ込める。

「氷の椅子よ。イシュケの力なの」少女が自慢げに言った。


 間もなくして、イシュケと呼ばれた少年が盆を手にやってくる。あの朗らかな口調の少年だ。ほのかに立ち上る湯気とともに、あたりに甘い香りがたちこめた。


「飲んでちょうだい。よかったら感想を教えて」

 リリーはじっと警戒するように少女を見つめたまま、動かない。

「毒なんかないわよ。たぶんね。麓の人間に殺意でもないかぎり」

「麓……?」

「それ、『神山』への供え物だから」少女は愉快そうに笑う。「この周辺に住む人間たちは、昔からここに神がいるって信じているの。神が雪山の脅威から自分たちを守ってるって。おめでたいでしょう。もっと恐ろしい存在だとも知らずにね。それで、ときどきこうして供え物をくれるから、イシュケやイグニスに味見をさせて、食料の足しにしているのよ」


 リリーはカップの中に目を向けた。茶色い液体がなみなみと注がれている。この茶葉が、供え物なんて。神、だなんて。

 その状況は、リリーも嫌と言うほど見知ったものだった。


「わたしも、かつて神だと呼ばれていたことがあるけれど……」

「あら、やっぱり? どこがあなたの縄張りだったの? ろくに力もないのに、どうやって支配できていたの?」

「縄張りなんて、ないわ。まして支配なんて」


 リリーは顔を曇らせた。「ただ……恐れられていただけ。憎まれただけ。利用されそうになっただけ。だから、逃げたの。レオといっしょに」

獅子(レオ)、ねえ」

 少女は呟き、紅茶を啜る。「ずいぶん厳めしい名前だこと」


 リリーは不安げに身を乗り出して、大広間の中央に目をこらす。馬と蜘蛛はまだ戦っている。両者一歩も引かぬ姿に、生きた心地がしなかった。


「ふふ、私もしっかり観賞しなくっちゃ」

 少女の声は軽やかだ。「ねえ、禁忌のこと、教えてちょうだい。あなたが犯した禁忌。それとも、あなたの母親かしら? からだは共有だから、先代が犯すと末代まで響くのよねえ。嫌なつくりだわ」

「あ、あなたの言っていること、よくわからないわ。さっきからその禁忌って、わたしは何もしてないもの」

「変ねえ。見た目からして確かに同郷だと思うけれど……あなた、本当になんにも知らないの? まさか、私たちの存在とか、(さと)とかも初耳だったりするのかしら?」


 混乱の表情を見て、少女も何かを察したらしい。瞼を閉じ、紅茶を短く啜った。


「……教えてあげるわ。私たちのこと。だからその前に、まずあなたの話をしてくれるかしら? あなたが何を知っていて、何を知らないのか……どうしてそれほど力がないのか……何もわからないんじゃ、教えようがないもの」


 リリーはすっと口を開きかけて、だが躊躇うように広間の中央に視線を向ける。


「余所見をしている場合じゃないわよリリー。戦いをやめさせたかったら、はやくすべて話しなさい。いろいろ納得するまで解放してあげないんだから」


 優雅にティーカップを手にする少女は、口元に美しい笑みを浮かべているが、その瞳はまったく笑っていない。これは脅しではないのだとリリーは悟る。


「わたしが何を知っていて、何を知らないのか……それすらも、わからないわ。わたしに話せるのは、これまでのわたしの人生と、レオのこと……それだけしかないもの」

「それでいいのよ。さあ、はやく話して」

「長くなるわ」

「長い? ふふ、私とそう変わらないように見えるけれど」

「十五年よ。生まれてすぐに、この容姿のせいで両親から隔離されて……地下深くに閉じ込められて、十二年……そこから脱出して、いろいろあってから、旅を初めて……」

「ちょっと待って」少女が話を遮った。「十五年? あなた、生まれてからまだ十五年しか経っていないの?」

「ええ……」


 戸惑いつつうなずくと、少女は呆れたように視線を宙に投げた。


「信じられない。まだ全然、赤子じゃない」

「えっ――」

「あら失礼、赤子は言い過ぎたわ。幼子、ってところかしら」

「何を言って……」


 リリーは改めて目の前の少女を注視した。純白の巻き毛、真白の瞳、蝋のように白い肌――あらゆるものがよく似ている。彼女に歳を重ねた気配はない。


「私はね、生まれてもう三百年になるのよ。それでも寿命まではほど遠いわ」

「三……百……?」


 聞き間違いだろうかと耳を疑う。少女はもう一度、丁寧に、繰り返してくれた。

「ええ。三百年よ。まだまだ若いでしょう」

 ふたりの少女は、改めて、互いの抱く認識の大きな違いを知った。


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