第三十二話 旅立ちの日
厳しい冬の寒さに耐え、雪山にも春が訪れる。凍りついていた麓の村々や小さな町は春風に溶けて、人々の往来が少しずつ増えていく。だが雪山は年がら年中、雪を被ってそびえている。凍てつくような吹雪が鳴りを潜め、眠っていた動物たちが目覚めて初めて、春の訪れを感じるのだ。
朝早く、例によってノックもなしにいきなり扉が開き、カイネが顔を覗かせた。
「リリー」
カイネの貸してやったドレスではなく、初めてここに来たときと同じ、フードのついた上着を羽織ったリリーは、カイネの顔を見ると微笑んだ。
「おはよう、カイネ」
「なによ。本当にもう、行くのね」
「ええ」
「そう。……まあ、無理に引き留めたりしないけど。そうそう、これ。あなたが前に言ってたものよ。ちょうどいいのを見つけたわ」
カイネは閉じていた手のひらを開いてリリーの方へ差し出した。そこには、親指の先ほどの小さな小瓶がひとつ、細いチェーンに繋がれて収められていた。
「どう? 使えるでしょう?」
「本当にいいの? こんな……」
「いいのよ。あなたには母親の日記を直してもらったんだし。ほら、さっさと受け取りなさいよ」
と、彼女の手に無理矢理押しつける。リリーは小瓶を眺めながら、「ありがとう……」と呟いた。そして、部屋のテーブルに置かれた小箱を開いて、中身を取り出す。
カイネからすれば、何度見ても美しくない、鴉の死体。イシュケの力で凍りづけにしていたものを解凍したらしい。それを大事そうに両手に押し抱き、明るく眩しい窓のそばまで近寄った。
鴉の羽毛が黄金の輝きを放ち、次の瞬間、頭からさらさらと灰になっていく。派手に燃え上がることもなく、ただ元からそうだったように、灰の山となってしまった一部を手のひらに握り、残りは開け放った窓から空へ向かって差し出す。灰は風に乗ってどこまでも運ばれていった。
その鴉が何者で、リリーにとってどういう存在なのか、とうとう詳しいことは知らされなかった。初日に彼女から乳母の話は聞いていたし、おそらくあの鴉なのかもしれないが、なんとなく詳しく聞きだすのが躊躇われたのだ。
リリーはさっそく小瓶の蓋を開き、残った灰をさらさらと流し入れた。蓋をして、チェーンを首からかける。彼女の胸元で、灰の入った小瓶はささやかに揺れていた。
「呆れた。死体を身につけるなんて、どうかしてるわ」
「確かに、そうかもしれないけれど……でも、彼女にも世界を見てほしいから」
そう言う彼女の微笑みは、カイネにはやはり理解し難いものだった。
城の門前には、すでに他の皆が待っていた。レオは以前の黒づくめに戻っていて、イシュケに何事か話しかけられている。相変わらずぶっきらぼうで愛想の欠片もないが、初めのころに比べると、なんとなく表情が柔らかくなっているような感じがした。
「みんな、待たせちゃってごめんなさい」
「やあリリー。忘れ物はない?」
「ええ。この辺りで珍しい薬草も手に入れられたし、すごく助かったわ。ありがとう」
「僕に礼なんてよしてよ。許可したのはクイーンだよ」
イシュケが無邪気に笑うと、リリーも釣られて笑っている。冬の間はこの光景が日常だったが、それももう、ないのだ。
「リリー、あなた、この先旅がつらくなったら、こっちに戻って弱音を吐きに来ていいのよ」
「え?」
「だから、弱音を吐きに来たっていいって言ってるの。もう三度は言わないわ」
つんとそっぽを向くカイネの横顔を見つめ、リリーはうふふと笑い出した。
「なによ。どうして笑ってるのよ、失礼ね」
「ううん……カイネってほんとうに……うふふ、なんでもない。ありがとう。そうさせてもらうわ。弱音なんかじゃなくて、楽しいお話をさせてもらいに」
「どっちだっていいわよ。あなたのその人一倍強い好奇心に身を滅ぼされないように、せいぜい頑張って生きなさい」
「カイネ……」
リリーは身を乗り出して、がばりとカイネを抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、何するのよ!」
「カイネ……わたし、すごく嬉しい。この世界に、本当の姉妹がいるみたいで」
「急に何を……」
「いつでも帰れる場所があって、自分と同じものを持っている人がいるなんて、それってまるで、家族みたいじゃない」
「か、家族ですって」
目を白黒させているカイネの顔を真正面に見つめ、にっこりと笑ってから、今度はイシュケに目を向ける。
イシュケは待ってましたとばかりに両手を広げて、自らリリーを抱きしめた。
「君が幸せであるように祈ってる」
「ありがとう。わたしもよ。あなたには幸せになってほしいわ」
「僕はじゅうぶん幸せだよ。ほんとうに。君に出会えて良かった」
「まるで、二度と会えないみたいな言い方ね。わたし、またここへ来るんだから」
イシュケは寂しげに微笑んで、そっと腕を離した。
「そうだね。また会いたいよ、リリー」
彼の瞳の奥にある、切なげな光が気になりつつも、リリーはイグニスの方を向いた。
「イグニス――」
「オレに触るな」
「わかってるわ。あなたに触れていいのはカイネだけね。でも、お礼は言わせて。あなたに会えたことも、わたしにとって素晴らしい出来事だったんだから」
「ふん……」
イグニスは複雑そうな顔でそっぽを向き、いそいそとカイネの背後に寄った。彼は最後まで気むずかしいが、そうでなくては彼ではない。
「レオ、みんなに挨拶はいいの?」
レオは無言でうなずいた。
「そう。……じゃあ、わたしたち、行くわね。みんな、元気でね」
リリーは手を振り、雪に覆われた道を歩き出した。途中で何度も振り返っては、そのたびに手を振って、眩しい笑顔を向けて。
カイネも、イシュケも、イグニスも、ふたりが見えなくなるまでその場に佇んでいた。そうしてついにふたりの姿が消えると、互いに顔を見合わせた。
「……行ってしまったわね」
「寂しい? クイーン」
「まさか」
「本当? せっかくできた友だちなんだよ」
「友だち……」
カイネは、まるで初めて耳にした言葉のように、ゆっくりと繰り返した。
「そうだよ。友だちでしょう。命の危機まで共にしたんだし」
「私は別に、危機なんてなかったわよ。全部あの子の蒔いた種じゃない。私はただ迷惑を被っただけなんだから」
カイネは真っ白い頬を淡く染めて、その場をごまかすように歩き出した。
「さあ、城に帰るわよ。温かいミルクが飲みたいわ」
イグニスもぴたりと傍につく。彼女の体を温めるために、彼はいつでも傍にいる。
その光景を見つめ、イシュケはゆっくりと背を向けた。
「じゃあ、僕も行くね。クイーン」
その小さな囁きは、静謐な空気を通してカイネの耳に届いていた。
はっと振り返る。イシュケはすでに門をくぐり抜けようとしていた。考えるより先に、口が動いた。
「イシュケ!」
彼は背を向けたまま、ぴたりと足を止める。
「どこに行くの? まさか……リリーを追いかけに?」
「そんなことしないよ。追いかけたいのは山々だけど、リリーはもう、あいつと番だから」
「じゃあ、どうして……」
「どうしても何も、僕はもう、ここにはいられないでしょう」
イシュケが振り返る。最後にリリーと話していたときと同じ、寂しげな瞳でこちらを見る。
「僕はあなたから離反した。裏切ったんだよ。そんな僕がここに居続けるなんて、おかしいでしょう」
「……それは」
「それに、クイーンだって僕を棄てたじゃない。仕方ないけどね。兄と違って僕はあなたを温めることができない。せいぜい、雪山の管理ができるくらいかな。今更引き留める価値があるとは思えないけどね」
そう言って、イシュケが再び歩き出す。門柱のそばを横切って、ついに外へ出てしまう寸前、カイネは走り出した。イグニスが止める間もなく雪の上を猛然と駆けて、イシュケの背中に体当たりする。
「うわ!」
ふたりの体は雪の上を転がり、気がつけばカイネはイシュケの四肢を完全に押さえ込んでいた。
「クイーン……」
ぽたり。生温かい雫が、イシュケの頬を濡らす。それは雨のように止めどなく降り注いで、いつも澄ましたカイネの顔をひどく歪ませていた。
「ゆるさない……ゆるさないわ」
嗚咽混じりの低い声が降ってくる。
「私から離れるなんて、絶対、ゆるさない!」
「じゃあどうして、あのとき僕を棄てたの? あのときだけじゃない。あなたはずっと僕をおざなりにしてきた。温かい兄は必要でも、冷たい僕は要らないって、あなたがそう言っていたんだ」
「だって、あの頃は……なにも、わからなかったのよ!」
カイネの手が、イシュケの手首をぐっと強く掴む。
「そんなふうにしたら、あなたたちがどう思うかなんて、考えたこともなかったの!」
うわあああ、と声をあげて、イシュケの胸に顔を突っ伏した。
彼女は今まで、取り澄ました美しい顔を崩すことは決してなかった。それなのに、イシュケを追って二度も泣いている。真っ赤に染まった歪んで醜い顔。涙に塗れた顔。嗚咽と、甲高い泣き声。あまりの光景に、イシュケも、遠くでこちらを見ているイグニスも、呆気にとられるばかりだった。
ようやく泣き叫ぶ声が収まったが、弱々しい嗚咽はまだ続いていた。イシュケの胸元は彼女の涙でぐっしょりと濡れている。
「行かないで……」
ひどく掠れた声が耳に響く。
「お願い、どこにも行かないで……ここにいて……リリーのことが好きでもいいから、私の傍にいてよ」
高飛車で、愛に飢えた、愛を知らない少女。
まだ幼かった彼女がよちよち歩きで近づいて、自らざっくりと肌を裂き、舌足らずな声で呼んでくれた。死にかけていた命を救ってくれた。その彼女の顔が、目の前の、涙に濡れた顔と重なる。ずきりと胸に痛みが走った。鈍くて重い、ぎゅっと鷲掴まれるような痛み。その痛みに突き動かされるようにして、イシュケはそっと腕を動かし、覆い被さるカイネの背に、おずおずと回した。
それを待っていたかのように、雪を踏みしめる足音が響く。イグニスは彼女の傍に膝をつき、嗚咽に揺れる背を優しく撫でた。
ふたつの緑の瞳が視線を交わし、同時に少女の方へ注がれる。
カイネがゆっくりと顔を上げたとき、二対の瞳と目が合った。その瞳は柔らかな光を帯びて、さまよう彼女の心ごと包み込むような、深い眼差しを注いでいた。
*
「見て、レオ。川が流れているわ。きれいね」
山の麓は、初めて来たときからすっかり様変わりしていた。雪に閉ざされ凍てついていた景色は一変し、草花が芽生え、生き物の気配がそこかしこに満ちている。
「ねえ、今度は山の反対側を目指しましょう。小さいけれど町があるって聞いたわ。きれいな宿があるといいわね」
嬉しそうなリリーの声に、レオもまた、わずかに口元を緩める。リリーにしか見せない、特別な表情だ。
「レオ、ずいぶん表情が柔らかくなったわ。あなたにとっても、みんなとの出会いは素敵なものだったのね」
「……どうだろうな」
「きっとそうよ。だから、必ず戻ってきましょうね。ここに」
リリーの手が、レオの手首を掴む。その手が、いつの間にか握り返されて、完全に手を繋がれてしまった。
穏やかな風がふたりの間を吹き抜ける。胸元の小瓶が静かに揺れ、朝陽にきらめいた。




